イエスの涙

ヨハネ11:30-37

11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

 今日は聖書クイズからはじめましょう。聖書で一番長い章はどこでしょう。詩篇119篇ですね。全部で176節もあります。では一番短い章は?やはり詩篇で、117篇です。2節しかありません。詩篇117篇は聖書のおよそ真中にあたるところでもあります。聖書の真中を開くと詩篇117篇が出てきます。それでは一番長い節はどこでしょう。エステル記8章9節です。

「そのとき、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてすべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や、総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに詔書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。」 とあって、点や丸を入れないで、新改訳では145文字あります。最後に、一番短い節は?それが、今、ごらんになっているヨハネ11:35です。「イエスは涙を流された。」日本語で10文字、英語では "Jesus wept." とたった二つの言葉しか使われていません。しかし、この聖書で一番短い節は、私たちに多くのことを語りかけています。今朝は、「イエスは涙を流された。」という言葉が教えていることを学びましょう。

 一、涙される神

 「イエスは涙を流された。」この言葉を読んで「イエスは神であり、救い主であるのに、人間と同じように涙を流す、泣くというのは、おかしいのではないか。」と考える人もいるかもしれません。確かに、神は、私たちと違って、泣いたりわめいたり、あたりかまわず怒りちらしたりなさるお方ではなく、いつ、どんな場合でも、冷静、沈着にものごとを判断し、対処なさるお方です。しかし、神を、どんな感情もお持ちにならない鉄のように冷たいお方、どんなことにも感情を表わさない石のようなお方と考えるのは間違っています。聖書を読むと、神が、私たちのどんなに小さなことにも関心を示し、反応してくださる、豊かな感情を持っておられる方であることがわかります。

 イエスは、いなくなった羊のたとえ話をされた時、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)と言いました。天で、神が大喜びをしておられるというのです。放蕩息子の父親は、いなくなっていた息子が帰ってきたとき、自分のほうから息子に走りより、ハグし、キスし、家に迎え入れ、息子が帰ってきたことを喜こんで宴会を始めたと書いてあります。放蕩息子の父親は、父なる神をたとえていますから、イエスは、神が私たちの悔い改めをどんなに喜んでくださるかを、このようにたとえ話で教えたのです。タラントの譬え話では、主人は忠実なしもべに対して「よくやった。忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)と言っています。神が私たちのことをどんなに喜んでくださるかが、多くの箇所で描かれています。

 神は、私たちが神に立ち返り、神に従うなら、それを大喜びしてくださいますが、もし、私たちが神から離れ、神に逆らうなら、神はそれをとても悲しまれます。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません。」とあります。クリスチャンが罪を犯す時、クリスチャンのうちに宿っていてくださる神、聖霊はそれを悲しまれるのです。神は、このように喜んだり、悲しんだりされるお方です。

 ある時、私が、このように聖書学校で教えていましたら、学生のひとりが、「なるほど、聖書は神を人間になぞらえて描いているのですね。」と言いました。私はその時、「いや、そうではありません。神が人間に似ているのではなく、人間が神に似ているのです。」と答えました。私たちが「喜怒哀楽」の感情を持っているのは、神が「喜怒哀楽」をお持ちだからです。私たちは「神のかたち」に、「神に似せて」つくられました。神が知性を持ち、感情を持ち、意志をもったお方であるように、神のように完全ではありませんが、私たちも、知性を持ち、感情を持ち、意志を持つ人格とされたのです。私たちに感情があるのなら、神にはもっと豊かな感情があるのは当然です。

 イエスは神の御子であって、神の「喜怒哀楽」をそのまま私たちに示してくださいました。イエスは、父なる神に祈る時、多くの場合、「喜び」にあふれて祈りました。イエスは、神の宮を商売の家にしているのを見て「怒り」、両替の台をひっくり返し、縄で鞭をつくって、商売人を追い出しました。イエスは、大勢の病人を見て、彼らを「深くあわれんで」、ひとりひとりに手を置いて、病気を直してあげました。また、イエスは、悔い改めた人々と食事をいっしょにして「楽しみ」ました。

 イエスは、神の御子として、神がどのようなお方であるかを示すとともに、人として、人間のあるべき姿を示してくださったお方です。イエスが示し、教えてくださった、理想的な人間の姿とは、感情が凍りついたような冷たい人間ではありません。本当の人間らしさは、泣いたり、笑ったり、あるいは怒ったりすることの中にあるのだと、イエスは身をもって教えておられます。

 私たちは、感情面を無視してはものごとを解決できません。人生の問題は、理屈で解明できるものがすべてではありません。たとえ、理屈で納得したとしても、その理屈どおりに、理論どおりに生きられる人はほとんどないでしょう。多くの問題は、私たちの感情に深く根ざしています。私たちが自分を愛せなかったり、人を愛せなかったりするのは、私たちまだいやされていない心の傷を持っているからであることが多いのです。感情のいやしや解放がないために、せっかく与えられた良いものをマイナスに作用させたり、頭では分かっていても、それとは逆のことをしてしまうということになるのです。私たちは、イエス・キリストを信じることによって真理を知り、それによって知性を明らかにされるのですが、それとともに、イエス・キリストとのまじわりによって、感情の面でのいやしも体験するようになります。感情のいやしは、私たちが人生の問題を乗り越えていくための大きな力になります。神は感情豊かなお方です。この神とまじわることによって、私たちも感情が解放され、豊かなものにされていくのです。

 二、共に泣いてくださるお方

 イエスは涙されました。このことは、いろんなことで涙を流す私たちに、何かしら安心感を与えてくれます。私たちも、泣いていいのだという気持ちになれます。イエスは、私たちの涙の意味を知っていてくださるのだということによって、励ましを受けることができます。

 イエスが涙されたのは、イエスが親しくしていたラザロが死に、その墓に向かわれる時でした。ラザロにはふたりの姉妹がいました。マルタとマリヤです。イエスはまず、イエスを出迎えにきたマルタに会いました。その時家にいたマリヤは、マルタから、イエスが来られたことを聞いて、イエスのもとにやってきました。マルタはすこしは冷静にイエスとやりとりできましたが、マリヤは、イエスを見ると、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言って、その場に泣き崩れるばかりでした。マリヤが泣き、マルタやマリヤを慰めようとしてやってきた人々が泣いているのを見て、心を動かされ、イエスもまた「涙を流された」のです。

 日本語に「もらい泣き」という言葉がありますが、イエスは、この時、人々の悲しみにこころから同情して泣かれたのです。イエスは、人の悲しみにとても敏感で、それに共鳴してくださるのです。聖書に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とありますが、こう教えてくださったお方みずからが、「泣く者といっしょに泣」いてくださっているのです。

 皆さんの多くは、それぞれに愛する方々を亡くされた経験がおありだと思います。そのような悲しみの中でいちばん支えになったのは、あなたの悲しみをいっしょに悲しんでくれた人々がいたということではなかったでしょうか。「つらいこともあれば、いいこともありますよ。」「わたしの場合はこうやって悲しみを乗り越えることができました。」などと、ついつい、私たちは親切のつもりで、教訓めいたことを言ったり、自分の体験をおしつけようとしたりしがちですが、悲しみのどん底にある人には、そうした言葉がかえってつらく聞こえることもあるのです。そのような人は、多くの場合、誰かが、ただ側にいていっしょに悲しんでくれることを求めているのです。私たちには、自分といっしょに共感してくれる人が必要です。それによって私たちは力を得るのです。

 最近、チェスのチャンピオン、ロシアのクラムニクさんがコンピュータと対戦して引き分けになったそうです。コンピュータと人間とのチェス対決はここ数年来のことで、1996年にも、クラムニクさんの師匠ガルリ・カスパロフさんがコンピュータと対戦したことがあります。このコンピュータはIBM が六年がかりで開発し、一秒間に一億通り以上もの指し手を読むことができましたが、カスパロフさんは、三勝一敗二引き分けでコンピュータに勝っています。チェスでは、コンピュータもチャンピオン並みに腕をあげましたが、将棋や碁では、コンピュータはまだまだかなわないそうです。1994年に別のコンピュータに勝ったインドのチェスのチャンピオンがこう言いました。「最後は、周りの人たちが大勢でぼくを応援してくれた。だが、対戦したコンピュータに声援を送るコンピュータはなかった。」ここに、人間と機械の違いがありますね。機械は、互いに励まし合うことができないのです。しかし、人間は、悲しみの時に慰め合い、苦しみの時に励まし合うことができるのです。私たちのまわりに、そのように声援をおくり、励ましを与え、なによりも共鳴してくれる人々がいることは本当にありがたいことですが、なによりも、イエス・キリストが、私の悲しみを悲しみとして涙を流してくださるというのは、なんと素晴らしいことでしょうか。

 三、私たちのための涙

 イエスは私たちと共に涙を流してくださいました。しかし、それが、イエスが涙を流された理由のすべてではありません。イエスの涙には、私たちが流す涙がとうてい及ばない、もっと深い意味があります。イエスがラザロの墓に来たのはラザロを生き返らせるためでした。この時、イエスは死に立ち向かい、死を克服しようとしておられました。ですから、涙を流すよりも、もっと力強く墓に向かって行って良かったのではないでしょうか。また、ラザロはもうすぐ生き返るのですから、悲しむ必要も無かったように思われます。なぜ、イエスはこの時、涙されたのでしょうか。

 じつは、イエスはこの他にも、ふたりの人を生き返らせています。ひとりはナインという町のやもめのひとり息子(7:11-17)、もうひとりは会堂司ヤイロの十二歳になる娘(ルカ8:41-56)でした。ご主人に先立たれ、ひとり息子も亡くし、息子の棺のそばで泣いていた母親に、イエスは「泣かなくてもよい。」と言いました。そして、息子を生き返らせ、母親に返してくださいました。ヤイロの娘の場合も、娘の死を嘆き悲しんでいる人々に「泣かなくてもよい。」と言っています。ところが、ラザロを生き返らせる時には、イエスご自身が泣いておられます。ヤイロには「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われたイエスが、ここでは、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」、涙をながしておられるのです。「霊の憤り」というのは、「馬のように荒々しく息を吐く」といった意味です。「心の動揺」と訳されていることばは、イエスが弟子たちに「あなたがたは心を騒がしててはなりません。」(ヨハネ14:1)と言われたのと同じことばです。私たちに「心を騒がせてはなりません。」と言われたイエスご自身が、心を騒がせ、激しい感情の起伏を体験しているのは、なぜでしょうか。

 このイエスの涙と嘆きの意味を知るには、ゲツセマネでのイエスの姿を思い浮かべる必要があります。十字架にかかられる前、イエスはゲスセマネの園で祈りました。ゲツセマネという名前には「油絞り」という意味があります。そこはオリブ畑で、オリブ油を絞るところだったのです。イエスはそこで、オリブが砕かれるように、ご自分の心を砕き、オリブが油をしたたらせるように、その額から血の汗を流して祈りました。イエスはその時、悲しみもだえ、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われました。(マタイ26:37-38)死を見るはずのない神の御子が、これから死を味おうとしておられる、罪も汚れも知らないお方が、十字架の上で罪人となって神から見放されようとしている。人間の罪と、その結果である死と刑罰は、神の御子をこれほどに苦しめるほどのものだったのです。神からまったく離れてしまった人間は、自分の罪のがどんなに重く、大きいかさえも気に留めず、そのことに嘆こうともせず、神の正義の審判を恐れなくなってしまっています。イエスは、そのような人間の罪と、神への叛逆、また不信仰のいっさいを引き受け、ゲツセマネで苦しみ、十字架で死なれたのです。イエスのこの苦しみは、私たちにかわっての苦しみ、私たちのための苦しみでした。私たちが苦しまなければならない苦しみを、イエスは、私たちにかわって苦しんでくださったのです。

 ラザロの死とよみがえりは、イエスがエルサレムで最後の一週間を過ごす過越の祭が目前に近づいている時のことでした。イエスはその生涯のすべてをもって私たちのための苦しみを背負ってくださいましたが、十字架はその頂点でした。その十字架が間近にせまったこの時、友として親しく往き来してきたラザロの死の中に、イエスは、ご自分の死を重ね合わせて見たのでしょう。人間の罪と、罪がもたらす死の現実に対して「霊の憤り」を感じ、人間の罪を背負って死を味わうという、今だかってなかった大きな犠牲の死を遂げることを思って、イエスは「心騒がせ」たのです。ヘブル人への手紙にこうあります。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と、涙とをもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり…」(ヘブル5:7-10)イエスの流した涙、それは、私たちのために流された涙です。私たちは、イエスの苦しみと、悲しみのゆえに確かな救いを受けるのです。「イエスは涙を流された。」イエスの涙の意味をさらに深く知り、その涙を無駄にすることのない、私たちでありましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちと共に泣いてくださり、私たちのために泣き、悲しんでくださる救い主を、私たちに与えてくださり感謝します。私たちが、主イエスの涙と喜びをもっと良く知り、それを深く感じるものとしてください。そのことによって、私たちも他の人のために、他の人々とともに泣き、また喜ぶものとなることができますように。また、悲しみの涙にあけくれている人々に、神ご自身が私たちとともにおられて、私たちの目から涙をぬぐい取ってくださる日があることを伝え、この救いの喜びを知らせるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/10/2002