平和の君

イザヤ9:6-7

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9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

 一、戦争の原因

 光一くんは小学6年生です。学校で「どうやって戦争が始まるのか、考えてきなさい」という宿題が出ました。光一くんは考えてみたのですが、よくわかりませんでした。それで、父親に聞いてみました。「お父さん、どうやって戦争が始まるの?」父親は答えました。「そうだなぁ、例えばアメリカがイギリスを攻撃すると戦争が始まるんだな。」それを聞いていた母親がこう言いました。「そんなことあるわけないでしょ。アメリカとイギリスは同盟国なんですから。」父親は反論しました。「ただのたとえじゃないか。」母親が言い返しました。「間違ったたとえなんか話したら、間違ったことを覚えるじゃないですか。そんなことしたら教育にならないでしょ!」父親はいらいらして叫びました。「うるさい。黙れ。」母親も負けてはいません。「あなたこそうるさいわよ。」それを聞いていた光一くんは言いました。「お父さんもお母さんももう止めてよ。ぼく、戦争がどうやって始まるか、よく分かったから。」

 夫婦喧嘩はたいてはささいなことで始まるもので、双方の一方的な思い込みや誤解から生じるものです。互いに理解が足らなかったことを認め、十分に話し合わなかったことを反省して、コミュニケーションを良くしていけば解決はたやすいと思います。お互いが自分の非を認めることができたら、さまざまな争いは解決に向かうものです。しかし、国と国との関係になるとさまざまな利害関係がからんできますので、簡単にはいきません。人と人との関係でも、お互いが自分の非を認めるかわりに相手を非難・攻撃して、自分の正当性を主張し出すととんでもない結果になります。それによって大切な人間関係さえ壊してしまいます。争いの背後に自己本位や自己弁護、不真実や不誠実、陰口やそしり、ねたみや裏切り、いじめや党派心などといった人間の罪の性質が潜んでいる場合、問題は簡単には解決できません。

 日本の学校で「いじめ」が大きな問題になり、長年、そのための対策がとられているのに、一向に良くならないのはそのためだと思います。いじめはこどもの世界だけでなく、大人の世界にもあります。こどもの世界のいじめは大人の世界の反映なのかもしれません。日本の新聞によると、上司や同僚からことばの暴力を受けて病気になったり、自殺したりする人が増えているそうです。人と人との争いや国と国との戦争が起こるのは、たんに「相手をよく理解していないから」、「話し合いが足りないから」、「文化や宗教が違うから」というだけでなく、そこには罪というもっと深い原因があるのです。

 戦争、争いには、人間の罪とともに、もうひとつの原因があります。それは「恐れ」です。自分の命が脅かされるのではないか、自分の財産が奪われるのではないか、自分の立場やプライドが傷つけられるのではないかなどという恐れがあって、それを克服できないとき、その恐れが引き金となって、人は罪を犯すのです。自分を守ってくれるものを持たない人、それを知らない人は、まわりの人がみんな自分を脅かすものに見えてしまいます。それで自分が攻撃される前に相手を攻撃してやろうとして、争いがはじまるのです。"Peace" は「平和」とも、「平安」とも訳すことができます。「平安」の反対は「恐れ」です。「平和」の反対は「戦争」です。人々の心から平安が消え、心が恐れに満たされるとき、平和が壊れ、戦争が起こるのです。

 国と国との戦争も同じです。日本の戦国時代、内陸の領主たちは、領土を広げて海を手に入れようとして、戦争を起こしました。海を持たず港を持たなければ他の国々と交易ができない。交易ができないと、国力が弱くなって、他の国々に滅ぼされてしまうと考えたからです。世界に目を向けると、冬には港が氷で閉ざされてしまう国が、暖かい地方にある港を手に入れるため、まわりの国々に戦争をしかけたこともありました。第二次大戦を引き起こした国は、人種も宗教も違う人々が自分たちの国の経済を支配してしまうのではないかと恐れ、六百万人もの市民を殺しました。資源を持たない日本も、世界から孤立し、経済封鎖を受けたため、石油と土地と資源を求めて他の国々を侵略しました。不安が恐れになり、恐れが日本を戦争へと駆り立てたのです。多くの国は恐れにとりつかれて戦争を始めます。自分が滅ぼされる前に相手を滅ぼしてしまおうと考えるのです。そうして戦争に勝って世界でナンバーワンの国になったとしても、将来自分より強い国が出て来るのではないかとの恐れは消えません。それで、将来強くなりそうな国々を潰しにかかるのです。恐れにとりつかれている間は決して平和が続くことはないのです。

 多くの人が戦争のない平和な世界を願っているのに、それが実現しません。いさかいのない人間関係、争いのない家庭を誰もが求めているのに、それが得られません。なぜでしょうか。それは、世界に、社会に、家庭に、そしてひとりびとりの心に「恐れ」があり、それに縛られているからなのです。

 二、平和への道

 では、「恐れ」から解放され「平安」を得る道はどこにあるのでしょうか。

 救い主が生まれ、やがて「平和の君」と呼ばれるようになるとの預言は、最初に、ユダの国のアハズ王とその国民に与えられたものです。それは、シリヤとイスラエルの連合軍が攻めて来るとのうわさがひろまり、ユダの国が大揺れに揺れていた時でした。イザヤ書7章にさかのぼると、そのときの事情が良く分かります。イザヤ7:2に「時に『スリヤがエフライムと同盟している』とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」とあります。当時、ユダヤ人の国は北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていました。その北王国イスラエルが南王国ユダを併合するために隣国のシリヤと共同で攻めてくるというのですから、国中が大騒ぎにならないわけがありません。

 そのとき神は預言者イザヤに「布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端」(イザヤ7:3)でアハズ王に会うよう命じました。なぜ、「上の池の水道」という場所が指定されたのでしょうか。それは、アハズ王が戦争に備えて水を確保するため、水道の点検に出かけていたからです。戦争になれば、水と食糧を確保することが何より大切になります。王には戦争に備え国を守る義務がありますから、アハズ王がしたことは、間違ってはいませんでした。しかし、ユダは神の民でユダの王はダビデの子孫です。神は、ユダの王や国民に、他の国とは違って、神に信頼することを求められました。ところが、アハズ王も人々も神に信頼することを忘れ、あわてふためいたり、人間的な方法だけで国を守ろうとしたのです。それで、神はイザヤを通してこう語られました。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。…スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、『われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない。」(イザヤ7:4-7)

 神は、シリヤとイスラエルの陰謀をすでに砕き、その侵略を防いでおられたのです。なのにアハズ王も、ユダの人々も起こりもしないことを心配して恐れていました。それに対して神は「この事は決して行われない、また起ることはない」と明言してくださったのです。戦争の恐れという大きな事柄ばかりでなく、わたしたちは日常のさまざまな事柄について心に恐れを持ちます。この世界はわたしたちを不安にさせるもので満ちています。健康のこと、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと、経済のこと、そして、めまぐるしく変わる世界情勢のことなどで不安を抱き、恐れを感じます。その恐れを取り除くのは、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」と語りかけてくださる神のことばです。神と神の確かなことばを信じる信仰です。聖書には「恐れるな」という言葉が365回以上出てくると言われています。わたしたちは毎日、毎日恐れを感じ、平安を失くします。それで神は、1年365日分、「恐れるな」という言葉を用意してくださったのでしょう。

 しかし、「恐れない」というのは、物事を真剣に受けとめない、何があっても意に介さない、神のお心にも他の人の気持ちにも鈍感であるということではありません。本当の平安を得、恐れのない人生を送るためには、まず、何よりも神を恐れることからはじめなければなりません。イザヤは幻のうちに神を見たとき、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫びました。イザヤは立派な信仰者でした。神に選ばれ、神の言葉を人々に伝える預言者でした。しかし、人間は、どんなに優れていても、被造物であり、罪びとです。イザヤはそのことのゆえに聖なる神の前に恐れおののきました。しかし、同時に「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」(イザヤ6:7)との言葉を聞きました。イザヤの罪は赦され、きよめられ、イザヤは神との間に平和を得、神の前に平安をいただいたのです。

 ほんとうの平安は、神を恐れ、聖なる神の前に自分の罪を悔い改めることから始まります。そのとき、「平和の君」である救い主イエス・キリストは、聖なる神と罪あるわたしたちとの仲立ちとなってわたしたちの罪を赦し、きよめてくださるのです。聖書には、悔い改めて罪赦された喜びがいくつも語られています。イエス・キリストを信じたときも、また信じてからも、罪の赦しやきよめを体験した人が、喜びにあふれて、それこそ平安に満たされて証しするのを、わたしは数多く聞いてきました。これは真実なクリスチャンに共通した体験です。そんな証しが教会にみちあふれるようにと願っています。人々は、教会に、この世には無いものを求めています。わたしたちから恐れを取り除いてくれる罪の赦しやきよめについてまだよく理解していなかったとしても、そうしたものがあることをぼんやりと感じ、求めています。それが、イエス・キリストにあることを、はっきりと証ししたいのです。わたしたちは、かつて体験したというだけでなく、日々体験しています。そのことを証ししたい、それがわたしたちの願いです。

 神はイザヤに言われました。「彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。」(イザヤ8:12-13)主イエスも弟子たちに言われました。「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28)神を恐れる人が、恐れから救われるのです。平和の君であるイエス・キリストが恐れから救ってくださるのです。

 神を信じ、キリストに従う者は、平和のうちに、平安をもって生きたいと願っています。自分に与えられた分を越えて他の人の領域をかき回したり、自分の思い通りにならないからといって他の人に当たったりしないように、どんな争いごとからも無縁でありたいと願っています。しかし、信仰者にも闘いがあります。家族を支えるための生活の闘い、社会の正義や公平のための闘い、また真理を求め、人間としての向上を求めるという闘いがあります。平和のうちに生きるということは何でも丸く収めて妥協するということではないのです。人間として真実に生きよう、神に喜ばれるように生きようとするとき、避けられない闘いがあります。しかし、その中でも、わたしたちは確かな平安を受けることができるのです。

 あなたの恐れは何でしょうか。恐れがあることも、自分がすぐに恐れを抱いてしまう弱さを持っていることも恥ずかしいことではありません。それよりも恥ずかしいことは恐れを隠して、強がって生きることです。正直に自分のうちにある不安や恐れを認め、主イエスに平安を願い求めましょう。「平和の君」イエス・キリストを心に迎え入れ、この方と共に歩みましょう。そのとき、「平和の君」は、あなたの心に生まれ、宿ってくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちには恐れがあります。それが私たちから平安を奪い、他の人との平和を壊しています。私たちを、あなたを恐れ、平和の君であるイエスに従う者としてください。恐れにかえて、平安を、この世が与える「安心」ではなく、本物の「平安」で私たちを満たしてください。私たちを、あなたの平和に導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/21/2014