ことば・いのち・光

ヨハネ1:1-8

オーディオファイルを再生できません
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 ヨハネの福音書の書き出しと創世記の書き出しには多くの共通点があります。どちらも「初めに」という言葉で始まっています。創世記では、神が「光よあれ」、「大空よあれ」、「地は植物、草、果樹を地の上に芽生えさせよ」などと命じて、「ことば」によって世界を造られたとありますが、ヨハネの福音書でも、イエス・キリストを「ことば」と呼び、「すべてのものは、この方(「ことば」)によって造られた」と言っています。創世記では神が最初に造られたのは「光」でしたが、ヨハネの福音書でも、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と言って「光」が登場します。

 では、創世記の「初め」とヨハネの福音書「初め」では、どちらが、より「初め」でしょうか。もちろん、ヨハネのほうです。創世記の「初め」は、この世界のはじまりの時を指していますが、ヨハネの福音書の「初め」は、この世界が造られる、その以前のことを指しています。創世記が描いている世界の初めの、そのまた初め、永遠の先から、キリストは神の御子として存在しておられたのです。

 神だけが永遠の存在です。神はご自分を「有って有る者」と言われましたが、それに比べて、人間は「有って無きがごとき者」です。私たちの誰一人として、自分の意志でこの時代に、この場所に生まれてきた者はありません。また、私たちは、環境に、食べ物に、他の人に依存して生きています。自分の力だけで生きている人は地上には誰一人ありません。正確に言えば、私たちは「生きている」のではなく、「生かされている」のです。しかも、その人生は限りがあります。墓地に行くと、墓標に「1920 - 2010」などと刻まれています。1920年に生まれ、2010年に90歳で亡くなったという意味です。私たちの人生にはみな初めがあり、終わりがあります。しかも、それは墓標の最初の数字と次の数字の間隔のように短いのです。聖書に「ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました」(詩篇39:5)ある通りです。しかし、イエス・キリストは初めもなく終わりもない永遠のお方です。

 ところが、ヨハネの福音書は、この時間も空間も超えたお方が、人となってこの地上に生まれ、私たちと変わらず、限りある人生を生きられたと告げています。ヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とある通りです。この「住まわれた」という言葉には「テントを張る」という意味があります。神は、紀元前1280年に、奴隷だったイスラエルの人々をエジプトから導き出し、自由の民、神の民とされました。「出エジプト」(Exodus)です。そのとき、神は、テントで神殿を作るよう、モーセに命じました。このテント作りの神殿は「幕屋」と呼ばれましたが、この幕屋ができたとき、神は幕屋を栄光で満たし、そこに神の臨在を示してくださいました。イスラエルが荒野で宿営する時、人々は幕屋を中心にして、自分たちのテントを張りました。文字通り、神は人々の中にテントを張られたのです。

 このように旧約時代にも、神は神の民とともに住まわれましたが、新約時代には、神の御子が人となられ、そのからだをテントとして、人とともに住まわれました。それでイエスは、ご自分のからだを「神殿」と呼ばれたのです(ヨハネ2:19-21)。

 なぜ、何のためでしょうか。その答えは、イエス・キリストが、「ことば」、「いのち」、「光」と呼ばれていることに見つけることができます。「ことば」、「いのち」、「光」というキリストの呼び名のそれぞれは、キリストが人となって世に来られ、私たちに働きかけられた、その働きを示しています。それぞれが、イエスのどんな働きかけを示しているのか、順に見てみましょう。

 一、ことば

 第一に、イエス・キリストが「ことば」と呼ばれているのは、イエス・キリストが私たちに神を語ってくださるからです。確かに、イエス・キリストが来られる前も、預言者たちは神の言葉を語りました。聖書で使われている「預言者」は漢字で「言を預かる者」と書かれますが、これは預言者の役割りを正確に言い表しています。預言者たちは神から「こう語れ」と、言葉を預かって、それを人々に伝えたからです。預言者を通して語られる言葉も、確かに神の言葉なのですが、預言者はメッセンジャーであって、人々は、直接神の声を聞いたのではなく、人を介しての伝言として神のことばを聞いたのです。

 キリストが世に来られたとき、ユダヤの国には数多くの「ラビ」と呼ばれる律法の教師がいて、イエスもまたラビのひとりと考えられていました。律法学者たちは、現代の学者たちと同じように、過去の学者たちの説を引用し、その権威を用いて論じるのが常でした。しかし、イエスは「昔の人々にこのように言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」と仰って、イエスはご自分の権威で語られました。イエスがそのように語るのを聞いた人たちは、「イエスが、律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられた」ことに驚いています(マタイ7:28-29)。ある学者は「ラビたちは口ごもり、イエスは語った」と言っていますが、まさにその通りです。

 預言者は「主のみつげ」と言って、神のことばの代弁者となりましたが、イエスは神として語られました。イエスの声は、まさに神の肉声でした。預言者たちや聖書の教師は「神について」語ることはできても、本当の意味で「神を」語ることはできません。それができるのは神の「ことば」であるイエス・キリストだけです。ヘブル1:1−2に「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」とあるのは、そのことを指しています。イエスは、伝言によってではなく、直接、私たちに神と神のお心を知らせるため、「ことば」となって私たちのところに来てくださいました。

 ヘブル12:25は「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」と教えています。ヘブル人への手紙が言う「語っておられる方」とは神のことばであるキリストです。キリストは今も、天から全世界の人々に響かんばかりの声で語りかけ、また、ひとりびとりの耳元でささやいておられます。私たちは、自分がしゃべっている間は他の人の話を聞くことはできません。口を閉じ、心を静め、耳をそばだて、キリストに聴く。騒がしい現代だからこそ、一層の努力をしてキリストに聴く、より深く、神を知る者になる。そのことが必要なのではないでしょうか。

 二、いのち

 第二に、イエス・キリストが「いのち」と呼ばれているのは、イエス・キリストがご自分のいのちを私たちに分け与えてくださるからです。イエスはご自分がこの世に来られた目的について、こう言っておられます。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:10-11)

 良く言われることですが、キリストは死ぬためにお生まれになったのです。人は生きている限り罪を犯し、そして、その報いとして死を経験します。実に生きることは悲しいことであり、死ぬことは苦しいものです。しかし、イエス・キリストは、私たちを罪と死と滅びから救い出すために、私たちと全く同じ、ひとりの人間となり、生きる悲しみと死の苦しみを味わってくださいました。私たちのために、ひとたびは命を投げ出されたキリストですが、復活によって永遠のいのちを勝ち取り、それを私たちに分け与えてくださるのです。

 現代、多くの人は、物質的に豊かな生活をしようとあくせくしています。「モノがすべてではない」と言って、知識を深め、教養を高めようとする場合でも、知識や学歴を誇るようになってしまうなら、それはその人にほんとうの豊かさを与えはしません。心を豊かにするためにと、趣味や芸術に励んでも、それが優劣を競いあうものになってしまうなら、心が豊かになるどころか、そのことで思い煩うことになります。本当に豊かに生きるには、私たちのために何もかも、そのいのちさえも投げ捨ててくださったお方を信じ、このお方に従うほかありません。ぶどうの枝がぶどうの木につながっていなければ、実を結ぶことがないばかりか、枯れてしまうように、私たちもいのちそのものであるお方から離れては、永遠のいのちはないのです。キリストにつながり、キリストにとどまって、キリストの豊かないのちで生かされる、そんな人生を送りたいと願いませんか。そのためにも、キリストとのいのちのつながりをしっかりと保っていたいと思います。

 三、光

 第三に、イエス・キリストが「光」と呼ばれるのは、イエス・キリストが私たちに救いをもたらしてくださるからです。

 ヨハネの福音書で「光とやみ」と言われているのは、目に見える光と闇のことではありません。ここでの「光」は不信仰な人には見えないキリストの栄光のことであり、「やみ」は肉眼では見えてこない霊的な暗さのことです。野球のナイトゲームでスタジアムを昼間とほとんどかわらないぐらい明るく照らしても、それで社会を明るく、平和にできるわけではありません。1999年にはコロンバイン・ハイスクールで、2007年にはバージニア工科大学で、昨年(2012年)7月にはコロラドの映画館で、そして、クリスマスを前にコネティカットの小学校で乱射事件が起こりました。この小学校が近くの別の学校の校舎で授業を再開したことが、数日前、ニュースとして伝えられました。世界で最も進んだ国と自負しているアメリカでこんな悲劇が繰り返されています。人の心の中に、また、社会に、どんな電灯の明かりで照らしても消えない闇があり、その闇はますます暗くなっているように思います。

 ヨハネ3:19-20に「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」とあります。もし、私たちの過去のすべてが、その心の中までも、記録映画のようにして撮影され、スクリーンに映し出されたなら、だれもそれを見るのに耐えられなくなるでしょう。私たちは、神が私たちのすべてを知っておられ、やがてそれを明らかにされるということを、おぼろげながらも感じています。それで、光である神を避け、闇の中にとどまろうとするのです。闇を消すことができるのは光だけです。もし光を拒むなら、闇は決して消えません。神しか自分を救えないのに、その神を求めることも、近づくことも、受け入れることもしない罪。これこそが私たちの心を覆い、この世界を覆っている暗闇です。イエス・キリストは、この罪の暗闇を消し去る光として、人となってこの世に来てくださったのです。

 闇はどんなに暗くても、そこに光が当てられる時、光に変わります。私たちの罪を全部記録したフィルムがあったとしても、それをカメラから取り出して光に当てればみんな消えてしまいます。神はそのように私たちの罪を赦してくださいます。どんな暗闇もいったん光にさらされればそれはもはや暗闇でなく、光になるのです。聖書にこうあります。「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」(エペソ5:13-14)神が私たちに「悔い改めよ」と言われるのは、このような罪の赦しが備えられているからです。治療法のない病気であれば、自分が病気であることを知らない方が、あるいは、それを否定した方が心安らかでいられるかもしれません。しかし、治療法があるのに、それを認めて治療を受けなかったら、それはなんと残念なことでしょう。罪の治療法はすでにあるのです。私たちに必要なことは、罪を赦してくださるイエス・キリストを信じ、悔い改めて神の前に出ることです。その時、私たちは、自分で自覚している内面の暗闇ばかりでなく、自覚していない内面の暗闇からも解放されるのです。暗闇から解放され、光のうちを歩む、それは、すべての人の心にある願いです。光であるイエス・キリストだけがその願いを叶えてくださるのです。

 イエス・キリストは永遠の先から「ことば」、「いのち」、「光」でした。しかし、キリストは私たちの手の届かない天で神を語り、ご自分でそのいのちを楽しみ、天使たちだけに栄光を輝かせているだけのお方ではありません。「初めに神とともにおられた」と言われているお方は、神のもとから、私たちのところに降りて来て、神を語り、いのちを差し出し、光を分け与えてくださいました。それは、私たちが永遠に神とともにいることができるためです。ヨハネ1:14で使われていた「テントを張る」という言葉は黙示録でも使われています。黙示録7:15に「そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです」とあり、黙示録21:3には「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」とあります。「初めに神とともにおられた」お方は、終わりにも私たちとともにいてくださるお方です。

 私たちは、新しい年を迎えるたびに、この時代が終わりに向かって突き進んでいることを感じます。しかし、私たちは恐れません。「初めに神とともにおられた」お方が今も私たちとともにおられ、このお方が私たちを神の幕屋に導き、永遠に神とともにいることができるようにしてくださるからです。この年も、主が私たちとともにいてくださることを堅く確信して進んでいく私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、新しい年の最初の礼拝に、こうして集うことができ感謝いたします。今朝は、聖餐をもいただきます。この聖餐によって、永遠にあなたの栄光のうちにおられたはずの御子が人となり、人の間にテントを張ってお住みになられたことを覚えさせてください。聖餐をいただくとき、キリストが復活のからだをもって教会にテントを張り、ともにいてくださることを確信させてください。また、やがて、私たちも天にある幕屋に主とともに住むという希望を与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/6/2013