小羊になった羊飼い

イザヤ53:7-9

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53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

 イースターの前の日曜日は「パーム・サンデー」と呼ばれます。イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々が手に手にパームの葉をもち、「ホサナ、ホサナ」と叫んで、イエスを迎えたからです。

 しかし、人々の「ホサナ、ホサナ」の声は金曜日には「十字架につけろ、十字架につけろ」という声に変わりました。日曜日にロバの子に背負われ、喜びの声の中を進んで行かれたイエスは、金曜日に十字架を背負わされ、嘆きの声の中を歩まれたのです。

 一、預言されたイエス

 そのようにエルサレムで苦しみを受け、十字架にかけられることを、イエスは、早くから弟子たちに何度も告げておられました。マルコ10:33に「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します」とある通りです。

 それだけでなく、救い主の苦しみと死は、イエスがそれを予告なさった、はるか以前、何百年も前から、聖書によって預言されていました。数多くの預言の中でも、イザヤ53章が最も克明にイエスの十字架を予告しています。イザヤは紀元前740年ころ、ユダのウジヤ王の時代に預言者としての働きを始め、およそ60年にわたって、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと、三代の王たちに仕えましたが、その晩年、紀元前680年ころ、マナセ王の時代に、のこぎりでひかれて殉教したと伝えられています。イザヤはイエスがお生まれになる700年も前の人ですが、イエスの十字架を見たかのように、救い主の苦難と死を描いています。イザヤ53章を読んでいると、まるで福音書を読んでいるかのように感じます。

 1節の「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか」は、人々がイエスを信じなかったことを言っています(ヨハネ12:37-38)。

 3節の「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」との言葉は、イエスがご自分の民から斥けられたことをさしています(ヨハネ1:11、ルカ23:18)。

 5節の「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」は、イエスの苦しみと死が人の罪の身代わりであったことを言っています(ローマ5:6-8)。

 7節の「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」という言葉は、イエスが裁判のとき、ご自分に不利な偽りの証言によって責められても、沈黙を守っておられたことをさしています(マルコ15:4-5)。

 9節の「彼は富む者とともに葬られた」というのは、イエスの遺体が、アリマタヤのヨセフという裕福な人の墓に収められたことによって成就しています(マタイ27:57-60)。

 12節の「そむいた人たちとともに数えられた」という言葉はイエスが犯罪人と共に十字架につけられたことを言っています(マルコ15:27-28)。

 使徒8:34-35で、エチオピアの役人は、イザヤ53章を読んでいましたが、「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか」と伝道者ピリポに質問しました。ピリポはイザヤ53章はイエスのことを語っていると答え、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えました。ピリポが伝道した時代には、まだ福音書が聖書に加えられていませんでしたので、エチオピアの役人はイザヤ53章が誰のことかが分からなかったのですが、今では、福音書を読んだことのある人なら、これがイエスのことを言っていることが誰にも分かります。イエスの十字架は偶然起こったことではなく、神のみこころによって計画され、預言されていたことで、イエスがそれを成就した出来事なのです。

 二、小羊イエス

 きょうの箇所で特に注目したいのは、7節に「ほふり場に引かれて行く小羊のように」とあるように、イエスが「小羊」と呼ばれていることです。

 ユダヤの人々が「小羊」と聞いて、すぐに心に思い浮べるのは「過越の小羊」のことでしょう。ユダヤの人々は、先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブの時代には、家畜を追って生活する遊牧民でした。ヤコブの子、ヨセフがエジプトでファラオに次ぐ地位についたため、一族はエジプトに移住し、そこで増え、強くなっていきました。

 やがて、エジプトに、ヨセフのことを知らない別の王朝ができ、そのファラオは、ユダヤの人々が力を増すのを恐れ、彼らを奴隷にして苦しめました。神はユダヤの人々の苦しみをご覧になり、モーセを遣わし、ファラオに神の言葉を告げさせましたが、ファラオはそれに従いませんでした。そのため様々な災害がエジプトに下されましたが、その最後のものが、エジプト中の初子という初子がファラオの長男からはじめて、家畜の初子にいたるまでが一夜のうちに死ぬというものでした。

 しかし、これによってユダヤの人々の長子までもが死んでしまわないように、神はこの災いからの救いをユダヤの人々のために備えてくださいました。人々は、その家の長子の代わりに小羊を屠り、その血を家の入り口に塗りました。すると、その災いはその家を過ぎ越していったのです。人々はこれによって、奴隷から解放され、神の民となり、イスラエルという国を建てました。このことを記念したのが「過越祭」で、イエスがエルサレムに入城なさったのは、ちょうどその過越祭の時でした。イエスは全人類のために、その身代わりとなり、「過越の小羊」となって、十字架で血を流してくださったのです。

 イエスがエルサレムに入城されたとき、人々は「ホサナ」と叫びましたが、この言葉のもとの意味は「救ってください」です。人々は無意識にそう叫んだのかもしれませんが、イエスは「救ってください」という人々の叫びを真剣に受けとめてくださいました。イスラエルもエジプトで奴隷であったとき、神に救いを求めて叫びました。

 どの人にも「救われたい」という願いがあります。しかし、罪から救われなければならないことが分からないため、「ほぼ幸せな生活ができているから、救いなどいらない」と考えて、真剣に救いを求めることをしないのです。しかし、救われるまでは、私たちは罪の闇に閉じ込められていました。手探りでしか進めず、あちらの問題にぶつかり、こちらの苦しみに沈んでいました。けれども、イエスを信じたとき、光の中をまっすぐに歩むことができるようになりました。罪の中にいて平安であることはできません。絶えず恐れがつきまといます。しかし、イエスの十字架によって罪の赦しを得るとき、たましいに言いようのない平安がやってきます。罪によって傷ついた心と生活、家庭や人間関係が癒やされていきます。小羊イエスが私たちを罪の奴隷から解放してくださる。この救いを、信じて、確信して、そして、人々に示していきたいと思います。

 三、羊飼いイエス

 イエスが「神の小羊」となられたことは、聖書の多くのところに書かれていますが、ペテロ第一2:22-25には、イザヤ書を引用して、こう言っています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

 この言葉は、イエスが神の小羊であり、同時に、私たちの「牧者」、「羊飼い」であると言っています。羊飼いは羊を飼う者、羊は羊飼いに飼われる者ですから、イエスが羊飼いであり、私たちがその羊であるというのは分かるのですが、イエスが羊飼いであり、同時に小羊であるというのは、イエスの十字架なしには理解できないことです。

 イエスは言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)イエスはそのお言葉どおり、神のもとから迷い出てしまった私たちのために、その罪を背負って、身代わりのいけにえとなり、「いのちを捨てて」くださいました。イエスはまず神の小羊となって私たちを罪から救い出し、それから、救われた者の羊飼いとなってくださったのです。

 もし、私たちがもとから従順な羊であれば、イエスは羊飼いだけであって良かったのです。私たちのほうから羊飼いであるイエスのもとに立ち返って、その牧場で楽しめばいいのです。しかし、私たちは羊飼いであるイエスから遠く離れていました。聖書では神を信じる者は「羊」、そうでない者は「山羊」、神に敵対する者は「獣」にたとえられていますが、神から離れた私たちは、羊か山羊か、または獣かの区別がつかないほどのものになっていたのです。イエスは、そんな私たちを「羊」として扱い、迷った羊を捜し出し、羊のためにご自分のいのちを差し出してくださったのです。

 イエスは言われました。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」(ヨハネ10:16)ここで「ほかの羊」と言われているのは、本来は、やがて神の牧場に加えられる異邦人のことを指しています。しかし、現代の私たちの立場から見れば、まだイエスとその救いを知らず、信仰に至っていない人々のことと考えていいと思います。イエスは、救われて神の牧場にいる人々を愛し、養い、導いてくださっていますが、同時に、この神の牧場にまだ戻って来ていない羊たちのことを絶えず心にかけてくださっています。

 今、世界は混乱しており、人々は自分たちを導いてくれるものを見失っています。マタイ9:26にイエスは「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とありますが、イエスの時代の人々が「羊飼いのない羊」のようであるなら、今の時代ではもっとそうだと思います。私たちには確かな羊飼いの導きが必要です。たとえ世界が揺れ動いても決して動かない安全な安らぎの場が求められています。私たちはイエスの十字架の福音を聞き、イエスは私のために死なれたのだと分かり信じたとき、心に光がさしこみ、平安と希望を与えられました。この救いの確信を得ることによって、現実がどんなに理不尽で、苦しいものであっても、平安や希望が奪い去られることのない、不思議な心の満たしを体験しています。それが、イエスの牧場の中にいる幸いです。私たちはこの幸いに感謝するだけでなく、この牧場の外にいる人々がイエスの声に聞き、ひとりの羊飼いのもとに、ひとつの群れとなることを、心から願い、祈っていきたいと思います。

 イエスは「羊飼い」であり、「小羊」です。私たちを愛し、私たちを罪から救うために小羊となって、打たれ、苦しめられ、いのちさえもささげてくださった「羊飼い」です。こんな不思議な羊飼いは、イエスの他、誰もいません。イザヤ53章を成就されたのは、イエスだけです。私たちは「小羊」イエスによって救われ、「羊飼い」イエスによって養われ、導かれます。この幸いを、神に感謝し、また、人々に分かち合いたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちを救うあなたの愛は、何千年も前から聖書によって示され、イエスの十字架によって成就しました。イエスの十字架を覚えるこの特別な週に、小羊であり、羊飼いであるイエスを深く想い、信じ、愛し、慕う私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/10/2022