贖いの神(二)

イザヤ41:8-14

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41:8 しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、
41:9 わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。
41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

 一、贖いの神、キリスト

 「贖い」、それは、人が罪の束縛から解放されて自由になることを意味します。神はエジプトで奴隷だったイスラエルの人々を救い出してくださいましたが、それは、「贖い」と呼ばれています。この出エジプトの出来事は、イエス・キリストによって、すべての人が罪の束縛から解放されることをあらかじめ指し示すものでした。

 「贖い」はまた、人の罪が赦され、きよめられることを意味しています。神は、エジプトから救い出したイスラエルの人々に神殿を作り、そこで動物の犠牲を捧げて神を礼拝するようにと命じられました。人は、その罪が赦され、きよめられなければ聖なる神に近づくことができないからです。旧約時代の犠牲は、贖いの供え物と呼ばれています。この犠牲もまた、罪の身代わりとなって血を流されたイエス・キリストを指し示しています。旧約の犠牲はイエス・キリストによって成就したのです。

 「贖い」はさらに、かつて神から離れていた者が再び神のもとに立ち帰り、神のものとされることを意味しています。「贖い」は英語で “redemption” の他、 “atonement” とも言います。“atonement” は、読んで字の如しで、 “at” + “one” + “ment” と書きます。「ひとつにされる」という意味です。何と何とがひとつになるのでしょう。神と人とです。聖なる神と、罪ある人間がひとつになる。それは、簡単なことではありません。不可能なことと言って良いかもしれません。しかし、神は、大きな犠牲を払って、不可能なことを可能なことにしてくださったのです。それが、イエス・キリストの「贖い」です。

 旧約のさまざまな出来事は、イエス・キリストの十字架の贖いを指し示しています。イスラエルの出エジプト、レビ記の事細かな犠牲の規則、また、後の時代のバビロンからの帰還などは、イエス・キリストによる「贖い」の預言です。ある旧約学者が言いました。「旧約が書き記している何千年という歴史は、イエス・キリストが十字架にかかれた、あの一日を指し示している。」ほんとうにその通りだと思います。

 きょうの聖書は、バビロンに連れて行かれたユダヤの人々がバビロンから祖国に帰って来ることを預言している箇所です。聖書では、バビロンからの帰還は出エジプトの再現として描かれています。イスラエルはエジプトから贖い出された神の民でした。ところが、その贖いの恵みから、どんどんと離れてしまい、今度はバビロンの奴隷となってしまいました。いちど贖われた者が、その贖いの恵みから離れたなら、もう二度と神に立ち返ることはできないのでしょうか。いいえ、神は、真実に悔い改める者、救いを求める者をお見捨てにはなりません。奴隷だったイスラエルをエジプトから導き出してくださった神が、捕虜となった人々をバビロンから祖国へと連れ戻してくださるのです。神は、どんな時でも「贖いの神」であり、救いを求める者を贖ってくださるのです。イザヤ41:14で、神はこう言っておられます。「恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」

 この言葉は、さまざまな苦しみの中にある人にとっての希望です。自分の罪に苦しみ、その赦しときよめを熱心に願う人にとっての慰めです。神は、旧約の時代から常に、ご自分を「贖う者」として表わしてこられました。人々は、苦難の中で、「贖い主」である神を仰ぎ望みました。ヨブは、大きな苦難の中から、こう言いました。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」(ヨブ19:25)ヨブは「贖い主である神はわたしの近くにおられる。かならずわたしを救ってくださる」という確信を、この言葉によって言い表したのですが、このヨブの言葉のとおり、贖い主イエス・キリストは、天から降り、地の上に立たれました。神の御子がわたしたちと変わらない人となり、わたしたちを贖うお方として、わたしたちの近くに来てくださいました。そして、今も、わたしたちと共にいてくださるのです。

 二、近親者、キリスト

 神は贖い主です。しかも、常にわたしたちの身近におられる贖い主です。ヘブライ語で「贖い主」には「近親者」という意味があります。一番近い親族という意味です。家族を亡くした者にとって、一番頼りになるのは、おそらく、自分に一番近い親族でしょう。イスラエルでは、一族の中に困難な目に遭っている人がいたら、一番近い親族にその人を助ける義務がありました。

 皆さんは、ルツの物語をよくご存知でしょう。ナオミは、モアブに10年滞在している間に、夫を亡くし、息子を亡くしました。そして、息子の嫁でモアブの女性であるルツを連れて故郷のベツレヘムに帰ってきました。しかし、夫エリメレクの地所はすでに人手に渡っていて、ナオミとルツには故郷ででも生きるすべを失くしていました。そんなとき、ルツは、ナオミの夫の親族、ボアズの好意を得ました。そして、ボアズに近親者の義務を果たして、ナオミの夫、エリメレクの財産と血筋を回復してくれるように頼みました。ボアズはそれにこたえて、ナオミの夫の財産を買い戻したばかりでなく、ルツを妻に迎え、エリメレクの血筋を保ったのです。

 このルツの物語は、たんに、幸せ薄い外国の女性が、はからずも幸運を得たという物語ではありません。ここには、ボアズを通して、贖い主イエス・キリストとイエス・キリストの贖いが描かれているのです。ルツ4:14に「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました」とあります。ここにある「ひとりの近親」というのは、ヘブライ語では「贖い主」という言葉が使われています。神は、ルツのために彼女を贖う人物を身近に備えていてくださいました。そのように、神は、わたしたちの贖い主イエス・キリストを、わたしたちの身近に、「近親者」として備えていてくださるのです。

 ルツはモアブの女性であり、異邦人でした。本来なら、神の民、イスラエルに加わることが許されませんでした。しかし、ボアズが彼女を「贖い」、彼女と結婚することによって、ルツは神の民の一員となりました。たんに、神の民の一員となっただけではありません。ルツが生んだオベデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれました。ルツはダビデ王の祖々母となったのです。そして、このダビデの子として生まれたのがイエス・キリストです。異邦人の女性ルツを先祖に持つイエス・キリストは、「異邦人」と呼ばれ、神から遠く離れていたわたしたちを、贖ってくださり、神の民とし、神の子どもとしてくださるのです。

 また、ボアズはルツにとって、近親者以上のものになりました。ルツの「夫」になったのです。聖書は、イエス・キリストと教会との関係を「花婿」と「花嫁」の関係にたとえています。神は、贖われた者を「キリストの花嫁」とさえしてくださるのです。

 ボアズがナオミの夫エリメレクの地所を贖ったのは、彼に近親者としての義務があったからですが、ルツを妻に迎えることは、近親者としての義務感だけで出来ることではありません。ボアズがルツをも贖ったのは、ルツへの愛のゆえでした。同じように、イエス・キリストも、十字架の「贖い」のみわざを、わたしたちへの愛のゆえに成し遂げられました。

 イエス・キリストが「贖い主」であり「近親者」であるというのは何と大きな恵みでしょうか。わたしたちは、救われるため、また助けを得るために、海を越え、山を越え、遠くに行く必要はないのです。わたしたちを贖うお方は、わたしたちの近親者として、わたしたちのすぐ近くにいてくださいます。そして、このお方は、わたしたちにこう語りかけてくださるのです。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。…恐れてはならない、わたしはあなたを助ける。…恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」(イザヤ41:10-14)主は何度も「恐れるな」と呼びかけ、わたしたちに近づいてくださいます。この贖い主にわたしたちも近づきましょう。このお方を呼び求め、このお方に、わたしたちの近親者として、恐れなく近づきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストを、わたしたちに最も身近な者としてお与えくださいました。「わたしはあなたを贖う者」と語りかけてくださる主イエスに、常に頼りゆくわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/19/2017