ダブルグリップ

ヨハネ10:22-30

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

 今日は、十月最後の礼拝、今年も残すところ、あと二ヶ月となりました。来年の手帳やカレンダーがお店にならぶようになりましたね。アメリカでつくられたカレンダーに、ユダヤの祝日がいくつも書いてあるのに気がつきましたか。プリムの祭り、過越しの祭り、ロシュ・ハシュナー、ヨム・キパー、そして、ハヌカーといった祝日があるのを見つけることができると思います。これらの祝日のほとんどは聖書に起源がありますので、カレンダーを注意してごらんになると「今日は、聖書のここに書いてあることが起こった日なのか」と、聖書をより身近に感じることができると思います。

 ユダヤの暦では、新年は「ロシュ・ハシャナー」から始まります。今年は9月7日でした。新年から10日目が「ヨム・キパー」(贖いの日)で、それからさらに五日後が「サコット」と呼ばれる「仮庵の祭」です。仮庵の祭というのはユダヤの人々がエジプトから救われ、荒野を旅した時、テントに住んだことを記念するためのもので、ユダヤの人々は今日でも、家の裏庭などに板でかこった小屋を建て、この祭りを祝っているそうです。ヨハネの福音書の七章には「仮庵の祭」のことが書かれていましたが、そこに書かれていたのは9月の終わりごろから、10月はじめのことだったのです。

 今朝の箇所には「宮きよめの祭」のことが書かれています。これは、今日では「ハヌカー」と呼ばれています。「宮きよめの祭り」は、旧約時代と、新約時代の中間の時期、紀元前165年に、ユダ・マカベウスが、セレウコス朝ペルシャから独立を勝ち取ったことに由来しています。アンティオコス・エピファネスというセレウコス朝の王は、自らを神とし、聖書を焼き、神殿に、ユダヤ人の嫌う豚をささげて汚しました。この迫害に抵抗し、立ち上がったのがユダ・マカベウスで、彼は、アンティオコス・エピファネスによって汚された神殿を取り戻し、宮きよめをしました。この時、神殿で見つかった「ともし油」に火をつけたところ、それは一日分の分量しかなかったのに、八日間も燃え続けるという奇跡が起こったと伝えられています。それで、「ハヌカー」は、毎日ひとつづともし火に火をつけ、八日目には、八つのともし火全部に火をつけて祝います。このことから、「ハヌカー」は「光の祭典」とも呼ばれています。ハヌカーもまた、イエスが世の光であり、私たちを救い、きよめてくださるお方であることを指し示しています。

 今年は「ハヌカー」は11月30日です。ですから、ここに書かれていることは、ヨハネ7章から9章にかけて書かれていたことからさらに二ヶ月あとの出来事であることがわかります。11月の終わりともなれば、エルサレムは寒くなります。それで聖書は「時は冬であった」(ヨハネ10:23)と言っているのです。イスラエルの気候は、カリフォルニアの気候と良く似ていますので、11月にさしかかって、朝夕寒さを感じるようになった今ごろの気候から、イエスが神殿の中を歩いておられた時の気温や、日差しなどを想像することができますね。聖書を単に行を追って読むだけでなく、そこにある時間の流れや背景を考えながら読むと、聖書をもっと身近に感じ、その意味を良く汲み取ることができるのです。

 一、ユダヤ人の質問

 時は冬、11月から12月にかけての宮きよめの祭りの期間中、場所は、神殿の東の回廊、ソロモンの廊。そこを歩いているイエスを見つけたユダヤ人は、イエスを取り囲み、質問しました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」(24節)彼らがそう言ったのは、イエスがキリストかどうか知りたかったからでしょうか。そうではありません。彼らは今までイエスを陥れるための口実を探していましたが、見つけることができませんでした。彼らはなんとかしてイエスを訴える材料を見つけ出そうとしており、この質問も、新たな口実を見つけるためのものにすぎませんでした。

 もしここで、イエスが「わたしこそキリストだ」と明言していたら、彼らはそれを受け入れたでしょうか。いいえ、イエスの言葉を捕らえて、イエスを陥れようとしたことでしょう。彼らの動機を知っておられたイエスは、ご自分がキリストであるとは明言せず、「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」(25節)とだけ答えたのです。

 イエスはすでに、「わたしはいのちのパンです。」「わたしは世の光です。」「わたしは良い羊飼いです。」と言って、イエスがキリストであることをはっきりと言い表わしていました。仮庵の祭では、神殿の祭壇に水が注がれました。それで、イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言いました。仮庵の祭りでは神殿の庭に大きな燭台が備えられ明かりがともされましたので、イエスは「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)とも言われました。イエスはさらに「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)と言って、イエスが歴史が予告し、待ち望んできた救い主、キリストであることをはっきりと言い表しておられたのです。

 イエスは、言葉だけでなく、行いよっても、ご自分がキリストであることを、明らかにされました。イエスはご自分がいのちのパンであることを証明するために、わずかなパンで五千人の人々を養いました。ご自分が世の光であることを証明するために生まれつき目の見えない人の目を開きました。そして、ご自分が「良い羊飼い」であることを、ご自分の命をささげることによってあきらかにしようとされたのです。しかし、イエスに敵対する人たちは、イエスの言葉を聞いても悟らず、イエスのなさったことを見ても信じなかったのです。

 彼らはユダヤの指導者でした。聖書の知識を持っていました。真っ先にイエスをキリストと信じ受け入れるはずの人たちでした。イエスの語られた言葉は耳があれば聞こえ、イエスのなさったことは目があれば、だれにも見えるものでした。なのになぜ、イエスの言葉を聞いても悟らず、イエスのなさったことを見ても信じなかったのでしょうか。イエスは26節で「それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」と言っているように、彼らがイエスの羊ではなく、また、イエスの羊の群れに属そうとしなかったからです。ユダヤの指導者たちは、イエスに目を開けてもらった人をののしって、こう言いました。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。」(ヨハネ9:28)彼らは、最初から自分たちの判断基準を持っており、聞いたことを曲げて解釈し、目でみた事実を否定したのです。イエスの語ることに偏見のない心で耳を傾け、正しい心で見つめることをしないで、それらに耳をふさぎ、目を閉じて、自分のまわりに線を引き、壁をつくり、その中に閉じこもっていたのです。私たちも、同じように、自分の罪や、プライド、あるいは、防衛本能のようなものの中に閉じこもっていないか、自分をかえりみる必要があります。イエスのことばは私たちを生かすことばであり、イエスのなさったみわざは私たちを救うものです。聞いて悟り、見て信じ、イエスからの幸いを受ける私たちでありたく思います。

 二、イエスの手

 ユダヤの指導者たちはイエスを信じようとしなかっただけでなく、イエスの羊を奪い、苦しめ、滅ぼそうとしました。イエスを亡き者にしてしまえば、イエスに従う者たちも消え去ってしまうと考えたのです。確かに、彼らはイエスを十字架につけることに成功しました。しかし、イエスの羊はそれによって奪われることも、滅ぼされることもありませんでした。むしろ、わずか四十日の間に、弟子たちが次々とエルサレムに集まり、百二十名が団結して祈り、ペンテコステの祭りの時には、新たに三千人がイエスの羊の群れに加わったのです。イエスが「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(27-28節)と言われたとおりです。

 イエスは死なれました。しかし、イエスのいのちは奪われたのではなく、イエスはご自分からそのいのちを羊のために差し出されたのです。イエスは墓に葬られました。しかし、イエスはそこに閉じ込められてはいませんでした。よみがえられて、今も、生きて、「良い羊飼い」として、羊とともにあり、羊を導いてくださっているのです。この力ある大牧者の手から、誰も羊を奪うことはできないのです。

 「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」とは、なんと力強い言葉でしょう。これは、イエスを信じる者たちが決して救いを失うことはないことを保証することばです。イエスによって与えられたいのちは「永遠のいのち」です。それは消えてしまうものでも、しぼんでしまうものでも、誰かに奪い去られるものでもなく、私たちのうちで成長し、より強くなり、永遠までも続くものです。救いはイエスを信じる信仰によって得られるもので、信仰なしには誰も、救いを、永遠のいのちを受けることはできません。しかし、救いを保証するのは、私たちの信仰だけでしょうか。もしそうなら、私たちは信仰が弱ったら、救いを失ってしまうことになります。永遠のいのちが、私たちの信仰の度合いによって、それを受けたり、なくしたりするのだとたら、それはもはや「永遠の」いのちではなくなってしまいます。私たちの救いは、私たちの信仰以上のもの、私たちの牧者であるイエスの手によって支えられているのです。信仰は、私たちがイエスに手をさしのばし、イエスの手を握ることですが、もし、私たちがイエスの手を握り締めているだけなら、いつかわがままになって、その手を振り払ってしまったり、力が弱くなって、その手を離してしまったりするかもしれません。しかし、幸いなことに、私たちが信仰によってイエスの手を握り締める時、イエスは、もっと大きな手で、私の手を握りかえしてくださるのです。ですから、たとえ、私たちが弱くなっても、イエスの手が私を支えてくださるのです。私たちがイエスの手を振り払おうとすることがあっても、イエスが私たちを引き戻してくださいます。私がイエスの手を握り、イエスが私の手を握り締めていてくださる、この二重のグリップによって、私たちはどんな時にも守られ、ささえられ、滅びることはないのです。このことによって私たちは「良い羊飼い」イエスの羊であり続けることができるのです。

 三、神の手

 これだけでも、素晴らしいことですが、イエスは、もうひとつの大きな手が私たちを守り、支えていることをあきらかにしました。それは、父なる神の手です。「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(30節)ユダヤ人は、神を唯一のお方、すべてのものの父なる神としてあがめていました。そして、神の御手がどんなにか力強いものであるかを良く知っていました。聖書には「神の御手」という言葉がいたるところに出てきます。ヤベツの祈りにも、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(歴代第一4:10)と、「御手」という言葉があります。歴代誌第一29:11-13の祈りは「主の祈り」に取り入れられた祈りですが、それは神の御手についてこう言っています。「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。」詩篇には、19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあるのをはじめとして、さまざまな形で「神の御手」が歌われています。詩篇95:7に「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」とあります。「御手の羊」というのは、神の手に守られている羊という意味です。イエスはご自分を「良い牧者」と呼び、その手で羊を守ると言いましたが、それは、この聖書のことばに基づいてのことだったと思われます。イエスの御手が、父なる神の御手と二重に描かれています。

 私たちが歌っている讃美歌、聖歌、プレイズ・ソングの中にも、神の御手を歌ったものが多くあります。そうした賛美を歌うたびに、神の御手の力強さ、暖かさを感じますが、「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(29-30節)とのことばは、神の御手に守られていることを強く確信させてくれます。みなさんは、小さい子供のころ、片方の手を父親に、もう片方を母親に握ってもらって、その手にぶら下がって遊んだことがあるでしょう。子供は、片手だけでなく、両手を握ってもらっていますから、高く引っ張りあげられても、少しも恐くはありません。私たちは、イエスの手と父なる神の手の両方にささえられ、守られ、導かれているのです。ここに私たちの救いの確信、信仰の確信があるのです。

 そして、イエスは最後に「わたしと父とは一つです。」(30節)と言われました。イエスの手に握られていることは、神の手に握られていることであり、イエスの羊であることは、神の羊であることなのです。イエスが神の御子であり、父と子がひとつであること、これは、他の聖書の真理と同じように、論理だけで理解できること、知識として納得できることではありません。それはイエスを信じ、イエスに従うことを通してはじめて知ることができます。神の子とされ、父なる神のものとされているという確信をいただいてはじめて、「わたしと父とは一つです。」という言葉の意味がわかるようになるのです。イエスの御手、父なる神の御手に導かれ、イエスとともに歩み、神とともに生きる時、つまり、神と一つになればなるほど、イエスが父なる神とひとつであることを知ることができます。今は、すべてが不確かな時代ですが、私たちには、このような確かな、神からの人生の保証があるのです。さまざまな困難があるかもしれませんが、この保証に立ち、そこから来る希望をもって信仰の歩みを続けて行こうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちが、あなたの御手とイエスの御手で守り、支えられ、導かれていることを感謝いたします。この恵み、この保証の中に生きることによって、あなたとあなたの御子イエスをさらに深く知り、この人生をさらに力強く歩むことができますように。主イエスの御名で祈ります。

10/27/2002