見よ、神の子羊

ヨハネ1:29-36

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1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。

 一、ライオンであるイエス

 何かの集まりで、「自分を動物にたとえたら、あなたはどんな動物か。」という課題が出たことがありました。ある人は「私は何事もゆっくりだから、私はウシかな。」と言い、ある人は「私はよく気が変わるから、ネコだ。」と言っていました。私は、以前住んでいた家では自分で芝を刈っていました。上手にできませんでしたし、要領が悪いので、ガラージと庭とを行き来しながらやっていました。それで、それを見ていた隣の人から「あなたはネズミみたいだね。」と言われたことがあります。私はいろんなものを貯め込む癖がありますので、動物にたとえれば、ネズミかもしれないと、そのとき思いました。

 ウォルト・デズニーがミッキー・マウスを生み出してくれたおかげでネズミに対するイメージは少しはよくなりましたが、聖書では、人間を動物にたとえる時には、あまり良いイメージはありません。自分の娘から悪霊を追い出してもらおうとしたツロの女性は自分を「子犬」と呼びました。それは、価値のない者という意味でした。ダビデは、自分を追ってくるサウルに対して「イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。」(サムエル第一24:14)と言いました。自分を「死んだ犬」や「蚤」にたとえたのです。伝道9:4に「生きている犬は死んだ獅子にまさる。」とありますので、「死んだ犬」というのは、「何の値打ちも無い者」という意味になります。イエスはマタイ7:6で「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」と言われました。「犬」や「豚」は価値のない人というだけでなく、真理の価値が分からない人のことを指しています。イエスの与える真理を軽んじる人、それは、イエスの時代にはパリサイ人やサドカイ人たちでしたが、そういう人は、いつの時代、どこの国にもいて、たいてい、自分は十分に物事をわきまえていて、今さら、誰かに教えてもらう必要などないと考えています。自分は値打ちのある人間だという誇りが強いのです。しかし、真理の価値が分からない人は、本当には価値のある人ではないのです。また、イエスは、ヘロデ大王の息子で、ガリラヤ地方の領主だったヘロデ・アンティパスがイエスを殺そうとしているということを聞いた時、「行って、あの狐にこう言いなさい。」(ルカ13:32)と言われました。ヘロデ・アンティパスを「狐」と呼んだのです。日本でも、「狐」や「狸」というと、ずる賢い人物を指します。「狐と狸の化かしあい」ということばもありますね。このような表現はどこの国の文化にも共通しているのは興味深いことです。

 では、イエスご自身は聖書ではどんな動物にたとえられているのでしょうか。イエスは「しし」(ライオン)と呼ばれています。イエスがライオンと呼ばれるのは創世記49:9-10に「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」という預言から来ています。「シロ」というのは「救い主」のことで、イエスを指しています。民数記24:9にも、「雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」と預言されています。ソロモンは自分の王座を作った時、それを六段の台の上に置きましたが、それぞれの段の両側にひとつづつ、合計12個のライオンの彫り物を置きました。また、王座のひじかけの両側にもライオンの彫り物をひとつづつ置いています(列王第一10:19-20)。ライオンは百獣の王と呼ばれ、どこの国でも力ある者、王者の象徴です。イエスが「獅子」(ライオン)と呼ばれるのは、イエスが力ある神、王の王、主の主であるからです。C.S.ルイスのナルニア国物語で、キリストをあらわしているナルニアの王アスランはライオンです。

 二、子羊としてのイエス

 ところが、イエスは同時に「子羊」とも呼ばれています。黙示録5:5に、「見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。」とありますが、「見なさい。」と言って示されているイエスは、ライオンではなく、子羊です。黙示録の残りの部分では、イエスは「子羊」の姿で登場しています。バプテスマのヨハネもまた、イエスを「神の子羊」と呼んでいます。バプテスマのヨハネは、イエスに洗礼を授けた人です。ヨハネはイエスに洗礼を授けた時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)という声を聞き、聖霊が鳩のようにイエスに下るのを見ました。それで、ヨハネは「イエスは神の御子である。」と証言しました。ところが、ヨハネは、彼のところにイエスが来られたとき、「見よ、神の御子」とは言わず、「見よ、神の子羊」と叫んでいます。どうしてでしょうか。

 この「子羊」というのは、祭壇に犠牲として捧げられた子羊のことです。旧約の時代、人々は子羊を犠牲として祭壇に供えました。人々は、子羊の頭に手を置いて自分の罪を告白してから、子羊をほふりました。子羊は人々の罪を背負って殺されたのです。流れ出た子羊の血は祭壇に注がれ、その血が、人々の罪を神の目から覆い隠し、人々は罪の赦しを得たのです。人々の罪を負って殺された子羊は火で焼かれ、その煙は、人々の祈りとともに天に昇り、神に受け入れられ、聖なる神と罪ある人間との和解が成立しました。そのように、イエスも、人間の罪を背負い、十字架で死に、そのからだと血を犠牲として神にささげられたのです。

 聖書は、イエスが来られるずっと以前から、救い主は子羊としてこの世に来られるということを預言していました。イザヤ53:6に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」とあります。ここでは人間が「羊」にたとえられています。羊には早く走る足も、身を守る角も、敵に食らいつく鋭い牙もありません。羊の目は近視で遠くを見ることができず、臭いも良く嗅ぎわけられないと言われています。羊は、愚かで迷いやすい人間を表わしています。神から離れて生きてはいけないのに、人間は「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」のです。そんな人間を神のもとに立ち返らせるために、救い主は神の子羊となって世に来られました。イエスは、人間となってこの世に来られ、私たちとまったく変らない人生を送られました。それは、人間の罪と、そこから来る痛み、悲しみ、苦しみのすべてをかわって引き受けるためでした。イザヤ53:7は「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と言っています。これは、人々の罪を背負って、身代わりとして死なれたイエスを指しています。

 ダビデが詩篇で「主は私の羊飼い」と歌い、イエスが「わたしは羊飼いである。」と言われたように、救い主は、本来、私たちの羊飼いです。彼が羊飼いであり、私たちが羊なのです。それなのに、救い主は、私たちの羊飼いとなる前に、ご自身が「子羊」となってくださいました。神のもとからさまよい出て、自分勝手な道を歩んでいる人々の罪を背負うためでした。そのことは、新約聖書に「キリストは…自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:24-25)ということばで、はっきりと書かれています。イエス・キリストは私たちの羊飼いとなるために、まず、神の子羊となってくださったのです。子羊イエスの十字架があって、はじめて私たちは羊飼いイエスの守りと導きをいただけるのです。

 The Lion and The Lamb という絵があります。ライオンと子羊がいっしょにいる絵です。このライオンと子羊はともにイエスを表わしています。イエスはすべてのものの上に君臨する王者ライオンであるとともに、人々の身代わりとなって殺されていく子羊でもあるのです。イエスがライオンであり、同時に子羊であるというは、とても不思議なことです。それは、イエスの十字架の意味を知らない人には謎です。しかし、王の王、主の主であるお方が、「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことを知っている私たちには、この絵が表していることが良く分かるのです。

 三、聖餐の中のイエス

 私たちがこれから守ろうとしている聖餐もまた、イエスが神の子羊であることを示すものです。聖餐はどんな絵よりも、またどのムービーよりも、もっとはっきりと神の子羊であるイエスを私たちに示し、伝えてくれるものです。

 イエスが聖餐を行われたのは、十字架にかかられる前の夜のこと、過越の食事の時でした。過越は、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されたことを祝うお祭りです。出エジプト記に書かれているように、神は、エジプトに九つの禍を与え、イスラエルを解放するよう迫りました。様々な災害に困り果てたエジプトの王は、イスラエルを解放すると約束するのですが、何度もその約束を翻しました。そこで、神は最後に、十番目の禍、エジプト中の最初に生まれたこどもが死ぬという禍を与えました。このとき、イスラエルの人々は、子羊を殺し、その血を家の入り口に塗りました。子羊の血が塗られた家にはその禍が「過ぎ越す」からです。それで、エジプトからの奴隷解放を記念するお祭りは「過越の祭」と呼ばれるようになりました。

 イエスが「これはわたしのからだである。」と言って弟子たちにパンを与え、「これはわたしの血である。」と言って杯をお与えになったのは、ご自分が過越の子羊となって、十字架で死なれることを示すためでした。私たちが聖餐でパンとブドウ酒をいただくのは、イエスが過越の子羊であることを覚えるためです。イスラエルがエジプトの奴隷から救われるために過越の子羊の犠牲が必要だったように、私たちが罪の奴隷から救われるためには、イエスのからだと血が必要なのです。旧約時代に犠牲の血が流されることなしには、罪が赦されなかったように、今も、将来も、イエスの血なしには、罪の赦しも罪からの解放もないのです。

 現代の私たちは罪の力を小さく見積っています。現代人は古代人のように野蛮ではなく、進歩し、成長している、食べるのに困らなくなれば犯罪は無くなり、教育によって人は善良になると信じてきました。しかし、実際は、過去よりも今のほうが戦争と内乱が多く、世界はいよいよ混沌としていく一方です。貧しい国より豊かな国のほうが犯罪は多く、教育のレベルが上がっても、それで人々は互いに愛し合うことを学んでいるわけではありません。むしろ、財産や栄誉、欲望や悪習慣に縛られています。私たちが、そうしたものから解放されるには、どうしても神の子羊であるイエスのからだと血が必要なのです。科学技術の発達によって人間は人間らしさを、人間の心を失いつつあります。人間が人間として回復するためには、人となられたイエスが必要なのです。多くの人が孤独を感じ、希望を失っています。このような時代に人が希望をもって力強く生きていくためには、イエスの十字架の救いが無くてならないのです。罪の力を小さく見積もるなら、キリストの十字架の救いをも小さなものにすることになります。そうすることがないように、この聖餐で、神の子羊イエスを心に覚え、このお方を心からあがめましょう。

 きょうは世界聖餐日で、多くの教会で同時に聖餐が守られています。聖餐の形式はそれぞれの教会によって違うでしょうが、聖餐でイエスを神の子羊として覚えることは、どこの教会でも同じです。同じでなければならないのです。神の子羊であるイエスの犠牲なしには、人は罪から救われないからです。伝統的な教会では聖餐のとき Agnus Dei が歌われます。

Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,
miserrere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,
dona nobis pacem.
Lamb of God, you take away the sins of the world.
have mercy on us.
Lamb of God, you take away the sins of the world.
grant us peace.
そして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(This is the Lamb of God who takes away the sins of the world.)というバプテスマのヨハネのことばが宣言されます。聖書は「見よ。」と言って、神の子羊イエスを指し示しています。私たちは、信仰の目で、この聖餐の中におられる神の子羊、イエス・キリストを見出しましょう。このお方によって罪を赦され、生かされ、養われ、導かれ、守られ、天を目指して進んでいきましょう。聖餐に備える祈りをささげて、聖餐に移りましょう。

 (祈り)

 愛するイエスさま。あなたは命のパンです。あなたは、私たちを羊飼いが羊を養うように養われます。あなたは十字架にかかられる前の夜、パンとブドウ酒を取り、それを祝福し、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたに与えるわたしのからだです。わたしの血です。」

 愛するイエスさま。どんな時でも、私たち罪人を愛してくださっていることを感謝します。この聖餐であなたを私の内にお迎えしたいと切に望んでいます。私の心の中に入ってください。そして、この聖餐が私を喜びと平安で満たすものとなりますように。

10/7/2007