大能の神

イザヤ9:6-7

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9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

 救い主が来るおよそ750年前、預言者イザヤは救い主のことを事細かに預言しました。イザヤ9:6ー7では、救い主が「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれると預言されています。「名は体を表わす」と言われるように、これらの称号は救い主がどのようなお方であるかをわたしたちに教えています。今朝は、先週も学んだのですが、もう一度「霊妙なる議士」という称号をとりあげ、次に、「大能の神」という称号を新しく学ふことにしましょう。

 一、救い主の知恵

 「霊妙なる議士」の「議士」(カウンセラー)というのは、政治や軍事について王に助言を与える人のことです。預言者イザヤもそんなカウンセラーのひとりでした。しかし、王たちはイザヤの助言に従いませんでした。イザヤは神の言葉を王たちに伝えたのですが、王たちはその神の言葉に聞き従わなかったのです。王たちは神の御心を知らず、人々の必要に無頓着で、国の将来を見通す知恵を持っていませんでした。しかし、救い主は違います。救い主は王として来られますが、ご自身が「カウンセラー」であり、すべての知恵に満ちているお方なのです。救い主はご自身がカウンセラーの持つ知恵、いや、それ以上の知恵をもって、人々とこの世界を導かれるのです。

 イザヤが預言したこの救い主は、イエス・キリストです。歴史にはすぐれた知恵を持つ人が数多くありました。しかし、そうした人々はみな、「自分たちは真理の探求者であって、まだ真理の完全な姿を見ていない」と告白しています。ギリシャの哲学者ソクラテスは「唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である」「自分が無知であるということ以外は、わたしは何も知らない」と言いました。使徒パウロも「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(コリント第一8:2)と戒めています。パウロは誰よりもキリストを愛し、誰にも勝る大きな働きをし、誰よりも高い信仰の水準に達した人です。それでも、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ3:12)と言っています。パウロの言葉はどんな人も地上では完全な知恵、知識に到達できないことを物語っています。しかし、イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と明言されました。どんなに知恵ある人も、「自分は真理の探求者であり、その道案内にすぎない」と言っているのに、イエス・キリストは「わたしこそ真理である、道である」と宣言なさったのです。なぜイエスはそう言うことができたのでしょう。それは、イエス・キリストこそ神の御子であって、あらゆる知恵と知識の源であるからです。イエス・キリストこそ、知識そのもの、知恵そのものです。人が持つ知恵、知識は、知恵と知識の源から分け与えられたものにすぎないのです。

 イザヤ書で救い主が「驚きのカウンセラー」と呼ばれているとおり、イエスの知恵は、いつでも人々にとって「驚き」でした。イエスはこどものころ、その知恵、知識を垣間見せたことがあります。12歳のとき、神殿でおとなに混じって学者たちの話を聞き、質問したり質問に答えたりして、こどもとは思えない知恵を現わしました。それで「聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた」(ルカ2:47)と聖書にしるされています。

 イエスが宣教をはじめると、人々はその教えに驚きました。イエスは教師のように神を指し示したのではなく、まるで神ご自身が語られるかのようにして語られたからです。実際、神の御子イエスは、神として人々に語り、人々は神の言葉の解説ではなく、神の言葉そのものを聞いたのです。人々は「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか」(マタイ13:54)と言って驚きましたが、イエスはその知恵、知識を「どこかで習ってきた」のではありません。それは神の御子として本来持っておられた知恵と知識でした。人々は人としてのイエスだけを見、神の御子としてのイエスを見ようとしなかったのです。

 わたしたちはどうでしょうか。救い主がカウンセラーとして来られ、神を知る知恵、救いに至る知識を与えようとしておられるのに、かつてのユダヤの人々のように、無関心で冷淡な態度を取ってはいないでしょうか。救い主は、救い主に会いたいと熱心に求める人によって見出されます。キリストは、昔も今も、このお方を知りたいと願う人にご自分を示してくださいます。

 イエスがお生まれになってしばらくしてから、東方の博士たちがエルサレムにやってきて、「救い主はどこにお生まれになりましたか」と尋ねました。学者たちは、聖書を調べて「キリストはベツレヘムで生まれる」と答えました。それを聞いた博士たちは、もう暗くなっていたにもかかわらず、すぐさまベツレヘムに向かいました。救い主に会いたくて、会いたくて、翌日まで待っていることができなかったのです。そんな博士たちを星が導きました。博士たちは高価な贈り物をささげて幼子の救い主を礼拝しました。神は、本気で求める人を必ずキリストのもとに導いてくださるのです。

 しかし、エルサレムの人々は、救い主誕生の場所を言い当てた学者たちを含め、だれひとり救い主を礼拝するためにやってきませんでした(ルカ2:1-12)。このことは、「救い主について」何かを知っているだけでは、「救い主を」知っていることにはならないということを教えています。「キリストを知る」というのは頭で知る知識ではなく、人格的にキリストに触れるということです。キリストを自らの人生に迎え入れ、キリストに触れていただくということです。神との生きた触れ合い、それが信仰です。聖書の知識は、ユダヤの人々に与えられた特権でした。しかし、救い主を知りたいとの願い、求めがなければ、その知識も生かされません。東方の博士たちは、聖書の知識は乏しくとも、救い主への熱い思いに溢れていました。ユダヤの人々が救い主を知らないままに終り、ユダヤの人々から「異邦人」と呼ばれて蔑まれた人々が、その熱意のゆえに救い主を見出したのです。わたしたちも、主を知ることを求めましょう。真剣に、熱心に、本気で主を求めたいと思います。そのとき、わたしたちはカウンセラーであるキリストがいつもわたしたちと共にいて、わたしたちを教え、導いてくださる、幸いな人生を歩むことができるのです。

 二、救い主の力

 次に、「大能の神」に進みましょう。「神は全知全能」と言われますが、最初の称号、「霊妙なる議士」は救い主が「全知」のお方であることを示し、「大能の神」という称号は救い主が「全能」のお方であることを示しています。救い主は全知全能の神なのです。自分のことさえ救えない人間は、他の人々を救うことはできません。それができるのは全知全能の神だけです。キリストは人を救うために人となられましたが、だからと言って、神で無くなったわけではありません。イエス・キリストは人となられたあとも「神の御子」、また「子なる神」であり続けました。イエス・キリストは父なる神と等しく、知恵と知識、また力を兼ね備えたお方、「全知全能の神」です。

 イエスが「全能の神」であることを示すものが、イエスのなさった奇蹟です。「奇蹟」と聞くと、どても信じられないという人が多くいます。それは科学が発達していなかった時代の人々の錯覚だというのです。世界は科学によって知られている法則によって支配されている。だから、自然の法則を乱す奇蹟というものは存在しないと考えるわけです。しかし、世界は「法則」によって支配されているのではなく、自然の法則を含め、あらゆるものをお造りになった神によって支配されているのです。自然の法則の上に神がおられるのです。そしてその神が全能のお方であれば奇蹟は存在し、イエス・キリストが全能の神であれば、イエスが奇蹟を行われることは不思議でも何でもないのです。

 とはいえ、イエスはむやみに奇蹟をなさいませんでした。それには目的がありました。第一に、それはイエス・キリストが約束の救い主であることを示すためでした。バプテスマのヨハネの使者が、「『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」とイエスに尋ねたとき、イエスは、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」(ルカ7:22)と答えました。イエスのなさった数々の奇蹟が、イエスこそ「きたるべきかた」、救い主であることを証明していると答えられたのです。

 イエスは、ご自分を信じようとしなかった人々に「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ10:38)と言われました。ことばだけなら、誰でも「わたしは救い主だ」と言うことができるでしょう。実際、「わたしが救い主だ」という人は世界中に何人も現れました。今もそういう人がいるかもしれません。しかし、そういう人は、宗教を利用して何かを企んでいる野心家にすぎません。そうでなければ、精神的におかしい人かもしれません。そういう人の言っていることは矛盾だらけで、聞くに値するものではありません。その人が本物であるかどうかは、その人のしていることで分かります。いつわりの救い主は、イエス・キリストのような人々への愛を持っていませんし、イエスのように神の言葉を語ることはできません。そしてなにより、イエスがなさった力あるわざを決してできないのです。奇蹟はイエスが救い主であることを証明するために不可欠なものだったのです。

 第二に、奇蹟は、わたしたちが救われるのは神の全能の力によることを示しています。「おかげさまで、大変助かりました」ということを伝えるとき、英語で "You saved me." と言うことがあります。「救う」という言葉が使われてはいても、それは事業に失敗したときに融資をしてくれた、仕事をなくしたときに就職の世話をしてくれた、人間関係でこじれていたときそれを仲裁してくれたなどということであって、困っているときに助けてもらったということを意味しています。しかし、イエス・キリストが「救う」という時、それは、人間にとって、もっと根本的な問題、罪からの救いを指しています。人は、誰にも罪があり、それが人を神から遠ざけています。造り主である神を認めなければ、人生の意味も目的もつかむことができません。主なる神に逆らっては、人は従順で謙遜にはなれません。知らず知らずの間にわがままになり、自己中心になってしまいます。正しく、きよい神から離れては、正しい行いを貫き通すことはできません。愛の神に背を向けて、人はほんとうの意味で他の人を愛することはできないのです。罪は、わたしたちから善を行う自由を奪います。これは悪いことだから、自分を駄目にしてしまうから、他の人を傷つけてしまうからやめようと思っても、それができなくなります。罪は人を奴隷にするのです。

 そんなわたしたちが、罪からきよめられ、解放されるのは、神の全能の力によらなければできることではありません。わたしたちが新しく生まれ、闇から光に向かい、死から命に移されるという「救い」は、それ自体が奇蹟なのです。ですから、この「救い」をもたらす救い主は、奇蹟を行うことができる「大能の神」でなければならないのです。

 多くの人は人生のさまざまな問題にぶつかって、はじめて信仰を求めます。そして、そこでイエス・キリストの救いを見出します。イエス・キリストによって罪の赦しを受け、生まれ変わりを体験し、神の子どもとされるという根本的な救いを得たとき、今まで自分を苦しめ、束縛していたさまざまな問題もまた解決していることに気付きます。それが即座に解決しなかったとしても、問題の解決を求める方向を示され、そのために忍耐深く祈ることができる力が与えられます。イエス・キリストが与えてくださる救いは罪からの救いですが、そこには日常のさまざまな問題の解決も含まれています。イエス・キリストを真心から信じ受け入れた人は罪からの救いという大きな奇蹟とともに、日常の問題の解決という小さな奇蹟を日々に体験することができるのです。

 わたしは、はじめて聖書を読んだとき、マタイ福音書の5〜7章にある「山上の説教」にとても心を打たれました。そして、8章に進んだとき、イエスが当時「らい病」と呼ばれていた重い皮膚病にかかった人に手を触れ、その人をきよめてくださったというところを読みました。普通なら、「山上の説教」に感動する人も、こうした奇蹟の記事に躓いたりするのですが、わたしは、この奇蹟を素直に受け入れることができました。なぜかといえば、もしイエスが病気で醜くなった人を避けたとしたら、自分のような者はイエスの目にもとまらないだろう、また、イエスが病気でただれた身体をきよめることができなかったとしたら、わたしの、この汚い心をきれいにすることはできないと思ったからです。当時人々が忌み嫌った重い皮膚病の人に近づき、手を触れてくださるばかりか、その人をきよめることによって、イエスはその愛と力とを同時に示してくださったのです。

 わたしたちには「霊妙なる議士」と呼ばれる救い主の知恵が、「大能の神」と呼ばれる救い主の力が必要です。キリストはその大きな愛によってそれらを与えてくださいます。それを日々に体験できるよう、祈り、求め、歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストによってわたしたちに救いの知恵と力を現わしてくださいました。わたしたちは主イエスをさらに知りたい、そのお名前に込められたものを体験したいと願っています。どうぞ、わたしたちを「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて」(ペテロ第二3:16)成長させてください。救い主イエス・キリストの力あるお名前で祈ります。

12/7/2014