とこしえの父

イザヤ9:6-7

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9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

 イザヤ9:6ー7では、救い主が四つの称号で呼ばれています。「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」です。この中で、いちばん分かりにくいのが「とこしえの父」だろうと思います。救い主イエス・キリストは神の御子なのに、なぜ「父」と呼ばれるのか、神が「父」と呼ばれるのは分かるが、なぜ御子まで「父」と呼ばれるのだろうかという疑問が起こって来るからです。それで、今回は、ここで言う「父」にはどんな意味があるのか、しかも「とこしえの」と言われているのはなぜなのかを考えてみることにしましょう。そして、「とこしえの父」という称号に含まれているメッセージを聞き取りたいと思います。

 一、「父」

 ガリレオ・ガリレイは「天文学の父」、デカルトは「哲学の父」、バッハは「音楽の父」と呼ばれています。こうした人々が「父」と呼ばれるのは、それぞれの分野でそれまでになかった新しいものを生み出し、その後の学問や芸術の発展の基礎を作ったからです。救い主が「父」と呼ばれるのも同じです。救い主は、それまでになかった新しいものを生み出したからです。では、救い主イエス・キリストは何を生み出したのでしょうか。

 それは第一に、救いです。一般にイエス・キリストは「キリスト教」という宗教を作った人、教祖だと思われていますが、そうではありません。宗教と言ってもさまざまありますが、本来の宗教は、救いを探求する人間の努力であると言ってよいでしょう。どうしたら人はさまざまな苦しみや不安を乗り越えて、幸いや平安を得ることができるのか、真理や永遠の命はどこにあるのか、それを捜し求めるものが宗教です。ですから、宗教は救いを探し求める助けにはなっても、救いそのものを与えることはできません。宗教は真理への道案内ですが、真理そのものでも、道でもありません。ただひとつの道、真理、命はイエス・キリストです。イエス・キリストは「こうしたら救われる」「ああしたら永遠の命を得られる」という宗教の方法を編み出し、それをわたしたちに伝授したのではありません。ご自分の命をかけてわたしたちのために救いを成し遂げ、それを信仰によって受け取る無償のギフトとして差し出しておられるのです。聖書はイエス・キリストを「救いの創始者」(ヘブル2:10新改訳)と呼んでいます。イエス・キリストは救いを生み出したお方です。

 第二は「信仰」です。救いは信仰によってしか受け取ることができません。わたしたちが間違いなく救われるためには、救いに至る正しい信仰を持つ必要があり、それを学ぶ模範が必要です。そうした模範は旧約聖書や新約聖書、初代教会やその後の歴史の中に見ることができますが、信仰者といえども、弱さや失敗があり、その人のすべてに見習うことはできません。それで、イエス・キリストはひとりの信仰者として地上に来てくださり、わたしたちに信仰とは何かを教えてくださったのです。イエス・キリストはわたしたちの信仰の対象であるお方なのに、地上では、ひとりの信仰者として生き、神を信じ、神に従うことがどんなことかを身をもって示してくださいました。聖書はイエス・キリストを「信仰の創始者」(ヘブル12:2新改訳)とも呼んでいます。信仰もまたイエス・キリストから来るのです。

 第三は「神の国」です。イザヤ書をはじめとして、旧約聖書は、救い主が「王」として来られ、地上に神の国をうちたてると預言しています。イエス・キリストが宣教を始めたときの第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)でした。イエス・キリストは、まず、人々の心の中に神の国を生み出されました。イエスが語る福音を聞いて信じた人々は、神の愛と恵みの支配を心に受け入れ、神の国の喜びを味わったのです。キリストを信じた皆さんも、同じ喜びを味わっていることと思います。

 国を独立に導いたり、新しい体制へと改革した人たちは「独立の父」や「建国の父」と呼ばれます。インドではガンディーが「独立の父」と呼ばれ、アメリカでは初代大統領ジョージ・ワシントンが最も尊敬されていますが、独立戦争にかかわった人々が「建国の父たち」と呼ばれています。昨年亡くなった南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領も「アフリカの父」と呼ばれました。救い主が「父」と呼ばれるのは、神の国の「建国の父」という意味です。救い主は信じる者たちを御国の民とし、ご自分の民を養い、守り、導いてくださるのです。

 どこの国でも、「建国の父」には最大級の栄誉が与えられ、敬愛されています。それは、その人たちが国の独立、改革のために、命の危険をかえりみず、自分を犠牲にして働いたからです。ガンディーは「非暴力」を唱えましたが、不買運動など、インドを圧迫した国への「不服従」を貫きました。そのため何度も投獄されました。インドは独立を果たしたものの、パキスタンの分離に直面し、そのことで、ガンディーは暗殺されています。ネルソン・マンデラ大統領も、反アパルトヘイト運動に参加したため、27年間も投獄され、獄中で結核に冒され、強制労働のため目を痛めました。それでも、自らの信念を曲げず、ついに南アフリカをすべての民族が参政権を持つ国へと導いたのです。イエス・キリストは、それと同じように、いやそれ以上に、自らを犠牲として捧げ、神の国を開いてくださいました。「建国の父」たちに大きな栄誉が与えられるのなら、御国の創始者であり、その王であるお方にはどれほどの栄誉、栄光、賛美と敬愛をささげなければならないでしょうか。天では「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」との賛美が絶え間なくささげられています。わたしたちも全世界の救い主を、心の底から大いにあがめたいと思います。

 二、「永遠」

 救い主が「父」と呼ばれるのは、その偉大な救いのみわざのゆえでした。では、救い主が「とこしえの」または「永遠の」父と呼ばれるのはなぜでしょうか。それは、救い主ご自身が永遠のお方であり、その救いも永遠に変わらないから、何よりも、救い主の愛が永遠に変わらないからです。

 「独立の父」、「建国の父」と呼ばれた人たちはたとえ、後世まで長くその功績が讃えられても、その人たち自身は世を去っていきます。今、ワシントンがいてくれたら、リンカーンがいてくれたらと思ってもそれはできません。しかし、イエス・キリストは、十字架ののち復活し、今も生きておられます。今も変わらず、人々を救い、神の国を完成に向けて導いておられるのです。聖書が言うように「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)のです。ですから、イエス・キリストの救いも「永遠の救い」(ヘブル5:9)なのです。救いと救われる方法は時代によって変わるものではありません。信仰をもってイエス・キリストに来るものは救われる。これは永遠に変わりません。永遠に変わらない救い主が、永遠に変わらない救いを、永遠に変わらない言葉によって保証してくださっている、これ以上に確かなものはありません。「永遠の父」と呼ばれている、この救い主イエス・キリストへの信頼によって、わたしたちの救いをさらに確かなものにしていきたいと思います。

 この世のものは常に移り変わります。人の愛もそうです。聖書は「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(コリント第一13:13)と教えていますが、ここで言われている「愛」は神がわたしたちを愛してくださる愛、わたしたちが神を愛する愛、また、神にあって互いに愛しあう愛のことであって、神の愛よって支えられていない愛は、もろく、移り変わるのです。あんなに愛しあっていた夫婦が、あんなに仲の良かった兄弟や姉妹が、あんなに信頼しあっていた親友が、互いに対立し、いがみあい、ののしりあう、そんな悲しい出来事が、わたしたちの身の回りにいくらでもあります。しかし、この世のものがどんなに移り変わっても、救い主は永遠のお方です。その愛は決して変わることがありません。

 ヘブライ語の「永遠」には、「時代から時代へ」という意味があります。救い主が「永遠の父」と呼ばれるとき、過去においても、現在においても、未来においても、いつでも「父」であり続けるという意味です。ヘブライ語的に言えば「永遠の父」は「いつでもの父」と言うことができます。「いつでもの父」、それはルカ15章の放蕩息子の父親の姿の中にみごとに描かれています。

 息子が父親に生前贈与を申し出ました。息子はお金を手にすると、家を飛び出し、遠い国に出かけました。毎日遊びほうけて、父親から得たお金を湯水のように使い果たしてしまいました。悪いことにその国に飢饉が起こり、息子はたちまち食べるのにも事欠くようになりました。息子はどん底まで落ちて、やっと目が覚めました。「父親のところに帰ろう。いまさら、息子ですとは言えない。雇い人のひとりにしてもらおう。」そう意を決して、立ち上がって父親の家に向かいました。

 父親のほうはといえば、毎日、息子のことが心配で、夕暮れになると家を出て、息子が飛び出していった道を眺めていました。そこに、ボロ布をまとい、裸足でとぼとぼと歩いてくるひとりの人がやってきました。息子は変わり果てた姿になっていましたが、父親は、それが息子であることを認めて、自分の方から走り寄り、息子を抱きしめて家に迎えました。この父親は、息子がちいさくてかわいいときに彼の父親だった、親に従順だった若いころに彼の父親だったというだけではなかったのです。息子が財産を奪い取るようにして家を飛び出したときも、彼は息子の父親でした。「あんな奴は俺の息子でも何でもない」と言って、父親であることを止めませんでした。遠い国で遊びほうけているという噂を聞いたときも、彼は息子の父親でした。息子が乞食同然の姿になって帰ってきた時も、彼は息子の父親でした。放蕩息子の父親は、息子がどんな状態になっていた時にも、ずっと息子の父親であり続けたのです。

 放蕩息子の父親は、父なる神を表わしています。神は、わたしたちの状態が、たとえどんなであろうと、わたしたちの父であり続けてくださるのです。神は、この変わらない愛を、ご自分の民にずっと示してこられました。イザヤ46:3-4で、神は「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と言われ、イザヤ54:8では「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」と言っておられます。エレミヤ31:3 には「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」としるされています。

 救い主はこの神の愛によって世に遣わされました。御子は、父なる神の愛の心そのものです。この神の愛、変わらない愛は、イエス・キリストによってわたしたちに伝えられ、分け与えられました。イエス・キリストは「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と約束しておられます。「いつも」、それはわたしたちが順調なとき、従順であるときだけではありません。苦しみの日にも、失敗の日にも、主は共にいてくださるのです。

 今年もさまざまな事件が世界中で起こりましたが、中でも大きな話題になったのは韓国の客船セウォル号が転覆、沈没した事故だろうと思います。そのとき、船長はじめ、一部の乗組員が乗客のふりをして船から脱出したことが大きな非難の的となりました。そんな中でも、高校生を含め、多くの人が他の人を救うために自ら犠牲になりました。誠実なひとりの人によって多くの人が救われることもあれば、不誠実なひとりの人によって多くの人が命を落とすこともあるのです。この船長は、都合のいいときは船長で、都合が悪くなると船長でなくなりました。けれどもわたしたちの救い主は違います。いつ、どんな状況の中でも、変わることなく、わたしたちの救い主でいてくださいます。変わらない愛で、わたしたちを愛し通してくださるのです。

 この救い主に結ばれるとき、わたしたちの人生や日常のいとなみが、永遠につながるもの、いつまでも残るものとなるのです。「永遠」、それは救われる以前のわたしたちにはなかったものです。しかし、永遠の救い主イエス・キリストによって、永遠の救い、永遠の命を受けたとき、永遠がわたしたちのものとなりました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛…。」救い主に信頼し、救い主を待ち望み、救い主を愛する人生は、過ぎ去っていくはかない人生ではありません。永遠につながり、永遠を目指して生きる充実した、悔いのない人生となるのです。

 救い主が「永遠の父」と呼ばれていることの中には、このようなメッセージがあります。この救い主によって、さらに確かで、意味のある、人生へと歩み出そうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストによってわたしたちに永遠を示してくださいました。永遠に向かって生きるために、信じる者に永遠の命を与えてくださいました。クリスマスを迎えるこの喜びの時に、わたしたちの霊を、あなたの永遠の愛で満たしてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/14/2014