慰めの神

イザヤ66:12-14

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66:12 主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。
66:13 母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。
66:14 あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

 一、慰めはどこに

 人はだれも慰めを必要としています。みなさんの中に「私には慰めがいらない。」という人がひとりでもいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限り、さまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな課題をかかえています。アメリカ、とくにシリコン・バレーは経済的に豊かなところですが、その豊かさを保つために、みんな必死になって働いています。仕事は人生を意義あるものにするためのものであるのに、仕事で目標を達成するために、仕事の奴隷のように働かなくてはならないということもあります。もっと豊かな人生を送れるはずなのに、いつのまにか仕事自体が人生そのものになってしまうのです。そんなことで精神的な余裕を失うと、ちょっとしたことで挫折したり、失望しがちです。体力や気力が衰えたり病気になって家に閉じこもりがちになると、孤独を感じる人も多いと思います。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩み打ち明けることのできる人がいなければ、同じように孤独に陥るでしょう。まわりの人の誰も自分のほんとうの気持ちを分かってくれない時、人は孤独に陥るのです。三木 清という人が「孤独は山になく街にある。」と言ったとおりです。

 困難、挫折、失望、病気、そして孤独に直面する時、私たちに必要なものは慰めです。人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それでアメリカにはあらゆるエンターテーメントがあふれるようになりました。アメリカは、おもちゃから自動車にいたるまで、さまざまなものを世界中から輸入しています。「そのうち "Made in USA" の製品がなくなってしまう。」などという人もいますが、おそらく「エンターテーメント」だけは、アメリカが輸出できるものとして残るでしょう。ハリウッドの映画は世界中に行き渡り、デズニーランドやユニバーサルスタディオ、ロゴランドなどのテーマ・パークがいろんな国に作られています。こうしたものはすべて "Made in USA" ですね。けれども、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしであって、人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できない人は、やたらと高価なものを買い漁ったり、酒やギャンブル、セックスに溺れるようになるのです。そしてもっと刺激の強い物を求めて、ドラッグに手を出すようになります。しかし、こうしたもは、一時的には渇きをいやしてくれるように見えても、飲んでもまた乾く水のようなものです。人の心をうるおし続けることはできません。酒やドラッグ、金銭やギャンブル、また、人間関係のアディクションは、人の心にもっと渇きを与えるようになります。それは人を慰めるどころか、もっとひどい状態に引き込むのです。

 では、ほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。どうしたら、その慰めを得ることができるのでしょうか。

 二、慰めは神に

 聖書は、慰めは神にあると教えています。今朝の聖書、イザヤ書は、イスラエルはバビロン帝国に滅ぼされるけれども、神がかならず国を再興してくださるということを預言した書物です。古代の歴史で、いったん滅ぼされて、よみがえった国はほとんどありません。バビロンも、ペルシャも、またアレクサンダー大王の帝国も、ローマも亡びたままで、歴史から姿を消してしまいました。ところが、紀元前586年に滅んだイスラエルは、それから一世代のうち、紀元前538年に復興しはじめています。イスラエルの復興は、まさに神の力によってもたらされた奇跡でした。そればかりでなく、それは神の愛による奇跡でもありました。イスラエルは、神の民であるのに、自らの神を捨て、不道徳な生活と不公平な政治をして、みずから国を滅ぼしたのです。イスラエルは神の怒りを受けて滅びて当然でした。しかし、神は、イスラエルに再び救いの手をさしのべてくださったのです。イスラエルの回復は、イスラエルに対する神の愛の回復によるものでした。王を失い、国を失い、神殿さえも破壊されて、約束の土地を追われた人々に、神は愛を注ぎ、彼らを慰めてくださるというのです。この神の愛の回復について、イザヤ書12:1に「その日、あなたは言おう。『主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。』」と預言されています。

 イザヤ書の後半には、この神の慰めの預言が集中しています。「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。」(イザ49:13)「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(イザヤ51:3)「エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。」(イザヤ52:9)神の慰めについて語っている箇所は、あげればきりがないほどです。けれども、この慰めの約束がたんにイスラエルのためだけであったなら、その約束がどんなに素晴らしいものであっても、私たちにはあまり意味がありません。しかし、神の慰めの約束は、イスラエルのためだけではなく、今、この時代に生きる私たちにも与えられているのです。神の慰めは、主イエス・キリストによって、私たちにも約束されているのです。

 主イエスは、宣教をはじめられた時、ナザレの町の会堂でイザヤ書を手にとり、その61章を開いて朗読されました。そこにはこう書かれていました。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:1-3)これは、イスラエルの回復の預言で、主イエスがこれを朗読された500年前に成就しているはずです。ところが、主イエスは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と言われました。イザヤ書は過去のイスラエルの回復だけではなく、救い主のことも預言しており、この救い主を信じるすべての人が神の慰めを受けると言っています。主イエスは、イザヤ書を朗読することによって、ご自分がその救い主であり、人々を慰める者であると言われたのです。主イエスは山上の説教で「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)と宣言されましたが、それは「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」という預言が信じる者に成就するということを教えているのです。

 ですから、イザヤ66:12-13に「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。」ということばは、主イエスを信じる、今日の私たちに対することばなのです。私たちが、神に向かって「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)と言うことができるのはじつに、この神の愛が私たちに注がれ、神の慰めで取り囲まれているからです。

 人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力ある慰めです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどのものです。罪の中に、絶望の中に死んでいる者を、そこから引き上げることのできる慰めです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救のないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51:12で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

 三、慰めは神のことばによって

 この神の慰めは、どのようにして与えられるのでしょうか。それは、神のことばによってです。イザヤ40:1-2に、こう書かれています。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。 『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」ここに、「語りかけよ。呼びかけよ。」とありますが、神は、神のことばによって、私たちに、慰めを与えてくださいます。ここで、神のことばは慰めのことばです。神のことばによって慰めを得たひとりの人のことをお話ししましょう。

 1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然と姿を消しました。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親は、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」についての話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、「因果応報」という話は、彼女をもっと苦しめました。

 そんな時、友人のひとりが、「聖書のヨブ記を読んでみたら。」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女は、すぐには聖書を開くことができませんでした。ところが、ある日、大きな悲しみが襲ってきた時、彼女は聖書を開き、ヨブ記を読みはじめました。彼女は、それまでに聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて自分から進んで聖書を読みました。ヨブ1:21の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばが彼女の心をとらえました。彼女は、ヨブ記を一気に最後まで読みました。そして、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる。」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

 その時の彼女には、聖書の予備知識はほとんどありませんでした。ヨブ記といえば、クリスチャンにとっても「難しい」書物と考えられています。しかし、彼女は、その「難しい」といわれる聖書から神を知ったのです。彼女は、「悲しくて、悲しくて、泣きながら読んだ。」と話しましたが、その時の感情は混乱していました。しかし、神のことばは、そうしたことを越えて、心からの求めをもって神に近づく者に語りかけました。神のことばには力があって、痛んだ心に慰めを届けることができるのです。彼女は、神のことばによって神からの慰めを受け取り、やがて導かれてクリスチャンになりました。彼女は横田早紀江さん、娘の名前は「めぐみ」です。

 めぐみさんの失踪から20年たって、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになりました。北朝鮮の犯罪が明らかになってさらに10年がたちましたが、めぐみさんの生死はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。横田早紀江さんは言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、横田早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さく、不十分で、自分のためにも足らないほどですから、他の人に分け与えることができません。しかし、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

 私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。聖フランシスコの「平和の祈り」でメッセージを閉じたいと思います。

 (祈り)

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
 憎しみのあるところに愛を、
 傷のあるところに赦しを、
 誤りのあるところに真理を、
 疑いのあるところに信仰を、
 絶望のあるところに希望を、
 闇のあるところに光を、
 悲しみのあるところに喜びを
  もたらすものとしてください。
天の主よ、
 慰められるよりは慰めることを、
 理解されるよりは理解することを、
 愛されるよりは愛することを、
  より求めることができますように。
なぜなら、
 与えることによって受け、
 赦すことによって赦され、
 自分に死ぬことによって、
  永遠のいのちに生かされるからです。

8/26/2007