わたしは良い牧者

ヨハネ10:11-16

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10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

 イエスは、ヨハネの福音書で、7回、「わたしは…です」と言いました。「わたしはいのちのパンです。」(6:48)「わたしは、世の光です。」(8:12)「わたしは門です。」(10:9)「わたしは良い牧者です。」(10:14)「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(11:25)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)そして、「わたしはまことのぶどうの木…です。」(15:1)“I am ....” で始まるので、“I AM verses”(I AM 聖句)と呼ばれています。

 じつは、この七つの他に、“I am.” が使われている箇所が、もう2箇所あります。いままでの7箇所では「わたしは命のパンです」や「わたしは世の光です」など、「わたしは…です」の中に、「いのちのパン」や「世の光」などという言葉が入っていました。英語では“I am ....”のあとに、“bread of life” や “light of the world” という言葉が続いています。ところが、他の2箇所では、“I am” のあとに続く言葉がありません。“I am” だけで終わっています。ヨハネ4:26では「わたしがそれです」と訳されています。サマリヤの女が「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と言ったのに対して、イエスは “I am” と言って、「わたしが、そのメシヤ、キリストです」と答えました。

 ヨハネ8:58にも “I am” という言葉があって、「わたしはいる」と訳されています。これは、イエスがユダヤの指導者たちとの論争の中で語った言葉です。イエスは、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、誰もが罪を悔い改め、神に立ち返り、罪の赦しを受け、その中に生きなければならないと教えました。つまり、悔い改めと罪の赦しの福音を語りました。しかし、ユダヤの指導者たちは、「自分たちはアブラハムの子孫だから、そんな必要はない」と言って、イエスに反対しました。それで、イエスは、ご自分がアブラハムに勝る者であることを教えるため、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言いました。この「わたしはいる」(“I am.”)という言葉は、神が、モーセに「わたしは、『わたしはある。』という者である」(出エジプト3:14)と言って、ご自分を示された言葉、“I am that I am” に通じるものです。そのことを悟った反対者たちは、「イエスが自分を神と同一視して、神を冒瀆した」と言ってイエスを責め、石打にしようとしました。

 「わたしは…です」(“I am ....”)というのは、ギリシャ語で“ἐγώ εἰμι”(エゴー・エイミイ)と言いますが、これは、それほどに重みのある言葉です。きょうは、「I AM 聖句」の中から「わたしは門です」(10:9)と、「わたしは良い牧者です」(10:14)のふたつをとりあげて学びましょう。

 一、門

 詩篇23篇に「主は私の羊飼い」とあるように、聖書では神が「羊飼い」、神の民は「羊」にたとえられています。そして、羊が集められる牧場の「囲い」は「神の国」を指します。旧約時代、神殿は「神の国」の象徴でした。詩篇100篇は、このように言っています。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。
この詩篇は、神の民が、神殿の門をくぐって、神を礼拝する姿を、羊が、囲いの中に集められる姿でたとえています。

 門は「入り口」を意味します。羊が門を通って囲いの中に入れられるように、私たちはイエス・キリストという門を通って、神の国に入ります。イエスは天の御国の門、「入り口」なのです。イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われましたが、父なる神にいたる道の最後には門があります。そして、その道も、門も、イエスご自身です。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とありますが、それは、言い替えれば「イエスという道を歩み、イエスという門をくぐるなら、かならず天の御国に入ることができる」ということです。「だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(ヨハネ10:9)と言われているとおりです。イエスは神の牧場への門、「入り口」です。ここから入る者は誰でも、神から来る平安や喜びにあずかることができるのです。

 「門」はまた、「守り」を意味します。それは、羊が野原で夜を過ごすときの情景を思いうかべるとよく分かります。野原には、石を幾段か積んだ囲いがいくつか作られており、野原で夜を過ごすときには、羊飼いは、羊をその囲いの中に入れます。その囲いには、羊が一匹づつ、通れるほどの入り口があるだけで、門はありません。それで、羊飼いは、羊をみな石の囲いの中に入れてしまうと、その入口に座って、自分自身が、門になるのです。羊飼いは、石の囲いの入り口で寝ずの番をして、羊を狙う他の動物から、羊を守ります。イエスは、そのように、身をもってご自分の羊を守ってくださる「門」なのです。イエスご自身が私たちを守る門となってくださる。これ以上に確かで安全、安心なことはありません。

 二、良い羊飼い

 次に、「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)という言葉について考えてみましょう。ここで「良い」という言葉が使われていることに注意しましょう。「良い牧者」というからには、「悪い牧者」もいるのです。聖書では、神に立てられた王や指導者たちは「牧者」と呼ばれていますが、旧約時代の多くの王たちや高官たちは、神のみこころを知らない愚かな「牧者」でした。総督や役人たちは人々を苦しめる悪い「牧者」でした。イエスの時代の祭司長、律法学者、長老たちも、みずから「牧者」であると任じていましたが、神の民を間違った道に導き、迷わせ、弱らせるだけでした。

 エゼキエル書34章には、「悪い牧者」たちへの叱責の言葉が書かれています。彼らは、「肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した」(エゼキエル34:3-4)とあります。それで神は、こうした悪い牧者たちを斥け、ひとりの「良い牧者」を立てると言われました。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」(エゼキエル34:23)この「牧者」は「しもべダビデ」と呼ばれています。これは、神に愛され、神を愛したダビデ王のような「良い牧者」が遣わされるという約束です。

 そして、この約束は、「ダビデの子」として来られた「まことの羊飼い」イエス・キリストによって成就しました。イエスが「わたしは良い牧者です」と言われたとき、それは、旧約の預言の成就を告げているのです。

 「羊飼い」の仕事は、いわゆる、「3K」と呼ばれる、「きつい、きたない、危険な」仕事でした。エレミヤ43:12に「彼は牧者が自分の着物のしらみをつぶすようにエジプトの国をつぶして、ここから無事に去って行こう」という言葉があります。この言葉から、羊の「しらみ」が自分に移るのも嫌がらず懸命に羊の世話をしている羊飼いの姿を垣間見ることができます。イエスもまた、そのような羊飼いになってくださいました。イエスは神の御子であるのに「人の子」となり、主であるのに「しもべ」となり、「きつい、きたない、危険な」仕事を引き受けてくださったのです。イザヤ40:11に「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とありますが、まさに、イエスはそのような「良い牧者」となってくださいました。

 この「良い牧者」に導かれる人生以上に幸いな人生はありません。私たちの人生にはさまざまな困難や労苦があります。水も草もない荒野があり、死の陰の谷もあります。嵐の日もあれば日照りの日もあります。しかし、「良い牧者」であるイエスはどんなときでも私たちと共にいて、私たちを導き、助けてくださいます。私たちの弱さを知り、支えてくださるのです。

 三、命を捨てる牧者

 「悪い羊飼い」はエゼキエル書にあったように、羊から奪い取る者、暴力で支配する者です。また、たんなる「雇い人」は、自分の身に危険が及ぶと羊を見捨てて逃げてしまいます。「牧者」としての責任感も、羊への愛情もないからです(ヨハネ10:12-13)。しかし、良い牧者は、自分の身を危険にさらしてでも羊を守ります。11節に「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とあるとおりです。イエスは、15節でも、「また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」と言われました。これは、イエスの十字架の死を予告する言葉です。イエスは、私たちの罪や汚れ、背きや裏切り、また過ちのいっさいをご自分の身に引き受け、私たちが受けなければならない裁きを十字架の上で受け、それによって私たちを救ってくださいました。羊のようにさまよっていた私たちを、神の牧場に連れ戻してくださったのです。ペテロ第一2:22-25にこうあります。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」この箇所以上に、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」というイエスの言葉を解き明かしている言葉はありません。

 「良い牧者」であるイエスは、今も、神の牧場の外にいる羊、間違った道をさまよっている羊を心にかけておられます。16節でイエスはこう言っておられます。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」イエスは十字架にかかられる前にも、こう祈っています。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」(ヨハネ17:21)イエスは、人々がみな、神に立ち返り、ひとりの「良い牧者」イエス・キリストのもとに一つになることを願い、祈っておられます。このイエスの願い、祈りを、私たちの願い、また祈りとしていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、聖書に約束されている通り、「良い牧者」であるイエス・キリストを送ってくださり、感謝します。イエスご自身が「わたしは門です」「わたしは良い牧者です」と言われました。ですから、私たちも「イエスは、私たちのために命さえも捧げて、天の御国への門となり、そこから入るものを導き、養ってくださる良い牧者です」と語ることができます。私たちの証しを用いて、より多くの人が、あなたの牧場の羊となることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

8/2/2020