道、真理、命

ヨハネ14:1-7

14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

 今は、日本でも学校の様子がずいぶん変わったと思いますが、三、四十年前、私が日本で教育を受けたころは、学生たちは、教授が話すことを黙って聞き、ノートを取るだけで、授業中に、教師に自由に質問することなどは、考えられませんでした。試験や課題が出ても、教師が何を求めているかを察して答えなければなりません。教師に向かって試験の質問があいまいであるとか、課題で要求されていることが良くわからないなどとは言えませんでした。試験でも課題でも、教師の意見に賛成するようなことを書けば良い点をもらえましたが、教師や教科書に反対するようなものは、いくらそれがすぐれていても受け入れられませんでした。ですから、私がアメリカに来て教育を受けた時には、学生たちが教師が話しているのをさえぎって質問したり、自分の意見を言ったりするのを見て、とても、好ましく思いました。教師たちも、学生の質問を歓迎し、それに的確に答えてくれました。学期の終わりには、学生が教師を評価するマークシートが配られるのには、驚きましたが、学生が良い成績をとろうとするのと同じように教師も良い評価を受けるため、担当の教科をより良くしていく努力をしていました。

 今から二千年前のユダヤの教育でも、質問やディスカションが許されていましたが、普通は、教師から教えられるユダヤの伝統を詰め込むだけのものでした。ところが、イエスが弟子たちを教育した方法は、当時の方法とはまったく違ってとても自由なものでした。イエスは最後の晩餐の席で、世を去る前、もういちど弟子たちを励ますため、弟子たちを教えるのですが、その教えが何度か中断されるほど、弟子たちが次々と質問しているのを許しています。質問の口火を切ったのはペテロです。13:36にそのことが書かれています。ペテロは、積極的で情熱的な人で、たいていのことで、他のどの弟子よりも真っ先に、口を開き、行動を起こす人でしたが、ここでもそうですね。次がトマスで、それからピリポが14:8で、イスカリオテでないユダも22節で質問しています。イエスはふだんから、弟子たちに質問を投げかけ、また、弟子たちの質問を聞くという、きわめて現代的な教育をしていたことがわかりますが、今朝は、トマスの質問を中心に、それに対するイエスの答を学ぶことにしましょう。

 一、イエスの教え

 イエスはペテロの「主よ。どこにおいでになるのですか。」(13:36)との質問に「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。」(13:36)と答えました。実際、イエスが最後の晩餐の後、ゼッセマネの園で捕まえられた時、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまったのです。イエスの十字架のもとまでついていったのは、女の弟子たちと最年少のヨハネだけでした。ペテロは「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」(13:37)と言いましたが、彼は、大祭司の庭で「あなたはイエスと一緒にいた人だろう?」と言われ、イエスを「知らない」と三度も否定してしまいました。ペテロはイエスの十字架のそばまで従うことができませんでした。しかし、もし、ペテロがイエスの十字架の側近くまで従っていったとしても、イエスの十字架を代わって受けることはできませんでした。イエスが十字架の上で味わった死は、特別なもので、誰も代わることのできないものでした。それは、私たちの罪のための死でした。イエスはそこで私たちに代わって罪の刑罰を受けてくださったのです。これは、ただひとり、罪のない、神の子、イエスにだけできたことです。また、イエスが味わった十字架の苦しみは、肉体の苦しみだけでなく、神から引き離され、絶望とのろいの中に置かれる、地獄の苦しみでした。イエスは十字架の上で罪となり、のろいとなり、神に見放されたのです。それで、イエス十字架の上で「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。神から見捨てられる苦しみは、どんな人間も耐えることはできません。イエスだけが、それを、私たちの救いのために耐えてくださったのです。誰も、イエスの十字架をかわりに受けることも、その苦しみの一部分でも引き受けることもできないのです。イエスがペテロに言われたように、それは、私たちがついて行くことのできない特別なものだったのです。

 イエスが十字架の死を通られたのは、私たちの身代わりに、罪の刑罰を引き受けるだけでなく、私たちに、天国をもたらすためでもありました。羊飼いは、羊を導く時、はじめて行くところには、草を踏み分け道をつけ、先に歩いていき、安全を確かめてから羊をその道に導きます。ご自分を「良い羊飼い」と呼んだイエスは、イエスを信じ、イエスにしたがう者たちが確実に神のもとに行くことができるため、天国のマンション、ホームに到着することができるために、すすんで、死の谷間を歩んでくださったのです。

 イエスは弟子たちに約束されました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(14:2-3)イエスに従う者には、天に「住まい」が用意されています。「住まい」という言葉は英語では「マンション」と訳されていますが、それは、地上のどんな豪邸(マンション)にもまさるものでしょう。天国のことについて、コリント第一2:9に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」とありますから、イエスが私たちのために天に用意してくださっている所が、私たちの想像もつかないほど素晴らしいものであるに違いありません。イエスは、十字架で、私たちの罪をその身に背負い、天に帰りましたが、今度は、天で私たちが受け継ぐ祝福を携えて、もういちど来てくださるのです。イエスは、私たちの罪というマイナスを引き受け、私たちには、天の住まいとそのすべての祝福というプラスを与えてくださるのです。イエスの救いは、罪というマイナス面からの救いだけでなく、私たちに天の栄光にむけての救いでもあるのです。

 二、トマスの質問

 イエスは、何度も、弟子たちに、キリストは神のもとから来て、神のもとへと帰るのだということを教えてきました。それで「わたしの行く道はあなたがたも知っていますね。」(14:4)と念をおしましたが、弟子たちはイエスの教えを正しく理解できませんでした。それで、トマスが、こう質問したのです。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう。」(14:5)トマスのこの質問には、失望や落胆の感情が込められています。19世紀は楽観主義の時代、進化論が生まれた時代で、人類はかぎりなく進歩し、人間の理性によってすべてのことが明らかになると信じられていました。しかし、二つの世界大戦と、戦後の東西の対決を経て、物事はそう簡単ではないことがわかってきました。今、また世界は、戦争の危険に直面しています。ある人が「平和とは戦争と戦争の間のほんのわずかな合間である。」と言いましたが、おそらくは世界で戦争のなかった日は一日としてなかったのではないかと思います。ひとつの地域での戦いが終わっても、別の地域で紛争が起こるのです。戦争の危機と同時に、地球環境の危機、経済の危機や道徳の危機もあります。こうしたものが複雑にからみあって、まったく出口が見えないのが、今の世界です。世界の指導者たちが国際連合に集まって話しあうのですが、解決の糸口すら見つかりません。「私たちにはわかりません。どうしてその道がわかりましょう。」世界の指導者たちから、トマスと同じ叫びが聞こえてくるかのようです。

 また、このような世界に生きる私たち個々人も、いったいどの道を歩けばいいのかが分からないでいます。最近のニュースで、日本の若者たちがインターネットで知り合って、一緒に自殺をするというケースがいくつもあるということを知りました。彼らは「生きていてもしょうがないから死ぬのだ。」というのですが、実に悲しいことです。彼らに「人はどこから来て、どこへ行くのか」ということが分かっていたらと思います。「人はどこへ行くのか」、なぜ、何のために人は生きるのか、この答えは、「人はどこから来たのか」ということを知ることによって得られます。ひとりひとりの命は神が造られたもので、その人生には意味や目的があることを、死に急ぐ若者たちが知っていたならと、思います。たとえ、人生が空しく見えたとしても、それを満たしてくださるお方がいる、人生が苦しみで満ちているかのように見えても、苦しみが喜びに変わる日があることを知ってほしいのです。多くの人が命にいたる真理の道を知りません。人のいのちがどこから来て、どんな価値があり、意味があるのか知らないのです。たましいのこと、信仰のこと、霊的なことに、驚くほど無知です。だから、たやすく迷信や、人格や社会を破壊してしまう教えに乗ってしますのです。「私たちにはわかりません。どうしてその道がわかりましょう。」トマスと同じような落胆の叫びが聞こえてくるようではありませんか。

 三、イエスの答え

 この叫びにイエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と答えてくださいました。イエスは、単に知的な答えではなく、「わたしだよ、わたしが答えだよ。」とご自分を示してくださったのです。

 イエスは「ここに道がある。そこに真理がある。あそこに行けば命が得られる。」とは言いませんでした。イエスご自身が道であり、真理そのものであると言われたのです。そこに道があり、それが真理にいたることを知っていても、そこを歩む力、いのちがなければ、人は神のもとに行くことはできません。イエスは、同時に、私たちを生かすいのちでもあるのです。イエスは、「わたしはいのちのパンである。」(6:48)「わたしは世の光である。」(8:12)「わたしは門である。」(10:9)「わたしは良い羊飼いである。」(10:14)「わたしはいのちである。」「わたしはよみがえりである。」(11:25)と言われました。イエスは、私たちのすべてのすべてであると言っても良いでしょう。しかも、イエスは「わたしのところに来なさい。」「わたしを信じなさい。」と、他の誰かではなく、常に、ご自分をさししめしています。なぜでしょう。それは、イエスが神の御子であり、神と等しいお方であるからです。イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)と言っています。ご自分を対等であると言っています。イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(9節)とも言っています。キリストは、見えない神が見える姿であらわれてくださったお方です。イエスが神であるからこそ、このお方を「道であり、真理であり、いのちである。」と信じることができ、また、そう信じてより、神に近づくことができるのです。

 ところが、トマスも、ピリポもこのことを十分理解していませんでした。ピリポはそれを体験で知ろうとし、トマスは知性で知ろうとしています。しかし、このことは信仰でとらえなければならないのです。トマスは、イエスの弟子の中でも論理的なものの考え方をする人でした。知性でものごとをとらえようとする傾向がありました。神は知性を持ったお方であり、聖書には論理があります。信仰は、論理や知性を否定するものではありません。しかし、人間の論理には限界があり、私たちの知性で知ることのできる範囲にも制限があります。私たちは、神が私のすべてを知っておられるようには、神のすべてを知ることができません。神を、キリストを論理や知性だけで知ろうとしたら、失敗するでしょう。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治などといった日本の多くの知識人が神を求め、キリストを知ろうとしましたが、ついに信仰にいたることができませんした。それは、キリストを知性だけで追求したからです。こうした人たちは、キリストを、道を指し示す者、また、真理を教える者と考えました。イエスを、宗教家や哲学者、道徳の教師のひとりであると考えたのです。それで真理にいたることがなかったのです。私たちに必要なのは、イエスが「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われたように、生ける神と神の御子に対する人格的な信仰なのです。

 イエスは「わたしが道である。」と言われました。イエスはたんに神にいたる道をさししめすだけではなく、神にいたる道そのものとなってくださいました。ヘブル10:20に「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」とありますが、イエスはご自分のからだを十字架にささげ、そのからだが私たちと神とをつなぐ道となるようにしてくださったのです。以前のことですが、フィリピンで客船の事故があった時のことです。事故のため船体のあちらこちらに亀裂が入りました。避難する人々の中にはその裂け目を飛び越えられない人もいました。その時、ひとりのイギリスの男性がその裂け目にうつぶせに身体を横たえ、「さあ、私の背中を通っていきなさい。」と言って、多くの人を助けたことがあります。この人の背中は文字通り、人々の道になったのです。イエスも、神と人との間にある深い罪の淵に、ご自身を横たえ、私たちの神にいたる道、救いの道となってくださいました。「道であり、真理であり、いのちである」お方によって、私たちも、神のもとに近づこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、道を求めながらそれを見出せないでいる世界に、イエス・キリストによって道と、真理と、いのちを示してくださいました。将来が見えないで心騒がせている私たちに、天にいたる道ばかりでなく、そこに備えられた栄光をも見せてくださいました。キリストを信じることによって、人生の疑問に答えを得、そして、道も、真理も、いのちも見失っているこの世界に、あなたの救いをさししめすことができるよう、私たちをお助けください。キリストのお名前で祈ります。

3/9/2003