愛の贈り物

ヨハネ12:1-8

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

 今週ヴァレンタイン・デーを迎えます。この日は、私たちに「愛」ということを考えさせてくれます。クリスチャンでない方は、男女の愛、家族の愛、あるいは友情といったことを考えるでしょうが、私たちは、神の愛を心に思い浮かべます。人は神の愛を知ってはじめて、ほんとうの意味で愛を知り、きよい愛で人を愛することができるようになります。しかし、神への愛や人への愛を持っていても、それを表わさなかったら、愛は伝わりません。人に対して愛を表わす方法については、学ぶ機会が多いのですが、神に対して愛を表わすこと、またその方法については学ぶことが少ないように思いますので、今朝は、イエス・キリストへの愛を表わしたマリヤから、どのようにして神への愛、キリストへの愛を表わすことができるかを学ぶことにしましょう。

 一、愛の表現

 ここに出てくるマリヤは、イエスに生き返らせてもらったラザロの妹で、マルタという姉妹がいます。皆さんも「マルタとマリヤ」という組み合わせで覚えておられることと思います。まず、この「マルタとマリヤ」のふたりを比べてみましょう。マルタとマリヤは対照的で、マルタは外向的で、マリヤは内向的でした。マルタは活動的で、マリヤは思索的でした。

 この箇所は、イエスのための盛大な晩餐会での出来事を書いているところですが、この晩餐会で、マルタは「給仕していた」(2節)とあります。この言葉はルカ10章38〜42節に書いてあることを思いおこさせますね。マルタはイエスを自分の家に迎えました。マルタはイエスをもてなすのに忙しくしていましたが、妹のマリヤはイエスの足もとに座ってイエスの教えを聞いていました。それを見たマルタはイエスに向かって不平を言ったのです。「主よ。妹がわたしだけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」良く活動する人の心には、知らず知らずうちに「私はこれだけのことをしているのに、あの人は何もしていない」という思いが入り込んでくることがあります。マルタもそうだったのでしょう。マルタはじっと座って少しも手伝いをしないマリヤに腹を立て、妹を非難しています。マルタは自分からすすんでイエスをもてなしたのですから、喜んでそれをすれば良かったのですが、忙しさに心を奪われて、他の人を非難しはじめたのです。何でも良くできる人は、他の人が良くできないのが気になり、熱心に活動する人は、他の人はみんな怠けているように見えるのかもしれません。しかし、実際はそうではないのです。マリヤは何もしていなかったのではなく、「イエスの教えを聞く」という一番素晴しいことをしていたのです。神への愛、イエスへの愛の表現はひとつだけではありません。それぞれにそれぞれに愛の表わし方は違うし、また、違っていいのです。自分の物差しで人を量りだしたら、他の人への不満ばかりが大きくなって、奉仕の喜びがなくなってしまいます。私たちも気をつけたいですね。

 良く活動する人は、その活動を認めてもらいたいという思いが強く働きます。マルタはイエスがちっとも自分に振り向いてくれないのに、いらいらしていたのかもしれません。しかし、奉仕は、神の愛に応えてささげるものであり、それと引き換えに神の愛を得るものではありません。奉仕や活動によって神に振り向いてもらおうとしたなら、奉仕や活動で疲れ果ててしまいます。神の愛は、私たちの奉仕と引き換えに与えられるようなものではないのです。マルタはこのことが良く理解できていませんでした。それで、「主よ。妹がわたしだけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」と、マリヤだけでなく、マリヤが何もしないでいるのを認めているイエスを非難しているのです。イエスはマルタのお客様であり、主であるのに、いつの間にか、マルタが主になって、マルタはイエスにさえも指図するようになってしまったのです。マルタはイエスへの愛のゆえに一所懸命にもてなしをしたのですが、その心がイエスよりも、イエスに対する奉仕に向かってしまい、結果として、イエスを愛するよりも、イエスを非難するようになってしまったのです。活動的であることは素晴しいことです。奉仕に励むことも良いことです。しかし、忙しく動きまわることだけがイエスへの愛を表わすことではないのです。活動だけに心を曳かれていると、大切なものを見失ってしまいます。

 一方、マリヤは、回りの人を気にすることなく、また、自分を前に出すことなく、しもべになってイエスに仕えました。ルカの福音書でマリヤはイエスの足元に座っていましたが、ここでも、マリヤはイエスの足元にひざまづいています。これは、マリヤのへりくだりを表わしています。当時、こうした晩餐の席では、その家のしもべが客人の足を洗うのが慣わしになっていました。マリヤは、この晩餐の席で自ら進んでしもべの役割を引き受けています。彼女はイエスの足を水で洗う以上のことをしたいと考え、香油でそれを洗い、しかも、自分の髪の毛で香油を拭ったのです。今でもそうでしょうが、当時の女性にとって、髪の毛は大切なものでした。ユダヤでは女性は人前では必ず髪を結わえていなければならず、その髪をほどいて、それで足を拭うというのは、女性にとって最も謙遜な姿でした。マリヤは、この時イエスの足もとに一切を投げ出し、イエスを主として、神として礼拝したのです。

 男の弟子たちはと言えば、最後の晩餐に臨む時も、誰が一番偉いかということが話題の中心で、誰も、他の弟子たちの足を洗うことをしなかったばかりか、進んでイエスの足を洗う弟子もありませんでした。かえって、イエスが弟子たちの足を洗いはじめました。それで男の弟子たちはイエスの足を洗う機会を逃してしまったのです。男の弟子たちは、常に自分を主張し、イエスの足もとにひれ伏すことをしませんでした。しかし、マリヤは自分を低くして、イエスにすべてをささげました。マリヤだけがイエスの足を洗う特権にあずかったのです。

 3節に「家は香油のかおりでいっぱいになった。」とあります。マリヤのように、自分を主張せず、お返しを求めず、イエスの足元にひれ伏し、イエスを主とあがめてささげる愛は、まわりの人々に良い香りとなってひろがっていくのです。そのような愛を私たちも主イエスにささげていきたいと思います。

 二、愛の価値

 次にマリヤがささげたものについて見ましょう。聖書はマリヤのささげた香油を「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラム」と詳しく描写しています。ナルドの香油は、はるばるインドからイスラエルに運ばれてくるもので、三百グラムは、当時のお金で三百デナリはしました。一デナリは一日分の賃金ですから、三百デナリというのは一年分の収入になります。マリヤは年収のすべてをイエスにささげたことになります。

 しかし、イエスがマリヤのささげものを喜ばれたのは、マリヤのささげたものが高価だったからでしょうか。そうではないと思います。イエスはレプタ銅貨二枚をささげたやもめの献金を誉めています(ルカ21:1-4)。レプタは、当時の最小単位のお金でしたが、実は、このやもめにとってレプタ二枚が持っているお金の全部だったのです。他の人はありあまるものの中から、その数パーセントをささげたにすぎなかったのですが、このやもめは持っているものの百パーセントをささげたのです。同じように、マリヤにとってナルドの香油は、彼女が持っていたもののすべてだったのでしょう。ラザロの家がいくら裕福でも、年若い女性が高価なものを数多く持っているとは思えません。マリヤは自分がささげた香油がどれほどの値打ちのあるものか知っていました。この香油は、結婚する時に、夫の家に持っていくべきものであったのかもしれませんが、マリヤは、最も価値あるもの、かけがえのないものを、イエスにささげたかったのです。彼女のささげたものには、イエスを最も価値あるお方とする、彼女の心がこめられていたのです。

 お金は価値を表わします。ですから、その人が何のためにお金を使っているかを見ると、その人が何に価値を置いているか、何を大切にしているかが分かります。人は、自分が価値を感じるもののためにはお金を惜しみません。芸術に価値を感じる人は何千ドルとする絵でも、惜しいとは思わずお金を使うでしょうし、旅行が好きな人は借金をしてでも世界中を旅して回るでしょう。イエスが「あなたがたの心のあるところに宝もある」と言われたとおりです。しかし、自分が価値を認めないものには、一ドルでも、一セントでもそれを惜しいと思うものです。この時、イエスを裏切ったユダは、マリヤのしたことを批判して言いました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5節)ユダは、香油をイエスにささげることに価値を見いださなかったのです。

 ユダは「イスカリオテのユダ」と呼ばれていますが、「イスカリオテ」の「イス」というのは「人」という意味ですから、「カリオテの人」ということになります。イエスの弟子たちの多くがガリラヤ出身であるのに、ユダだけは、カリオテ出身でした。カリオテは、ガリラヤにくらべて都会で、数多くの知識人がいたと言われています。ですから、「イスカリオテ・ユダ」という呼び名は、「都会人のユダ」「シティ・ボーイのユダ」ということになるでしょう。イエスの弟子には、取税人のマタイという、財務の専門家もいたのですが、ユダが会計係を任されていたのは、彼にはそれだけの優れ知識や才能があったのでしょう。ユダは自分に与えられている賜物を生かす奉仕をしていたのですが、彼はそれをイエスへの愛や人々への愛のゆえにしていたのではなかったのです。ユダは、後に、イエスを銀三十枚で祭司長たちに売り渡します。当時、銀一枚は4デナリでしたから、ユダの受け取ったのは120デナリというわけです。ユダは、神の子、人類の救い主の価値を、ナルドの香油の半分にしか見ることができなかったのです。ユダは、マリヤに「何のために、香油をこんなにむだにしたのか」(マルコ14:4)と言いましたが、ユダこそ、せっかく与えられた知識や才能を、その人生をむだにしたのです。

 しかし、マリヤは信仰によってイエスの尊さを知り、最も尊いお方、最も価値あるお方に、彼女の持っていた最も価値あるものをささげたのです。私たちもそのような愛の贈り物をイエスにささげたいものです。イエスはマリヤに「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)と言われました。マリヤのささげたものは、決してむだにはならず、イエスはマリヤの人生をも価値あるものにしてくださったのです。

 三、愛の洞察

 最後に、この時、マリヤがイエスのおこころをどう理解していたかを見ましょう。イエスは、ユダの非難に対してマリヤをかばってこう言いました。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(7節)これは驚くべきことばです。この時、マリヤは、イエスの死を感じ取っていたというのです。マリヤがイエスの足に香御心を油を注いだのは、イエスがいよいよエルサレムに入城するという時でした。人々は「いよいよ、イエスが旗を上げる日が来た。これでユダヤも、ローマの支配から逃れて自由になれる。」と考え、弟子たちも「イエスが王になったら、自分たちもその右に、あるいは左に座って、人々を治めるようになるのだ。」と考えていました。しかし、イエスがエルサレムでなさろうとしていたのは、ユダヤをローマの束縛から解放することではなく、人類を罪の奴隷から解放することでした。イエスが受けようとしていた栄光は十字架だったのです。イエスはかねてから、弟子たちに「エルサレムで人々の手に渡され殺される。しかし、三日目に死人の中からよみがえる。」と預言していました。しかし、弟子たちは、イエスの預言を心に留めるどころか、自分たちの勝手な推測をふくらませていただけだったのです。

 しかしマリヤは、イエスの受難を誰も察することができないでいた時に、すでにイエスの死を直感していました。そして、彼女は、イエスに香油を塗ることによって、イエスの葬りの用意をしたのです。イエスが亡くなられた時、男の弟子たちはユダヤ人を恐れて雲隠れしてしまいましたが、女の弟子たちは、イエスのからだに香油を塗ろうとして、墓まで行きました。しかし、彼女たちが墓についた時には、イエスはすでに復活していて、用意した香油は無駄になってしまいました。女の弟子の中で、イエスに葬りのための香油を塗ることができたのは、マリヤだけでした。マリヤは、男の弟子たちの誰もしなかったイエスの足を洗うことばかりでなく、女の弟子たちの誰もが出来なかった葬りの香油を塗ることができたのです。

 マリヤがこのようにイエスの心を知ることができたのは、なぜだったでしょう。それは、マリヤがいつもイエスの足元にいて、イエスのことばに耳を傾けていたからです。「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」とルカ10章にありました。イエスはみことばに聞くことを「どうしても必要なこと」「なくてならぬもの」と言われました。イエスへの愛を表わすのに、「どうしても必要なこと」「なくてならぬもの」は、まず、イエスの心を知ることです。イエスは「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたのです。」(ヨハネ15:15)と言っています。命じられたからそうするというのではなく、イエスのこころを、計画を、願いを、望んでいること知って、それに進んでこたえることを、イエスは私たちに求めているのです。マリヤはイエスのしもべとなりましたが、同時に、イエスの友となって、イエスのおこころを知り、それにこたえ、愛の贈り物をささげました。私たちも、同じように、もっとイエスの心を知り、それにこたえる、愛の贈り物をささげる者となりましょう。

 (祈り)

 愛する主よ。私たちも、マリヤのような謙遜、信仰、洞察をもってあなたを愛するものとしてください。私たちの精一杯の愛をあなたにささげさせてください。ナルドの香りが家いっぱいに広がったように、私たちの献身を通して、あなたの愛と恵みが、私たちの回りの人々にも届けられるようにしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/9/2003