もうひとりの助け主

ヨハネ14:16-17

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 一、聖霊は人格

 今年のペンテコステ、聖霊降臨日は6月8日ですので、それまでの間、礼拝で、イエスが聖霊について教えたことを学ぶことにしましょう。聖書に関する質問で、よくたずねられるのが「聖霊って何ですか」という質問です。これは、正しくは「聖霊とはどなたですか」と言うべきですね。というのは、聖霊は「もの」ではなくパーソン、「人格」だからです。日本語では「パーソン」は「人格」と言います。神に対して「人」格というのは、適切でないかもしれませんが、なかなか良い表現が見当たりません。「聖霊様」という呼び方は、聖霊が人格であることをはっきりと表わしていて、いいかもしれません。

 聖書では、聖霊を水や油、火にたとえています。それで、ある人たちは聖霊とは「神の力」を人格化したものだと言っていますが、それは間違いです。水や油、火、さらに鳩といったものは、目に見えない聖霊を目に見える形であらわしたシンボルなのです。それは十字架や魚の形がキリストを表わしているのと同じです。聖霊は、父なる神、御子イエス・キリストと同じように人格を持ったお方です。使徒信条で、私たちは「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」というだけでなく、「我は聖霊を信ず。」とも告白します。聖書は、聖霊を父なる神、御子イエス・キリストと等しい神として教え、私たちはそう信じています。私たちはバプテスマを父と子と聖霊の名によって受けましたし、毎週の礼拝の最後には「父、御子、聖霊の神に栄光があるように」と歌います。

 人間は人格的な存在で、考え、感じ、判断することのできる能力、つまり「知性、感情、意志」があります。こうした能力は神から与えられたものです。神が「知、情、意」を私たちに与えたなら、与え主である神がそれらを持っていないわけはありません。聖霊は人格が持っている「知、情、意」のすべてを持っています。聖霊は「知性、知恵、知識」を持っています。イエスは聖霊を「真理の御霊」と呼んでいますが、それは聖霊はすべてのことを、神のみこころの奥深くまでも知っており、それを私たちに伝えてくださるからです。

 また聖霊は「感情」を持っています。エペソ4:30には「神の聖霊を悲しませてはならない。」と書かれています。聖霊は私たちの罪をごらんになる時に、私たちの悪いことばを聞かれる時に悲しむというのです。とりわけ、救われ、神の子とされた人々の罪を深く悲しむのです。皆さんも、自分の子どもが何か悪いことをした時、まっさきに感じるのは「悲しみ」ではないでしょうか。他の人の子どもの場合は「怒り」だけで終わるかもしれませんが、わが子の場合は、「うちの子はどうしてこんなことをしてしまったのか」と、嘆き、悲しみを覚えることでしょう。特に母親の場合はそうかもしれません。先週、私は「神の母性」ということに少し触れましたが、聖霊は、私たちを神の子として産みだしてくださったお方ですから、このような嘆きを持たれるのは当然なのです。私は、この箇所を読むたびに、聖霊を悲しませてはいけないと思うとともに、聖霊が私のことを悲しんでくださるほどに、私を愛しておられるのだということに慰められています。

 そして聖霊は「意志、決断力、主権」を持っておられます。ルカ4:1-2に「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、 四十日間、悪魔の試みに会われた。」とあります。ここで「御霊に導かれて」と訳されていることばは、口語訳や新共同訳では「御霊にひきまわされて」となっています。もとのことばには、家畜に綱をつけて言うことを聞かせるという意味があります。私たちの主イエスは、神の御子、主権者であるのに、私たちと変わらない人間の立場に立たれて、聖霊にひきまわされるほど、完全に神に服従されたのです。そして、その時、キリストの上に主権を持っておられたのが、聖霊でした。聖霊は主権者としてすべてのものを導く力を持っておられるお方です。

 聖霊が人格であることは、ヨハネの福音書14章のイエスのことばによってもはっきりと示されています。17節に「その方は、真理の御霊です。」とあります。新約聖書のことば、ギリシャ語の名詞には、男性、女性、それに中性の区別があります。たとえば「神」は男性名詞で、「教会」は女性名詞、聖霊の「霊」(pneuma) は中性名詞です。ところが、ここで使われている「その方」(ekeinos) というのは男性の代名詞です。文法の規則によれば代名詞と、それが示すものとは一致しなければいけませんね。たとえば "She is a boy." というのは、間違いで、"He is a boy." としなければいません。ですから、「その方」という、男性の代名詞と「御霊」という中性の名詞の組み合わせは、実は文法のルールにあわない表現なのです。ヨハネは、ギリシャ語を良く知らなくて間違えたのでしょうか。そうとは考えられません。ヨハネはユダヤ人ではありましたがガリラヤ出身でした。ガリラヤ地方は「異邦人の地」と呼ばれたほど、他の国々と交流があり、彼は当時の共通語であったギリシャ語を良く知っていました。「その方は、真理の御霊です。」という言い方は、ここだけではなく、ヨハネ16:13にも「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」というところにもあるのです。ヨハネは、イエスが聖霊の人格性について強調したことを、通常の文法の規則を破ることによって、表現しようとしたのです。聖霊はご人格を持ったお方です。ですから、私たちは「聖霊って何ですか」ではなく「聖霊とはどなたですか」と言うべきなのです。

 二、聖霊はキリストに等しい

 次に、聖霊がキリストと等しいお方であることを学びましょう。イエスは「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」と言われました。ここで「もうひとりの」と訳されていることばには「同じ、同等、同質の」という意味があります。聖霊はキリストと本質的には同じお方で、キリストの代わりになることができるということです。たとえば、私が誰かから、吉川英治の『宮本武蔵』を借りてきて、それをお茶を飲みながら読んでいたとします。すると、電話がかかって来て、ハンドセットを取ろうとした時に、お茶がこぼれて本が濡れてしまいました。それは、私の不注意ですから、弁償しなければいけません。その時、私が、おなじ時代小説だからと、山岡壮八の『徳川家康』を買ってきて、返したとしたら、それは、同じ本を返したことにはなりません。それは「別の」本です。『徳川家康』は『宮本武蔵』の代わりにはならないのです。聖書は「もうひとりの」と言うとき、「もうひとり別の」というのでなく、「もうひとり同じに」という言葉を慎重に言葉を選んで、聖霊はイエスと同質のお方であると教えています。

 イエスは、この時、弟子たちを地上に残して天に帰ろうとしています。もし、イエスが、聖霊ではなく、だれか別の人間をを遣わすと言ったとしたらどうでしょうか。その人がどんなに優れた人物であっても、イエスの代わりにはなれませんね。人間でだめなら、天使ではどうでしょうか。天使が超自然的な存在であって、私たちよりもすぐれていたとしても、天使もまた、神に造られたもの、神のしもべにすぎません。イエスの代わりになることはできません。イエスと同等にイエスのかわりとなり、地上においでになれるのは、ただひとり、聖霊様だけなのです。

 三、聖霊は助け主

 聖霊はご人格であり、イエスと等しいお方であることを学びました。最後に、聖霊が、私たちの助け主だということを学びましょう。

 聖霊は「助け主」と呼ばれています。「助け主」parakuletos のもともとの意味は「そばに呼ばれたもの」です。US NEWS に、「全米の優秀な病院」という記事がありました。心臓病ならここがいい、ガンならここがいいというようにランクづけされているのです。この近くの病院が載っていないかなと探して見ましたが、カリフォルニアの病院はあまりありませんでした。どんなに優秀な医者がいても、それがミネソタやアトランタの病院であれば、いざという時には役にはたちません。私たちを助けてくれる人がどんなに力があっても、必要な時に側にいてくれなければ意味がありません。しかし、みなさんの息子さんが医者で、家に一緒に住んでいたらどうでしょうか。ほんとうに心強いですね。聖霊は、文字通り、私たちの「助け主」となるために、いつも私たちと共にいてくださる、私たちの内に住んでくださるのです。

 神は、聖霊を私たちのところに遣わすとき、ある時代のある場所にだけ遣わされたのでなく、聖霊をキリストを信じる者ひとりびとりの心の中に住まわせて、そこにずっととどまるようにしてくださいました。聖霊は、私たちのところに、ゲストやヴィジターとしてでなく、家族のひとりのように同居しているのです。旧約では「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57:15)との約束がありました。新約にはその成就があります。イエスは「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(ヨハネ14:17)と言っています。使徒パウロは「御霊があなたがたのうちに住んでおられる」(ローマ8:9, 11)と言い、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(コリント第一6:19)と教えています。あなたがイエス・キリストを信じ、心に受け入れたなら、あなたのうちには助け主、聖霊があなたのうちに住み、とどまっているのです。

 詩篇46:1には「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と歌われていますが、まさに、聖霊は「そこにある助け」として私たちとともにいてくださるのです。私たちはどこか遠くに助けを呼び求めなければならないのではなく、私たちとともにいてくださるお方から常に力と助けを受けることができるのです。聖霊は力あるお方、神としての力を持ったお方です。聖書は、私たちが神により頼むなら、聖霊の力を受けることができると約束しています。しかし、もっと素晴らしいことは、聖霊がいつも私たちとともに、私たちのうちにいてくださるということです。私たちの人生の日々は、毎日平坦な道をあるくようなわけにはいきません。坂道もあれば、崖っぷちにたたされる日もあります。失望や落胆ににうちのめされる時もあるでしょう。疲れきって、前に進めない時もあります。何をどうしてよいかわからずに立ちすくんでしまう時があります。しかし、そのような時も、わたしたちはひとりではないのです。聖霊がともにいてくださる、私たちの内にいてくださり、どんな状況の中でも、そこから立ち上がる力を与えてくださるのです。聖霊の力は素晴らしいものですが、聖霊の恵みは、そのアビリティだけでなく、そのアべイラビリティにあるのです。どんな時も、そこにある助け、そばにいてくださる助け主、聖霊を信じ、頼っていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストを私たちに遣わしてくださったばかりか、その後、イエス・キリストにかわって聖霊を私たちに遣わしてくださったことを感謝いたします。あなたは罪の中にあった私たちをきよめ、受け入れ、造り変え、聖霊の住いとしてくださいました。聖霊は私たちをかたときも忘れず、私たちの「助け主」として、そこにいてくださるのに、私たちは、なんとしばしば聖霊がともにいてくださることを忘れ、聖霊を悲しませていることでしょうか。私たちの不信仰をお赦しくださり、いまいちど、私たちを聖霊によって歩むものとしてください。あなたとともに私たちに聖霊を遣わしてくださった主イエスのお名前で祈ります。

5/18/2003