ほんとうの新しさ

〜2001年北加新年聖会メッセージ〜

イザヤ43:14-21

あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。
わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」
海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 北加の新年聖会では、新しい牧師から順にメッセージのご用をするという決まりがあるそうで、私は昨年の九月にサンタクララ教会に赴任したばかり、北加では一番新しい牧師ということで、私にその役が回ってきました。実は、この新年聖会でのご用は、今回が始めてではないのです。私は1991年に最初の任地サンディエゴに来ましたが、その翌年1992年にサンロレンゾ教会で行われた新年聖会に招いていただき、コロサイ1:28からお話しさせていただいのを覚えております。あの時は南加からのゲストとして迎えていただきましたが、今回は、北加四教会の一員として奉仕できることを、心から感謝しております。

 さて、今日は新年聖会ということですので「ほんとうの新しさ」と題してお話をさせていただこうと思います。皆さんは「新年」とか「新世紀」と言われて、それを実感できますか。こどもの頃は「お正月」の朝は本当にきらきら輝いて見えたものですが、アメリカにいるせいなのでしょうか、正直いってこのごろは、感動してその日を迎えるということがなくなりました。天邪鬼な私は「12月31日と1月1日とでは、ただカレンダーが変わっただけ、地球が一回転しただけではないか」などと考えてしまうのです。日本には昔から「正月は、冥土の旅の、一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」などという歌があります。聖書にも、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。…昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」とあります。

 それでは、はたして、この世には、本当に「新しい」と言えるものが存在するのでしょうか。もし、あるとすればそれはどんなものなのでしょうか。今日はそうしたことから考えてみたいと思います。

 一、目新しさと新しさ

 元来人間はとても好奇心の強いもので、いつも何か新しいものを探し求めてきました。それで、今日のように科学技術が発達したのでしょう。使徒17章に、使徒パウロがアテネに行った時のことが書かれていますが、このアテネの人々について、ルカはこう書いています。「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」これは、当時学問の町といわれていたアテネをみごとに描いている表現です。アテネの人々がしていたことは学問のための学問、議論のための議論であって、そこからは何の力も、命も得ることのできないものでした。彼らはただ耳新しいこと、目新しいこと、珍しいことだけを追い求めて、日々を過ごしていたのです。

 こうした傾向は、たんにアテネの人だけのものでなく、あらゆる国々の人にあるのですが、中でもアメリカ人や日本人には強いかもしれません。ヨーロッパの多くの国々では昔からのものを大切にし、落ち着いた生活をしていると聞いています。家具にしてもおじいさんの代からのものを大切に使い、親から子へ、子から親へと譲り伝えるのだそうです。長くイギリスで生活していた日本人が「イギリスでは、人々は毎年毎年同じことを繰り返し、何も新しいことがなかった」と話していましたが、アメリカに比べればそうなのかもしれません。アメリカでは、次々と新しいモデルの車が売り出されます。そんなに毎年モデルチェンジしなくてもいいのにと思うのに、モデルチェンジしなければ売れないのだそうです。車の好きな人は、新しいモデルが出ると、まだ一年しか乗っていない車でもさっさと売って、新しいモデルの車に乗りたがるのだそうです。日本では、国土が狭いせいか、何か新しいものがはやると、猫も杓子も、みんながそこにたなびきます。スター歌手のファッションが瞬く間に若者の間に広まり、だれもが、顔を黒くしたり、白くしたりするのです。私は日本に行ってそうした若者を間のあたりに見て目を白くしたり黒くしたりしました。

 目新しさを求めるのは、何も世の中だけではありません。クリスチャンの間でも、とにかく新しいものであれば何でもいいものだというように、内容をよく吟味しないで、流行のものを取り入れる傾向があります。確かにポピュラーになっているものには、それなりの理由があるのでしょうが、それが必ずしもそのまま自分たちの教会に当てはまるとはかぎらないものもあります。どんなものであれ、吟味し、消化し、用いることをしないと、本来は教会を助けるためにできたレコード会社や出版社、セミナー産業に、教会が振り回されかねないこともあるのです。

 人々が目新しさを求めているからといって、教会もただ単に目新しいだけのもので人々の心を捉えようとするなら失敗するでしょう。人々は目新しいだけのものには、本当には自分たちに力をあたえ、心をいやし、渇きを満たすものがないことに気付きはじめています。教会は今こそ、永遠のもの、変わらないもの、確かなもの、より深いものをもって人々の必要にこたえていかなければならないのです。そしてそこに根付いた本当の新しさを人々に知らせていくことが大切だと思います。

 二、神のみわざと新しさ

 では、本当の新しさはどこにあるのでしょうか。それは、伝道者の書が言っているように、「日の下」に、「地」に、つまり人間のわざにはないのです。それは創造者である神のみわざにあります。神は無から有を呼び出されるお方です。かって無かったことを新たに造り出すことの出来るお方です。神だけが創造者です。人間が何かを新しく作り出したとしても、それは神のおつくりくださったものを組み立てているにすぎません。それは創造の模倣にすぎません。神のみわざが神のみわざだけが本当の意味で新しいものなのです。

 主イエスはニコデモに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われましたね。神の国を見る、つまり、救われるということは、ニコデモが所属していたパリサイ人の考えのように、律法を守ったり、犠牲をささげたりという、人間のわざでは不可能だと主は言われたのです。「新しく生まれる」、これは「生まれ直す」という意味でもあり、私たちが「新生」とか「再生」とか言っているものですが、このことによって全く新しくされなければ、古いままでは人は救われないということです。いくら長年教会に来ていても、この霊的な生まれ変りを経験しなければ、本当の意味でのクリスチャンではありません。

 ニコデモは主イエスの言葉に驚いて「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と答えています。彼はまだ、本当の新しさというものを知らなかったのです。主イエスが再びニコデモに答えて言われたのは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」とのおことばでした。「水と御霊」―これはいくつかのことを意味していますが、今日は、皆さんにこれは神の創造のみわざをさしているということを申し上げたいのです。創世記では、この世界が生み出される時の状況が「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」と描かれていますね。「水と御霊」によって生まれるとは、神の創造のわざによってだけ、人は新しく生まれ変ることができるということを言っているのです。新しく生まれることは決して人の力によってはできません。日本語では「生まれる、生まれた」という表現は「能動態」ですが、英語では "I was born..." と言うように「受動態」、受け身の形です。私たちは神によって生んでいただく、新しくしていただくのです。

 神は最初の六日間ですべてを造り、創造のわざを終えられました。しかし、神の創造のわざはそこで全く終わってしまったのではありません。聖書を見ると、神は、何度も何度も神の民イスラエルを新しくし、よみがえらせてくださっています。エゼキエル37章には枯れて干からびた骨に神の息が吹き込まれるとそれが生き返るというまぼろしが記されています。これは、主イエスがニコデモに話された聖霊による生まれかわりと関係があります。かってイスラエルを生き返らせた神は、新約時代の神の民であるわたしたちクリスチャンに、教会に、聖霊による再創造のわざを行ってくださるのです。ですから、クリスチャンひとりびとりは、神によって新しく造られたものなのです。エペソ2:10に「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と明言されています。使徒パウロは、コリント第二5:17でこうも言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」人間には新しいものが作れなくても、新しい事ができなくても、神にはできるのです。パウロは「見よ!」と言っていますね。伝道者の書に「日の下に新しいものは一つもない」と言われていましたが、伝道者の書は、人間の観点から、この地上のことを言っていたのです。使徒パウロは、旧約の伝道者が投げかけた「本当に新しいといえるものは何か」という質問に対して「見よ、すべてが新しくなりました」とここで答えているのです。

 使徒パウロが「見よ」と言った時、それは彼自身をさしていたのかもしれません。「ご覧なさい、私が、神の新しいみわざの実例なんですよ」と、彼は言いたかったのでしょう。彼はキリストを憎む者からキリストのために命をかける者になり、教会を迫害する者から教会を建て上げる者、そして、福音を否定する者から福音を宣べ伝える者になったのですから。パウロは実例をもって、神の創造のみわざ、私たちを新しくしてくださるお力を私たちに教えているのです。

 使徒パウロは、同じコリント第二で、この神のみわざは、かって彼のうちに起こっただけでなく、今も、彼の中に働いていると言っています。4:16です。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」"being renewed day by day"―現在進行形ですね。本当に新しいものはあるのです。それは神が聖霊によってなさることであり、キリストのうちにあるのです。それはキリストに従う者が日々に体験できるものなのです。

 三、信仰と新しさ

 今日の聖書の箇所、イザヤ書43:19に「見よ。わたしは新しい事をする」とあるのは、イザヤの時代に起こる出来事と、メシアの時代、つまり、今、主の年に起こる出来事の二つのことが重ね合わされて預言されています。イザヤは、その時代の人々には、イスラエルがバビロンから解放されることを預言しました。イスラエルの国はソロモン王の後南北に分かれ、イザヤの時代北王国はアッシリアに滅ぼされ、アッシリアの難を逃れた南王国もやがてバビロンに滅ぼされるのです。古代の帝国の中で最も強力であったバビロンに滅ぼされて再びよみがえった国はどこにもありませんでした。それでイスラエルの人々は全く希望を失い、神への信頼を失ってしまいました。しかし、神は言われました。「先の事を思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」神は、無から有を生じさせた神です。どこから、どんなふうに考えても、イスラエルがバピロンから救い出されることなどありえない、そんな状況の中でも、神は「新しい事」をなさることがお出来になるのです。イスラエルはどうやってバビロンから約束の地に帰ることができるのでしょうか。バビロンと約束の地には千何百マイルの距離があり、その間を荒野と砂漠が隔ててます。しかし、出エジプトの時に海の中に道を造ってくださった神は、ご自分があがなった神の民のために荒野に道を造ってくださったのです。イスラエルはバビロンが滅びた後、神の約束のとおりに、自分たちの国に帰り国を復興させたのです。

 イザヤの預言は彼の時代のことばかりでなく、メシアの時代、現代にも神の新しいみわざがなされるということを約束しています。すべての預言は、最終的にはキリストによって成就するからです。主は永遠の神、「地の果てまで創造者された方」です。永遠の神と神の約束は、今も変わることはありません。神はイスラエルの神だけでなく、新約時代の神の民である私たちの神でもあるのです。教会は、クリスチャンは、神の民イスラエルへの約束を引き継いでいるのです。神は、今日も私たちのために「新しい事」を備えくださっています。

 神の新しいみわざを体験するために必要なのは、「見よ。わたしは新しい事をする」と約束してくださっている神への信頼です。「先の事を思い出すな。昔の事どもを考えるな。」というのは、過去や歴史はどうでも良いという意味ではありません。過去があって現在があり、将来があるからです。イザヤ書には、神の創造のみわざ、出エジプトの時に示された救いのみわざのことがくりかえし述べられています。「先の事を思い出すな。昔の事どもを考えるな」というのは、自分の過去の体験で神のみわざを制限してはならないということです。

 新しい任地にきた牧師はたいてい初めのうちは、前任の教会ではああだった、こうだったと考え、それを口にしてしまうものです。私もサンタクララに来て日が浅いので、何かというと「サンディエゴでは…」ということばがつい口から出てしまいました。その中には、幸いな経験もあれば、否定的な経験もありました。私は、自分自身のための年頭のみことばを思いめぐらしていた時に、自分が過去の否定的な経験にまだまだ囚われていることに気付きました。主は「先の事を思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする」とのみことばで、私をさとし、励ましてくださいました。

 私たちは、過去に苦い経験をしていますと「せっかく頑張っても他の人に潰されてしまう」「人に期待しても裏切られるだけだ」というような思いにとらわれてしまうことがあります。しかし、神は真剣に神を求め、神に従おうとする者たちに約束してくださいます。「わたしは新しい事をする」と。いつまでも過去にとらわれていてはならないのです。それだけを見て失望していてはならないのです。

 イザヤの時代、バビロンにいたイスラエルの人々が自分たちの目の前にはだかる荒野と砂漠を見たように、現代も多くの教会は、自分たちが乾ききった荒野のような世に、絶望的な状況に包囲され、バビロンに幽閉されているように感じています。かっては教会が社会をリードしたアメリカも、今は、教会がこの世に左右されるようになっています。教会が自分たちの持っている救いのメッセージ、福音に自信を失い、それを耳障りの良いものに変えようとし、神のことばの表面に触れるだけで終ってしまうということも起こっています。こんな状況の中で、私たちは神の新しいみわざを見ることができるのでしょうか。本当の意味でのリバイバルやリニューアルが、個々の教会に、このベイエリアに、全米に、全世界に起こるのでしょうか。目の前に広がる荒野と砂漠だけを見ていると、失望やあきらめの中に沈んでしまいます。しかし、主は、そのような私たちに言われます。「見よ。わたしは新しいことをする。」

 本当に新しいことは人間のわざではできません。私たちは、小手先のことや、物珍しいこと、目新しいだけのことを追い求めるのをやめて、「わたしは新しい事をする」と約束される神を見上げましょう。神による新しさ、キリストにある新しさ、聖霊による新しさを、この年、求めていこうではありませんか。

 (祈り)

 地の果てまでの創造者、永遠の神よ、あなたが私たちを、キリストにあって創造のみわざをもって形造ってくださったことを感謝します。私たちがすでに、あなたの新しいみわざにあずかっていること、あなたのくださる新しさを持っていること、それが日々に新たにされていることを教えていただき、ありがとうございます。新しい年、あなたがあなたを待ち望む者たちに新しいみわざをなされることを信じます。主を待ち望む者に与えられる新しい力を体験させてください。あなたの御霊によって、北加ホーリネス諸教会に本物のリバイバルと本当のリニューアルを見させてください。「今、もうそれが起ころうとしている」―私たちをこの約束に立つ者としてください。主が、この2001年、年の初めに祝福を置いてくださったことを心から感謝し、主イエスの御名によって祈ります。

1/7/2001