永遠の神

イザヤ40:27-31

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40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 一、神の属性

 神が造られたものの中で、何がいちばん、神を知っているでしょうか。空に輝く太陽でしょうか、月でしょうか、それとも星でしょうか。海の水やそこに住む生き物でしょうか。山や丘や谷、森や林、そこに住む動物たちでしょうか。あるいは空を飛ぶ鳥でしょうか。詩篇148には、「主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。…地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。」(3-10節)とあります。神に造られたものすべてが、神をほめたたえているというのです。これは、自然界も、植物や動物も、神の意志に従い、神の栄光を表わしているということを言っています。そのような意味では、自然も、動物も神を知っているということができるかもしれません。しかし、人間のように、直接的に神を知ることが許されているものは地上には無いと思います。私の子どもの頃、父が秋田犬を飼っていました。この犬は、名前を「エス」と言い、ほとんど何も芸が出来なかったのですが、特技がひとつだけありました。それは、寝言を言うことでした。お天気の良い日などは、地面にねそべって、「ウー、ウー」と歌うような声を出すのです。犬の寝言を聞いたのは、この犬がはじめでした。しかし、いくら寝言が言える犬でも、食前にお祈りをしたり、日曜日に賛美をしたりということはありませんでした。もっとも、サンフランシスコには、犬と一緒に礼拝する教会があるそうで、そういいうところでは、犬もまた賛美したり、祈ったりするのかもしれませんが、私は、地上では、人間だけが、神を知り、神に賛美し、祈ることができると思っています。なぜなら、人間は他の動物とは違って、神のかたちに造られているからです。

 神は、人間を神のかたちに造られ、神に似たものとされました。神が知性を持ち、感情を持ち、意志を持っておられるように、人間も、知性を持ち、感情を持ち、そして意志を持っています。神は、きよく、正しく、愛とあわれみに満ち、忍耐や寛容に富んでおられるお方で、私たちにも、そのきよさ、正しさ、愛、あわれみ、忍耐、寛容などという性質を分け与えてくださったのです。神は、人間が神を知ることができるために、神と共通したものを数多く人間に与えてくださったのです。神学では、こうした性質のことを、「流通属性」(Communicable Attributes)と呼んでいます。神と人とに共通してあるもののことですね。これに対して、「非流通属性」(Uncommunicable Attributes)という言葉があります。神だけにあって、人間にはないものを言います。面倒な言葉ですが、聖書を学んでいくにつれ、こうした専門用語に触れることもあるかと思いますので、知っておくのは良いことかと思います。

 神だけが持っておられ、人間にはないもの、それは、「無限」「永遠」「不変」の三つです。『ウェストミンスター小教理問答』には、「神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」と書かれています。無限というのは、範囲において制限がないこと、永遠というのは、時間に対して制限がないこと、不変というのは、変化に対して制限がないことを言います。私たちは、今、ここにいて、同時に、どこか他の場所にいるということはできませんが、神は、同時に、どこにでも、そこにいることのできるお方です。人間は時間の制限の中に生きており、明日を知ることが出来ず、また昨日に戻ることは出来ません。しかし、神はこの世界のはじまりから終わりまでをすべて見通しておられます。私たちは、時とともに成長したり、衰えたりして変化していきますが、神は完全なお方であって、成長する必要がなく、決して衰えることのないお方です。神は、変化という制約の中にはおられないのです。無限、永遠、不変の三つは、お互いに関連しあっています。神が「永遠の神」と呼ばれてる時、そこには「無限の神」、「不変の神」という意味も含まれています。私たちの主は、何の制約も持たないお方、無限、永遠、不変の神です。

 二、神の永遠性

 地上にあるものはみな、永遠のものではなく、やがて朽ちていくものです。ハリウッドの高級住宅地には、有名な映画スターの豪邸が並んでいます。そこはバスツアーのコースにもなっていて、どの家が、どのスターの家かという地図まであって、街角で売られているそうです。それを見たある説教者が「私は、どの家にも、また、そこに停めてある自動車にも、"Temporary" と書いた張り紙をしてまわりたい。地上のものは、永遠ではない。それはひと時のものであることを覚えて欲しい。」と言っていました。ほんとうにそうですね。私たちは、地上にあるものが永遠ではないことを忘れ、一時的なもののためにあくせくし、永遠に残るものをないがしろにしていることがなんと多いことでしょうか。聖書は言っています。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)神は「永遠の神」(イザヤ40:28)です。ですから、神のことばも永遠です。私たちは、永遠に残る神のことばにもっと目を向け、耳を傾けたいと思います。詩篇143:13に「あなたの義は、永遠の義」とあり、エレミヤ31:3に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」とあるように、神の義も愛も永遠で、神はどこまで行っても正しいお方であり、神の愛は永遠で、決してなくならないのです。神のきよさや正しさも永遠です。神の忍耐や寛容も、いつか消えてなくなるものではなく、永遠に続くものです。

 最初に言いましたように、神は、人間を神のかたちにつくり、神の持っておられるきよさや正しさ、愛や恵み、あわれみや寛容などという性質を、人間にも分け与えてくださいました。神は、私たちが、神と共通したものを持ち、それによって神を知ることができるようにしてくださったのです。たとえば、「母の愛は神の愛を表す。」と言われるように、母親の犠牲的な愛を通して私たちは、神の愛をかいま見ることができます。神は、ご自分を「父」として現し、主イエスは、私たちの「友」となってくださいました。父親の愛や友の愛は、神の愛がどんなものかを知る手がかりとなっています。

 しかし、神から与えられたこれらの性質は、残念ながら、罪のためにゆがめられてしまって、神のご性質とは似ても似つかないものになってしまっていることも事実です。最近の母親の中には、子どものために犠牲を払うどころか、自分の欲望のために子どもを犠牲にしてしまうことが良くあります。悲しいことですが、自分のこどもをいじめて死なせてしまうということが、毎週のようにニュースになって伝えられてきます。神の愛は、「きよい」愛ですが、人間の愛は、ゆがんだ愛となってしまいました。多くの人は、神を愛することや他の人を愛することよりも、自分が愛されることだけを求め、愛を利己的なものにすり替えてしまいました。また、たとえ、人間の愛が罪に染まっていなかったとしても、人間の愛は限界があって、神の愛のように無限ではなく、せいぜい、自分と自分の身近な人々を愛する愛でしかありません。私たちの忍耐や寛容に限界があることは、お互いに、毎日体験していますね。愛すべき家族や身近な人にたいしてさえも、ささいなことで、怒ったり、失望したり、すねたりするのです。忍耐や寛容の限界がすぐにやってくるのです。それに、人間の愛や真実は、一日のうちでも変化し、長年の間には、「愛が冷めてくる」ということばがあるように、移り変わっていくものなのです。なによりも、人間の愛は永遠ではないのです。私は、子どもの頃、祖母を亡くし、母を亡くし、そして、義理の兄を亡くしました。祖母も、母も、義兄も私をとてもかわいがってくれました。しかし、どんなに愛してくれても、人間の愛は、その死で終わるのです。ただ神の愛だけが、永遠です。人間には、この世界の法則を探り知ることができるほどの知恵、知識があります。しかし、人間は、まだ、この世界の隅から隅までを知り尽くしていません。その初めから終わりまでを把握していません。私たちは神から知恵、知識を与えられていますが、それは無限ではありません。人間には神から、この世界を治めるという大きな力が与えられています。人間は、その力によって、自分の身を守るさまざまな施設や環境を作り上げてきました。しかし、人間の力には限りがあり、こんなに技術の発達した現代でも、地震や台風、大雨や日照り、さまざまな病原菌などの前には無力です。ただ神だけがその知恵と力において無限のお方、つまり、全知全能のお方です。

 私たちは、神と共通した性質を神から与えられています。それを流通属性と言いましたね。しかし、それらは、私たちが持っているものと神のものとは全く同じではありません。神のすべてのご性質は、無限、永遠、不変という非流通属性を持っています。神の流通属性はその非流通属性において特別なものとなっているのです。私たちは、流通属性において、神を親しく知ることができます。神は、単なる原理や原則ではなく、私たちのように、知ったり、考えたり、計画したり、決断したり、愛したり、憎んだり、喜んだり、悲しんだりするお方なのだということが分かります。しかし、だからと言って、神を人間のように、制限のあるものと考えてはいけません。神は、そのすべてのご性質において、無限、永遠、不変のお方です。私たちは、神の無限性、永遠性、不変性を心に刻んでこそ、神を正しく知り、神をあがめることができるのです。

 三、永遠の神と私たち

 それでは、神を、永遠の神として知ることは、私たちに何をもたらすのでしょうか。イザヤ書40章は、バビロンに捕らえ移されたユダヤの人々のための預言で、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」ということばで始まっています。ユダヤの人々は、その罪のために、国を失うという大きな災いを受けたのですが、神の愛は変わることがなく、やがて、回復の時が来ると、ここで約束されています。しかし、ユダヤの人々は、この時も不信仰になり、「どこに慰めがあるのか。どこに回復があるのか。」と、神のことばを疑いました。人々は、「ユダヤの指導者たちはバビロンに捕らえ移されたではないか。残っている私たちは、バビロンの奴隷となっているではないか。いったいどうやって、自分たちは自由になることができるのか。」と嘆くだけでした。自分と現状を見るだけで、現状をこえたもっと大切なもの、その背後におられる神を見ていなかったのです。それで、聖書は、「見よ。あなたがたの神を。」(イザヤ40:9)と言っているのです。自分と現実を見るだけのところには、信仰は生まれてきません。自分だけを見ていると、物事がうまく行っている時は、自分の力でそれが出来ているように思い違いをし、うぬぼれてしまいます。困難がやってくると、たちまち、物事を投げ出したり、失望したりしてしまいます。イザヤの時代のユダヤの人々がまさにそうでした。彼らは、繁栄の時代に、うぬぼれ、神を忘れ、偶像礼拝にうつつをぬかしていたため、いざ、困難な時がやってきて、神に頼らなければならないときにまことの神を見失ってしまったのでした。偶像の神々は人間が作り出したものに過ぎません。力はあっても愛のない神であったり、怒りの神であってもあわれみのない神であったり、災いをもたらすことはあってもいやしを与えることのできない神であったりします。偶像の神ですから、自分で立って歩くこともできず、人間の手を借りて運んでもらわなければなりません。自分の国のある地域には力を及ぼすことは出来ても、全世界を治め、導くことはできません。イザヤの時代の人々は、主なる神を、制限だらけの偶像の神々と同じように考え、神を小さなものにしていたのです。

 それで、聖書は、21節で「あなたがたは知らないのか。聞かなかったのか。」と、その不信仰を責めています。21-25節にこう書かれています。「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。『それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。』と聖なる方は仰せられる。」神は、天地の創造者であり、この世界を治めておられます。この偉大な神を、鳥や獣、地を這うものに似せ、その形を拝むとは、いったいどういうことか、人間が作りだした神々ではなく、人間を造った神を知りなさいと、呼びかけているのです。26節に「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」とあります。全知全能の神、創造者である神、永遠の神を見上げるところに救いがあるのです。

 28節にも、もう一度、「知らないのか。」と言われています。これは「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」ということばへの答えです。最初の「知らないのか。」は、まことの神を忘れている人々へのことばでしたが、ここでは、神を信じている人々に語られています。彼らは、現在の苦境を神に訴え、救いを願い求めているのですが、物事がすこしも良くならないために、落胆しきって、その信仰を失いかけていました。そのような人々にも神は、「あなたは知らないのか。聞いていないのか。」と言われます。しかし、これは、責めることばではなく、「わたしを見なさい。わたしがどういう者であるかを知りなさい。そうすれば、その落胆から、その失望から救われる。」という励ましのことばとして語られています。神は言われます。「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(イザヤ40:38-39)主は永遠の神です。主は地をおおう天蓋の上に住まわれるお方です。しかし、同時に、疲れ、つまずき倒れたものの側にいて、その大きな力で励ましてくださるお方です。

 第四回オリンピックはロンドンで行われましたが、この時のマラソン競技で、イタリアの選手ドランドは、競技場に先頭を切って帰ってきました。ところが、ゴール寸前でばったりと倒れてしまったため、マラソン協議の役員たちがかけ寄って彼を助け起こしました。ドランド選手は、それに助けられてゴールインしました。マラソン競技には、アテネの兵士が、ギリシャ軍勝利の知らせを伝えるため全速力で走り、マラトンという場所で倒れたといういわれがありますので、この時の観衆は、そのことを思い浮かべて万雷の拍手を送りました。しかし、オリンピック競技で人の助けを受けることは反則であり、彼は一位でゴールインしたにもかかわらず失格となってしまったのです。聖書にあるように「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」のです。これは信仰の歩みにおいても同じです。なんのつまずきもなく、天国に至るまで信仰のトラックを走り抜くことができる人は、おそらく、ほとんどいないでしょう。多くの信仰者が、実際には、時々は、疲れたり、倒れたりするのです。自分の罪と戦い、きよめられることを求め、神に従い通そうとする時、かならず困難がやってきます。そこで躓いたり、倒れたりすることもあるのです。スポーツの競技では、そんな時、人の助けを受けるのはルール違反になりますが、信仰の競走では、そんな時には、主を呼び求め、助けを受けるというのが、私たちの従わなければならないルールなのです。どんなに苦しくても、歯を食いしばって自分の力で立ち上がらなければならないというのなら、誰も、信仰の競走を走り抜くことはできません。神は永遠の神であるからこそ、どんな苦難の中でも、私を立ち上がらせてくださる、そう信じて、神を見上げるのです。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:30-31)のです。「疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」永遠の神を知る者は、たとえ、つまずき倒れることがあっても、そこから立ち上がり、疲れることがあっても、それをいやされて、たゆむことなく、前進していくのです。この主をみことばによって知ろうではありませんか。このお方を信仰をもって見上げようではありませんか。そして、この主を、私たちのうちに力が満ちるまで、待ち望もうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちは、あなたが何者にも制約されることのないお方であることを忘れがちです。あなたの愛は永遠ですのに、すこしばかりの困難があると、あなたに愛されていることを忘れてしまうことがあります。あなたの力は無限ですのに、一度や二度の失敗で、まるで立ち直れないかのように思いこんでしまうこともあります。今朝、あなたは、ご自身を永遠の神として私たちに示してくださいました。それは、私たちがあなたのうちにある永遠の力で強められるためです。あなたを小さなものと見ていた過ちを赦し、あなたの偉大さをほめたたえるものとしてください。あなたを知るにつれて、私たちの信仰の歩みをさらに確かなものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/24/2005