初めにことば

ヨハネ1:1-3

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1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 今年のクリスマスは、ヨハネの福音書からお話しします。ヨハネの福音書には、クリスマスのことが書かれていないように見えます。そこには主の母マリアもヨセフも、御使いや羊飼い、星と三人の博士たちも登場しません。けれども、ヨハネの福音書には、「まことの光が、世に来ようとしていた」(9)、「この方はご自分のところに来られた」(11)、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(14)とあって、クリスマスの意味や意義、また、奥義が明らかに記されています。

 ルカが母マリアの目で見たもの、マタイがヨセフの目を通して降誕を描いているとしたら、ヨハネは父なる神の目で見た降誕を描いていると言うことができるでしょう。私たちも、信仰の目で、イエス・キリストの降誕を神とともに見つめ、クリスマスの奥義を悟る者になりたいと思います。

 一、永遠の神の御子

 ヨハネ1:1は「初めにことばがあった」と言っています。この「初め」というのはどれぐらい先の「初め」でしょうか。ヨハネ1:1の「初めにことばがあった」は、あきらかに創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造された」との言葉を意識して書かれています。では、創世記の「はじめ」とヨハネの「初め」とはどちらが先でしょうか。ヨハネの「初め」の方が創世記の「はじめ」よりも先です。創世記の「はじめ」は世界の創造の時点を指していますが、ヨハネの「はじめ」は、創造以前の永遠の「はじめ」を指しています。イエスは世界の創造の前から存在しておられたと言っているです。

 少し、文法的なことになりますが、1節の「初めに、ことばがあった」の「あった」は「継続形」で、それには「ずうっと継続して存在している」という意味があります。ところが、3節の「すべてのものは、この方によって造られた」の「造られた」は「不定過去形」といって、ある時点で起こったことを指すものです。世界には「始まり」があり、それはある時点でスタートしたのですが、神の御子は、永遠の初めから存在しておられたのです。聖書は、注意深く言葉を選んで、イエス・キリストが永遠の神であることを教えています。

 ヨハネ8:58では、イエスご自身が、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(新改訳第二版)と言っておられます。マタイは系図を「アブラハム」までさかのぼり、イエスが約束の救い主であることを明らかにしましたが、ヨハネは、イエスが「アブラハム」以前からおられたお方であことを明らかにしています。また、イエスは、黙示録22:12-13でも、こう言っておられます。「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 始まりのあるものには、いつか終わりがあります。この世界も、この世界に生まれ、生きる私たち一人ひとりもそうです。しかし、イエスは違います。イザヤ9:6に、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあって、イエスは「永遠の父」と呼ばれています。イザヤ40:28に「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」とありますが、ここで「主は永遠の神」と言われているのは、父なる神についてばかりでなく、神の御子イエスにもあてはまる言葉です。

 イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ1:18-20)と言われました。これは、永遠の神であるイエスが、世の終わりまでも、いや、そこから始まる永遠の御国においても、私たちと共にいてくださるとの約束です。本来は限りある存在であった私たちが、イエス・キリストによって、永遠の命を受け、永遠の御国で、永遠の住まいに住む者とされた。これはイエスを永遠の神の御子と信じる者に与えられている大きな恵みです。

 二、創造者である神の御子

 では、イエスが「ことば」と呼ばれているのはなぜでしょう。それには二つの意味があります。一つは、イエスがこの世界の創造者であることです。

 ここで「ことば」をあらわすギリシャ語は「ロゴス」といいます。そこから英語の logic という言葉が生まれたように、「論理」という意味があります。物事には原因があり、結果がある。これが論理の基本です。私たちが見ているこの世界は「結果」です。では、この世界には原因があるはずです。ギリシャの哲学者はそれを「ロゴス」と呼びました。「究極のもの」、「根源」が何であるかを追求してきました。しかし、その知恵や学問によっては、それが何であるかを知ることができませんでした。けれども、ヨハネはイエスこそ「ロゴス」であると言っているのです。

 江戸時代、まだ日本がキリスト教を禁止し、鎖国していた時代、聖書は、すでに香港やマカオで日本語に訳されていました。その最初の訳は、ヨハネ1:1を「はじめにかしこきものござる」と訳しました。これは「ロゴス」の意味を良くあらわしていると思います。「ロゴス」はたんなる「論理」でなく「人格」だからです。

 創世記によると、神は「光、あれ」、「大空よ、水の真っただ中にあれ」、「地は植物を、…種類ごとに地の上に芽生えさせよ」、「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ」などと言われ、世界を「ことば」で創造されました。すべてのものの「はじめ」に「ことば」があり、すべてのものは「ことば」によって創造されました。「ことば」がなければ、この世界は存在しませんでした。3節に「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」とある通り、イエス・キリストは、この世界のあらゆるものを創造し、それを支えているお方であり、私たちは一人残らず、このお方によって支えられているのです。

 私たちは、時々、自分を支えているのは、自分の信仰だと勘違いしてしまうことがあります。堅い信仰を求めることは大切なことですが、イエス・キリストに頼ることを忘れたら、それはイエスを信じるのでなく、自分の信仰を信じることになってしまいます。信仰は、尊いもの、私たちに必ず必要なものですが、それ自体に力があるかのように考えてはなりません。信仰は、皆さんがスマートフォンを充電する時のコードのようなものです。コードがなかったら、それが切れていたら、充電できません。けれども、スマートフォンに命を与えるのは、コードではなく、コードによって運ばれる電力です。そのように、信仰は、私たちをキリストにつなぎ、キリストの恵みと力を届けてくれるのです。ですから、信仰において大切なことは、イエス・キリストが永遠の神、そして、すべての物の造り主、根源であるお方であることを知って、このお方に、さらに信頼を寄せることなのです。

 三、仲介者である神の御子

 さて、「ことば」のもうひとつの意味は「仲介者」、あるいは、「エージェント」です。世界には二千の言葉があります。どんな国のことばであっても、ことばの果たす役割の主なものは、それをを話す人の心を伝えることにあります。イエス・キリストが「ことば」と言われるのは、イエス・キリストが私たちに父なる神のお心を伝えてくださる方だからです。1節の後半から2節にかけて、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と書かれています。この「神とともに」の「ともに」というのは、人格の関係を表す言葉です。たんに一緒にいるというだけでなく、父なる神と御子イエスとの間に、永遠の先から人格のまじわりがあったことを教えています。ですから、18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあって、御子イエスだけが神を知り、私たちに神を教えてくださるお方であると言われているのです。

 私たちは、「ことば」であるイエス・キリストによって神の思いを知り、お心に触れます。また、「ことば」であるイエス・キリストを通して、神の恵みと力を受け取ります。イエス・キリストは、「ことば」として、神と私たちとの仲立ちをしてくださるのです。

 こんな話があります。ひとりのホームレスが、ある親切な老人と公園で知り合い、親しくなりました。ある日、その老人は彼にシャワーをとらせ、きれいな服に着替えさせました。そして彼に「これこれの会社の重役のひとりに会って、この封筒を直接渡してほしい」と小さな封筒を預けました。その人は、言われたとおりにしました。無事封筒を渡し、帰ろうとすると、封筒を受け取った人は、彼を呼び止めて「ちょっと待ちなさい。君、明日からこの会社で働いてくれるかい?」と聞きました。びっくりしたホームレスにその重役は言いました。「この手紙はこの会社のオーナーからの手紙で、君を雇うように書かれているんだ。」このホームレスは、自分に親切にしてくれた老人がその会社のオーナーで、自分に仕事を世話してくれていたことをまったく知らなかったのです。彼は持っていった手紙に書かれた「言葉」によって仕事を得、もはやホームレスではなくなりました。地位のある人の言葉は、その力を働かせてものごとを実現するのです。人間の言葉でさえそうなら、神のことばはなおさらです。「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:10)とある通りです。

 イエス・キリストは、私たちの貧しく、足らない祈りをも完全な「ことば」に整えて父なる神に届けてくださいます。そして、父なる神からの「ことば」となって、私たちに祈りの答えを届けてくださるのです。世界を創造された「ことば」は、私たちと共にいて、私たちの生活と人生に、神の愛と恵みを注ぎ続けてくださるのです。イエス・キリストが永遠の神、世界の創造者、神と人との仲介者であることを知って、このクリスマス、このお方を私たちの日々の生活に、人生にお迎えする時としましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、私たちはイエス・キリストが私たちが思う以上の偉大なお方、永遠の神であることを学びました。地上のさまざまなものに悩まされることの多い私たちですが、そのような時にこそ、イエス・キリストが初めからおられたお方であり、今も、この後も、どんな時にも、私たちと共にいてくださることを知り、信じる者としてください。イエス・キリストの御名で祈ります。

12/3/2023