キリストの預言

イザヤ53:4-5

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53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 一、喜びの預言

 ソロモンの死後、イスラエルの国は北王国と南王国に分かれ、北王国は紀元前722年、アッシリアに滅ぼされました。その時、南王国ユダも滅亡の危機にあったのですが、そこから救われ、北王国よりも160年ほど長く保たれ、紀元前586年、バビロンに滅ぼされるまで続きました。北王国にはイスラエルの10部族がありましたが、南王国には2部族しかありませんでした。北王国に比べてはるかに小さい南王国が、北王国よりも長く保たれ、守られたのはなぜでしょうか。それは、軍事力や政治力、経済力によってではありませんでした。まことの神への信仰によってでした。ユダの人々が救われたのは預言者を通して語られた預言の言葉に聞き従ったからでした。

 神は、北王国にも預言者を遣わし、神の言葉を与えておられました。しかし、王をはじめとし、北王国の人々は預言者の言葉を聞き入れず主の警告を無視したため早く滅びました。

 しかし、南王国では王をはじめ、人々は神の言葉に聞き従いました。北王国が滅ぼされた時の南王国の王はヒゼキヤでした。彼の父アハズ王はエルサレムの神殿の扉を閉じ、いたるところに、周囲の国々の神々の祭壇を作りそれを拝みました。けれども、ヒゼキヤは王になったとき、まず神殿をきよめ、偶像の神々の祭壇を取り除き、神の言葉に従った礼拝を取り戻しました。南王国ユダの人々だけでなく、アッシリアに滅ぼされたばかりの北王国の人々にも呼びかけ、ソロモンの時代から長く途絶えていた過越の祭りをエルサレムで行いました。この時の様子を、聖書はこう伝えています。

こうして、ユダの全集団と祭司とレビ人、およびイスラエルから来た全集団、イスラエルの地から来た在留異国人、ユダに在住している者たちは、喜んだ。エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。
(歴代誌第二30:25-27)

 歴代誌には「喜び」という言葉が使われています。想像してみてください。200年も分断されていた民族が、ひとつになって主を礼拝しているのです。それほどの大きな喜びがあるでしょうか。人々が神の言葉に立ち返ったとき、そこに真実な悔い改めが生まれました。本当の赦しと和解が起こりました。そして、それが神の民をひとつに結びつけ、大きな喜びとなったのです。神の言葉がこの喜びをもたらしたと言ってよいでしょう。私たちがほんとうに御言葉に聞き従うなら、主はヒゼキヤの時代、ユダの国で起こったことを、今日も起こしてくださるでしょう。主は、民族の違いをもこえて、人々を一つにしてくださいます。私たちはそのことを信じて、神の言葉に聞き、御言葉に従っています。神の言葉だけが、そうした大きな喜びをもたらすことができるからです。

 二、救いの預言

 さて、サマリヤが陥落したころ、アッシリアではシャルマヌエセルに代わり、セナケリブが王となりました。彼は勢いに乗じて、ラブ・シャケという将軍に大軍を与え、エルサレムを取り囲ませました。将軍ラブ・シャケは南王国ユダに降伏を勧めてこう言いました。「ヒゼキヤは、『主がわれわれを救い出してくださる』と言っているが、その言葉に、そそのかされるな。どの国の神がアッシリヤから救い出したのか。ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。イスラエルの神はサマリヤをわが軍から救い出したか。これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国をアッシリアから救い出したか。主がエルサレムをわれわれから救い出すとでもいうのか。」(イザヤ36:18-20)

 これを聞いたヒゼキヤは預言者イザヤに使いを送り、神の言葉を求めました。イザヤを通して与えられた神の言葉はこうでした。「あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒瀆したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国にひきあげる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。」(イザヤ37:6-7)この預言の通り、セナケリブは、彼の遠征中、クシュの王がアッシリアを攻めようとしているという噂を聞きました。それで、手早くエルサレムを陥とすため、なおもヒゼキヤに降伏を迫りました。その時、イザヤに神の言葉が臨みました。「アッシリヤの王は…もと来た道から引き返し、この町には入らない。…わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(イザヤ37:33-35)主は、この言葉をイザヤに与えると同時に、主の使いを、エルサレムを取り囲んでいたアッシリアの陣営に遣わし、アッシリヤの兵士十八万五千人を一夜のうちに倒してしまわれました。彼らは「主がエルサレムをわれわれから救い出すとでもいうのか」と言って主を侮りましたが、主は「わたしはこの町を守って、これを救う」と言われた通り、エルサレムを救われたのです。ラブ・シャケ将軍とセナケリブ王は戦いに負けてニネベに引き返しました。主に勝つことのできる者など誰もいないのです。セナケリブはニネベに帰ってから、そこで自分の子によって殺されてしまいました。「彼は…自分の国にひきあげる。わたしは、その国で彼を剣で倒す」という主の言葉はそのとおりに実現したのです。主の口から出た言葉は必ず実現します。それは神を冒瀆する者には裁きとなって実現しますが、神に頼るものには救いをもたらします。皆さんは神の言葉から裁きを受け取りたいですか。それとも救いですか。もちろん、救いでしょう。私たちは神の言葉に聞き従い、その救いを受け取る者でありたいと思います。

 三、キリストの預言

 今お話ししました南王国ユダのアッシリヤからの救いはイザヤ36〜39章に書かれています。その39章には、ユダがやがてバビロンに滅ぼされるとの預言がありますが、イザヤ書はそれだけで終わらず、神の民の回復を預言しています。とくにイザヤ40章からは、それのことが詳しく記されています。主がアッシリヤの大軍を一夜にして滅ぼし、ユダを滅亡から救われたということだけでも、大きな出来事ですが、ユダがバビロンに滅ぼされることがあっても、再び回復するという、もっと大きな出来事が、イザヤ書には預言されているのです。そればかりではなく、イザヤ書には、新約の時代に成就するキリストについての預言があります。イザヤ書は全部で66章ありますが、これは聖書が66巻あることと呼応しています。旧約が39巻あるように、イザヤ1〜39章はイザヤ書の旧約の部です。新約が27巻あるように、イザヤ40〜66の27章はイザヤ書の新約の部です。イザヤ書は神の救いの計画全体に及ぶ、壮大な預言の書物なのです。

 聖書で一番大切な預言は、キリストについての預言で、明確なキリストの預言は旧約の40箇所以上に見ることができますが、そのうちの多くは、イザヤ書にあります。たとえば、

などが預言されています。

 とくに、イザヤ53章には、まるでイザヤが800年後の十字架のイエスを実際に見たかのようにキリストの苦難が克明に預言されています。

 イエスの十字架の物語は、讃美歌にあるように、読むたび、聞くたびに感動を与えるものですが、その感動は、イエスがたとえ死ぬことがあってもご自分の信念を曲げなかったことや、ご自分を苦しめる者たちに対しても赦しの心をもって接したということだけで終わるものではありません。十字架が与える感動は、罪のない神の御子が、私たちの罪を背負って、私たちに代わって罪の刑罰を受け、私たちを罪から救ってくださったことにあるのです。新約聖書は「キリストは私たちの罪のために死なれた」(ローマ4:25、コリント第一15:3、ガラテヤ1:4、ペテロ第一3:18、ヨハネ第一4:10)と教えていますが、私たちの救いにとって最も大切なことが、イザヤ53章にはすでに預言されていたのです。

 新約聖書、ペテロの手紙第一2:22-25にイエス・キリストの十字架よる救いが、次のように描かれています。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
イザヤ53章はこの言葉とぴったり一致しています。聖書は、キリストが来られる何百年も前から、キリストによって世界中の誰もが、罪から救われることを預言しており、それは正確に成就しています。私たちは、こうした預言の成就ということからも、聖書が神の言葉であることを確信することができます。

 神の言葉は私たちに喜びを与えてくれます。それは、私たちをさまざまな禍いから守り、救い出してくれます。そして、神の言葉は、救い主がどのようなお方であり、どのように私たちを救ってくださるかを教えてくれます。旧約時代の人々は、救い主について「預言」の形でしか知らされませんでしたが、新約時代の私たちは預言の成就を「福音」の言葉の中に見ています。ペテロ第一1:10-11にこうあります。「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」イザヤは救い主のことを預言しながら、それが実際にはどのように成就するのかが分からず、そのことを探り知ろうとしました。そういう意味では、福音の時代に生きている私たちは、救い主について預言者イザヤよりも多くのことを知らされているのです。預言者たちが待ち望んだものを、私たちははっきりと見ることを許されているのです。それは、ほんとうに幸いなことです。そのことを感謝し、さらに主を知ることを願い求め、御言葉を求めていきましょう。

 (祈り)

 私たちに御言葉をくださる主なる神さま。あなたは、イスラエルやユダが滅亡に向かう暗い時代にも、預言の言葉によってあなたの民を導き、守り、救い主を示してくださいました。そして、今の時代には、福音によって救いと希望を与えてくださっています。このさいわいな時代に、私たちがさらに御言葉を確信し、それに信頼し、それを愛し、それに従うことができるよう助け、導いてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/20/2019