人の慰めと神の慰め

イザヤ49:5-13

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49:5 今、主は仰せられる。──主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。──
49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
49:7 イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」
49:8 主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
49:9 わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
49:10 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。
49:11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。
49:12 見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」
49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

 一、人の慰め

 「慰め」という言葉を聞いて、皆さんはどう感じますか。「慰めという言葉を聞くだけで、とても慰められる」という人もあれば、「慰めなんて、甘っちょろいものはいらない。人生は厳しい。この世の中では力のある者だけが生き残れるのだ」という人もいます。「慰め」とは、苦しんでいる人を労り、傷ついている人をいやし、疲れ果てている人を支えることだと思うのですが、苦しみの極限にいる人、心がズタズタになっている人、また生きる力を失ってしまっている人には、人間の慰めが届かないことがあります。人の言葉が、かえってその人の心の痛みを増してしまうこともありますし、それが余計なお世話やおせっかいになることさえあります。

 少し古い話になりますが、日航機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落した事故を覚えているでしょうか。1985年8月12日午後6時12分、羽田を飛び立った JAL 123便が、離陸から12分後の午後6時24分に操縦不能となりました。垂直尾翼が壊れてしまったのです。飛行機はこのあと迷走を始め、操縦不能となってから32分後に墜落しました。一番後ろに座っていた4名の乗客だけが奇跡的に一命をとりとめましたが、残りの乗員・乗客、合わせて520名の命が奪われました。これは、日本国内で最大の死者を出した航空事故となりました。

 この事故でご主人を亡くしたある人は、以前から教会に通っていました。教会のクリスチャンが、彼女を慰めようとして、いろいろと声をかけました。しかし、そのときの彼女にはそれがかえって煩わしく、こんなに悲しいのに、「悲しんではいけない」と説教されているように感じたそうです。近所の果物屋のおじさんがカゴに入れた果物を持ってきて、「奥さん、大変だったね。これを食べてください」と置いってくれたことのほうが、よほど、うれしかったとも言っています。慰め、励まそうとする気持ちは純粋であっても、あまりにも大きな突然の出来事に呆然としている人に対して、私たちは時として不適切なことをしてしまうことがあります。また、絶望しきっている人に対しては、どんな人間の言葉も、親切も、助けも届かないことがあります。

 2011年3月11日の東日本大震災ののち、多くのボランティアが東北にかけつけました。ひとりのクリスチャンの女性が、なんとかして被災地の人たちを慰めたい、励ましたいと、足湯のボランティアとなりました。彼女は、被災地に行く前に、そこの人たちに語りかける言葉を準備していました。しかし、実際に被災地に行って、その言葉を使うことができませんでした。被災地の人々はただ黙って足を洗ってもらうだけで、語りかけることも、話を聞くこともできなかったのです。被災した人のため息を聞き、その目からこぼれる涙を見るだけが精一杯で、彼女もまた黙々と足を洗い続けたと話していました。彼女はこのことを通して、被災者の人たちのあまりにも深い悲しみを、自分は何も分かってはいなかったということに気付いたと言い、そのとき、黙って弟子たちの足を洗ってくださったイエスのお心が少しは分かったように思いますと、証ししていました。

 苦しむ人と共に苦しむ、傷ついた人の訴えに耳を傾ける、疲れ果てた人の気持ちを受け入れる。こうしたことは、他の人を慰めるための大切な第一歩であることは確かです。しかし、人は、それ以上のことはできません。苦しんでいる人をその苦しみから救い出し、傷ついている人をいやし、打ちひしがれている人に生きる力を与えるのは、神です。それは神だけができることなのです。

 二、神の慰め

 それで聖書はこう言います。

イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ44:6)
神はご自分を「贖う者」と言われます。「贖う」とはもともとは奴隷を、お金を払って買い戻すことを指します。イザヤ書の預言は、バビロン補囚にあった人々に、バビロンからの解放を告げています。バビロン補囚というのは、紀元前597年にバビロンの王ネブカドネザルがユダの国を攻め、首都エルサレムにいた優秀な若者たち三千人を捕まえてバビロンに連れていったことを指します。その後、ネブカドネザルはさらに一万人をバビロンに連れて行き、ユダは国ごとバビロンに捕らわれの身、奴隷となったのです。ネブカドネザルは紀元前586年、エルサレムを神殿もろとも滅ぼし、それを廃墟としました。

 イザヤ49:24に「奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか」とあるように、いったん滅びた国がもういちど復興するということはほとんどありえないことです。しかし、神にはそれがお出来になります。神は、「勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う」(イザヤ49:25)と言われ、いったんバビロンの奴隷となった人々を祖国に連れ帰ってくださいました。この預言は紀元前539年、ペルシャのクロス王によって実現しています。

 神が「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。──主の御告げ。──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」(イザヤ41:14)と語りかけられた言葉は、今から二千数百年前のユダヤの人々のためだけの言葉ではありません。神は、今日も、様々なものに縛られ、その奴隷となっている人たちを贖い、そこから解放してくださるのです。

 アメリカでは三人にひとりが、アルコール依存症かその予備軍だと言われています。アルコール依存症というのは、心に、おそらくその人も気付いていない深い不安があり、それを紛らわせるためアルコールに手を出し、アルコール無しではいられない生活を続けることを言います。アルコールのために身体を壊したり、ドランク・ドライバーになって事故を起こしたり、家庭や人間関係にトラブルを引き起こしたりすると、一時的にはすごく後悔し、罪の意識を持ち、苦しむのですが、その苦しみを紛らわせるため、またアルコールを飲み出すのです。そして、身も心も、生活もアルコールに囚われていくのです。アルコール依存症の人の平均寿命は52〜53歳と言われており、それはまさに「死に至る病」です。アルコール依存症の人は、社会で他の人と共に、他の人のために生きるということができなくなっており、身体の死を迎える前に、すでに社会的な死を迎えてしまっているのかもしれません。

 依存症はアルコールだけとは限りません。ニコチン、ギャンブル、買い物依存症は昔からありましたし、最近はゲーム、携帯、ネット依存症といったものが問題になっています。また、「コディペンデンシィ」(共依存)という人間関係の依存症もあります。人と人とが支え合うことは必要なこと、美しいことですが、コディペンデンシィの人は、「自分」というものが確立していないため、自分のよりどころを他の人に置いてしまいます。たとえば、ご主人の出世のため献身的に働いている奥さんや、子どもが有名大学に入学できるようにと頑張っている母親がいたとします。自分のことを後回しにして、夫に、子どもに仕えていると自分も満足でしょうし、人からも誉められるかもしれません。しかし、自分のよりどころをご主人の出世に、子どもの進学に賭けるというのは、いかにも危ないことであり、ご主人が出世できなかったり、子どもが願う学校に入れなかったとしたら、彼女はたちまち不幸になり、その不幸を夫や子どものせいにして、夫や子どもを責めはじめるでしょう。彼女は、ご主人に仕え、子どものために生きているように見えて、実は、ご主人や子どもを自分の幸福感を達成するための手段にしていたのです。コディペンデンシィからドメスティック・バイオレンスが生まれ、自立できない子どもが生まれ、聖書が教える「愛」から程遠い歪んだ人間関係が生まれてくるのです。現代、こういう生き方をしている人が増えてきていますが、その人たちには、それが問題であることが気付いておらず、他の人もそれに気付かないことが多いのです。しかし、それは知らず知らずのうちに、自分をも、まわりの人をも駄目にしていくのです。

 聖書は、こうした特定の依存症ばかりではなく、すべて、罪を犯す人は罪の奴隷であると教えています。そして、罪の奴隷である限り、そこには自由がなく、解放がありません。しかし、神は、私たちを罪の奴隷から解放してくださるお方、私たちを「贖う」お方です。「贖う」というのは代価を払って奴隷を買い戻すことですが、神は私たちのためにどんな代価を払ってくださったのでしょうか。それは神の御子、イエス・キリストです。エペソ1:7に「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」とある通りです。「御子の血による贖い」というのはイエス・キリストが十字架の上で死なれたことを指しています。イエス・キリストは私たちを罪の奴隷から解放するため、その贖いの代価としてご自分の命を差し出されたのです。イエス・キリストは、その贖いによって、信じる者に神の子の身分を与え、神のもとに立ち返らせてくださるのです。

 イザヤ49:9-10に「わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる」とありますが、この言葉はイエス・キリストによって実現しています。ペテロ第一1:18-19と2:24-25にはそのことが、このように書かれています。

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。…(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
皆さんは、この贖いを、解放を、そして平安を体験していることでしょう。もし、まだそれを体験していないなら、イエス・キリストをあなたの心と人生に受け入れ、今日、この時から、それを体験し始めることができますよう、心から祈ります。

 三、慰めの使者

 神こそがまことの慰め主です。なぜなら、神だけが人を罪から贖い、苦しみから救い出し、その傷をいやし、人を再び生かすことができるからです。神は、イザヤ51:12で「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める」と言っておられます。

 では、私たち人間は、決して他の人を慰めることができないのでしょうか。聖書には「互いに慰め合いなさい」(テサロニケ第一4:18)とあります。私たちも、神に贖われ、神からの慰めを受けるなら、それによって他の人を慰めることができ、神の慰めの使者となることができるのです。苦しむ人に慰めに満ちた贖い主イエス・キリストを指し示すことができるのです。イザヤ49:6には「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」とあります。旧約時代にイスラエルが選ばれたのは、イスラエルだけが救われるためではありませんでした。イスラエルがその救いを全世界に証しするためでした。ところが、イスラエルは、神の選びを間違って理解し、自分たちだけが救いに選ばれていると考えてしまいました。それで、神は、新約時代には、イスラエルに与えておられた使命を教会にお与えになりました。イエスが弟子たちに「地の果てにまでわたしの証人となります」(使徒1:8)と言われた通りです。使徒13:47でパウロとバルナバは、「なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」と言って、教会がこの使命を帯びていることを宣言するために、イザヤ49:6を引用しています。

 私たちも、まず、神の慰めを受けることによって、他の人を慰めることができるようになります。キリストを証しすることによって、神の慰めの使者となることができます。人の慰めが届かないところにも、神の力ある慰めを届けることができるのです。私たちが救われたのは、人々に贖い主を証しするためであり、私たちが慰めを受けたのは、他に慰めを分け与えるためであることを覚えましょう。そして、その使命を良く果たすことができるよう願い求め、この礼拝から派遣されていきましょう。

 (祈り)

 私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは「すべての慰めの神」と呼ばれるお方です。あなたは、かつてイスラエルに「わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る」「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める」と約束され、その約束をイエス・キリストによって実現してくださいました。今朝、おひとりびとりが、イエス・キリストの贖いによる罪からの解放を自分のものとすることができ、そこから来る豊かな慰めに生きることができますように。そして、ひとりびとりが家庭で、職場で、地域で、神の慰めの使者となることができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/30/2013