主を待ち望む

イザヤ40:27-31

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40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 今日から、アドベント、待降節になりました。「待降節」というのは、「降誕を待つシーズン」という意味です。クリスマス前の四回の日曜日が、それぞれ「待降節第一主日」「待降節第二主日」というように数えられます。多くの教会では、アドベントになると、祭壇に五本のキャンドルを立てます。中央のキャンドルが「キリストのキャンドル」で、その回りに四本のアドベント・キャンドルを置き、アドベント・サンデーごとに、一本づつ、キャンドルに灯をともしていきます。四つのアドベント・キャンドルすべてに点灯されると、次はクリスマス・イヴに中央のキャンドルにも点灯して、クリスマスを祝います。このシーズン、人々は一本、一本キャンドルに灯をともしながら、キリストの降誕を待つのですが、私たちは主の降誕を待ち、また、新しい年を待つこの一ヶ月の間、「主を待ち望む」信仰を養いながらすごしたいと思います。

 「主を待ち望む」ということで、一番親しまれている聖書のことばは、イザヤ40:31でしょう。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」とあります。「これを唱えると、力が湧いてきます。」と言った人がいましたが、みなさんの多くも、この言葉を暗記していて、これを唱えていることでしょう。「主を待ち望む」と言われているこが何を意味しているかをさらに深く知って、それを唱えるなら、もっと元気が出てくることでしょう。主からもっと多くの力を受けるために、「主を待ち望む」とはどうすることなのかを、今朝学んでおきましょう。

 一、主を知る

 「主を待ち望む」とは、まず、主がどんなお方であるかを知ることです。多くの人は、困難や問題を抱えている人に、「もうしばらく我慢していれば良くなるから。」「時間が解決してくれますよ。」とアドバイスを与えたりしますが、「主を待ち望む」というのは、そのように、つらいことを我慢する、時が来るのを待つということなのでしょうか。そうではなく、聖書は私たちに、たんに「待ち望む」というのではなく、「主を待ち望む」ことを教えています。「主を」という言葉が大切なのです。私たちの思いを、主に向け、主がどのようなお方であるかを知ること、ここから「主を待ち望む」ことが始まるのです。

 ここで使われている「主」という言葉は、新改訳聖書では太文字でしるされています。英語の聖書では、全部大文字の "LORD" となっています。これは、神が「主権者」であるという意味の「主」ではなく、神のお名前「ヤーウェ」が使われていることを示しています。「主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒めを、ユダヤの人々は、神のお名前をそのまま発音してはならないと受けとめ、「ヤーウェ」というお名前が出てくるところを「アドナイ」(「わが主」の意)と読み替えました。それで、「ヤーウェ」が「主」と訳されるようになったのです。しかし、なぜ、「神を待ち望む」「創造者を待ち望む」「主権者を待ち望む」ではなく、「ヤーウェを待ち望む」と言われているのでしょうか。さまざまな意味がありますが、三つのことを今朝覚えていただければと思います。

 神を「ヤーウェ」と呼ぶことは、第一に、主を、すべてのものの根源である方、第一のお方とすることです。「ヤーウェ」というお名前には「あってある者」という意味があります。つまり、主は、誰かに依存して存在しているのでなく、ご自分で存在しておられ、すべてのものを存在させているお方ということです。この世界も、私たち人間もみな、自分で存在してるのではなく、神によって造られ、保たれ、生かされています。私たちの存在は、神に依存しています。人間は「あってなきがごとき者」です。しかし、主は、はじめから存在しておられるお方、まさに「あってある者」です。聖書は「初めに、神が天と地とを創造された。」ということばで始まっていますが、そのように、主は「初め」から存在しておられたお方、あらゆるもののにおいて第一のお方です。しかし、多くの人は、神を第一にしていません。人間は神によって生かされているのに、まるで神が存在しないかのように生きています。主が私たちの人生において第一のお方であるのに、それを忘れて、常に自分の思いや計画を押し通そうとします。時には、まるで、神を自分のしもべのように利用するようなことさえします。しかし、「主を待ち望む者」は、主を第一のお方とします。何を考えるにも、主のみ思いから出発し、何をするにも、主のみこころに従おうとするのです。「私がそれをしたいからする。」というのでなく、何事においても「主が私に何を望んでおられるか。」ということを真剣に、謙虚に求めるのです。「主を待ち望む」生き方は主を第一にする生き方なのです。

 神を「ヤーウェ」と呼ぶことは、第二に、神を制限のないお方とすることです。「ヤーウェ」には「あってある者」という意味があり、これは、英語では "I AM THAT I AM." となります。"I AM" というのは「私は…である。」という意味で使う時には "I am a student." というように、"I am" のあとに何かの言葉が入ります。そして、"I am" の後に入る言葉によって、「私」が限定されます。"I am a student." と言うことはつまり、"I'm not a teacher." という意味になります。しかし、主は "I AM THAT I AM." と言って、"I AM" に続くことばによってご自分を限定しておられないのです。主は、その存在において、制限がないのです。28節に「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。主が「永遠の神」であるというのは、主が、時間に制約されないお方であること、「地の果てまで創造された方」というのは、空間に制約されないこと、「疲れることなく」というのは、力において制限がないこと、「たゆむことなく」というのは、主が常に変わらないお方、変化されるお方でないことを表わしています。また、「その英知は測り知れない」というのは、主がその知恵、知識において制限がないことを言っています。人間にも、知恵や力が与えられていますが、それは制限されています。罪深い人間が、もし、無制限の知恵と力を手に入れたら、どんなにか互いに傷つけあってきたことか、また、世界はとうの昔に滅びてしまっていただろうと思います。人間にそうした制限があることは、神の恵みだと、私は思っています。しかし、神にはどんな制約もありせん。ですから、「わたしは創造者である。」「わたしは救い主である。」「わたしは審判者である。」などと、主は、"I AM" の後に、どんな言葉でも入れて語ることのできるお方です。そして神が「わたしは真実である。」「わたしは愛である。」と言われるときには、神はどこまでも真実で、限りなく愛に満ちておられるのです。「主を待ち望む者」は、このような無限の愛と力をもっておられる主から、信仰と祈りによって、その無限の恵みや力を受けるのです。

 神を「ヤーウェ」と呼ぶことは、第三に、神を私の神とすることです。「ヤーウェ」は固有名詞です。日本の会社では、上司を「部長」や「課長」などと役職名で呼びますが、アメリカでは、名前で呼びあいますね。それは、その人をたんに役職だけで見るのでなく、ひとりの人格として見ようとしているからで、とても良いことだと思います。数ヵ月前に、新井雅之さんが講演をしてくださった時、「ありがとう。」だけでなく、「ありがとう。和子さん。」などというように、できるだけ、相手の名前を呼びましょうと教えてくれました。親しい間柄では、お互いに名前を呼び合いますが、私たちも神をそのお名前で呼ぶことが許されているというのは、素晴らしいことです。主は、ご自分の名を私たちに明らかにされることによって、「わたしは、あなたの神だ。」と言ってくださるのです。主は、私たちをはるかに超えた偉大な存在であり、人間がその存在、ご性質、また力を制約したり、制限したりすることのできないお方です。それなのに、主は、私たちが主を「私の神」と呼んで、神を「私のもの」として制限することを許していてくださるのです。「ヤーウェ」というお名前には、私たち人間とかかわってくださり、「私の神」となってくださる主の深いあわれみが示されているのです。新約聖書では「ヤーウェ」がすべて「主」と訳されています。そして、「イエスは主である。」と宣言されています。イエスこそ、私たち人間とかかわりを持ってくださる私たちの神なのだという宣言です。新約時代の私たちには「ヤーウェ」というお名前のかわりに、イエスのお名前が与えられているのです。ですからクリスチャンは、「ヤーウェ」というお名前で神を呼ぶかわりに、主イエスのお名前を呼ぶのです。「主イエス・キリストの父なる神」と呼ぶことによって、主を「私の神」として呼び求めるのです。このようにイエス・キリストにある者は、イエスによって主を「私の神」と呼んで、主から離れず、主につながり続けていくことができるのです。

 二、主に信頼する

 「主を待ち望む」とは、このように、私が待ち望む主がどんなお方かを知ることですが、「主を知る」というのは、たんに神についてのあれこれの知識を持つこととは違います。誰かの住所や電話番号、生年月日、家族構成や職場での地位について知っているから、それで、その人を知っているとは言えませんね。それは、たんにある人についてのデータを持っているだけのことです。人と心を開いて話しあったり、一緒に働いたりしてはじめて、その人の「人となり」を知ることができます。信頼関係にもとづいた人格と人格との関係ができて、はじめて私たちは、「その人を知っている」ということができます。同じように、「主を知る」というのも、主のみことばを聞き、主に祈り、そして、主に頼り、主に従うことによって、ご人格である主を、自分の人格で知っていくことなのです。ですから「主を待ち望む」とは、主を信頼することであると言うことができます。

 聖書は、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」と言って、主に信頼する者の姿を、翼を広げ、上空を飛ぶ鷲の姿で描いています。ある牧師が、この箇所から説教をしている時、聴衆のなかから三人を選んで、「鷲のように翼をかって上る様子を全身を使って見せてごらん。」と言いました。すると三人が三人とも、両手を広げ、それを上下に振って、そのしぐさをしました。それを見た牧師は、「ダメ、ダメ、みんなダメ。雀や鳩じゃないんだから、鷲は、そんなに羽をバタバタさせないよ。」と言って、両手をまっすぐに広げたまま、身体をすこし左右に動かして、「鷲は、高いところに巣を作っていて、そこから気流に乗って飛ぶんだ。だから、こんなふうに、羽をまっすぐに伸ばしたまま、空を翔けるのだ。」と教えました。「主を待ち望む者」は、鷲が気流に身を任せるように、神に自分を任せて生きるのです。

 聖書は、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ぺテロ第一5:7)と教えていますが、私たちは、神にゆだねる、主に任せるということがなかなかできないで、自分で重荷を背負いこんでジタバタしてしまうことがあります。そんな私たちの姿は、神がご覧になれば、羽をバタバタさせても、ちっとも飛び上がれない鳥のように見えるかもしれません。どんなことにも、努力は必要ですが、主にあっての努力ではなく、自分の力でなんとかしようとしている間は、決して鷲のように上空に舞い上がることはできません。神に自分を任せる時、私たちは、神のみこころのそば近くへと近づくことができます。上空からは地上のさまざまのものを広く見ることができるように、自分自身や自分の人生を、神の目でしっかりと見ることができるのです。上空を飛ぶ鷲の姿には、空の王者の風格がありますが、「主を待ち望む者」も、地上のことがらにとらわれることのない、信仰の自由を持つことができるのです。

 イザヤ40:31は、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」と言ってから、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」と、「主を待ち望む者」に与えられる力をもういちど確認しています。31節の「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とのことばは、28節に「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあることと深くつながっています。私たちの主は「疲れない、たゆまない」お方だから、「主を待ち望む者」も、「たゆまず、疲れない」というのです。「主を待ち望む者」の力の源が示されています。「主を待ち望む」生き方というのは、決して、自分で自分を励ますという生き方ではありません。人間の力だけの頑張りなら、力にあふれたはずの「若者も疲れ、たゆむ」(30節)ことがあるでしょう。しかし、「主を待ち望む者」は、その力の源が神にあるので、たえず「新しい力」を受けることができるのです。

 「主を待ち望む」こと、神に自分を委ねるというのは、時として消極的な態度のように見えますが、実際はそうではありません。「主を待ち望む」というのは、何もしないでじっと待っているということではなく、私たちの目を、「永遠の神、地の果てまでの創造者、力と知恵にあふれた主」に向けることだからです。主が、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(29節)であることを信じ、この主に頼り、その力を求めるという積極的なことなのです。旧約時代の聖徒たちは「主を待ち望み」続け、ついに救い主イエス・キリストのご降誕を迎えました。新約時代のクリスチャンは、すでに主イエス・キリストが来てくださった時代、主イエス・キリストが遣わしてくださった聖霊の時代に生きています。主が聖霊によって、私たちを新しい力で満たしてくださることを求めようではありませんか。そして、主ご自身が力をもって再び世に来てくださることを、待ち望もうではありせんか。クリスマスを待つ一週、一週、信仰をもって「主を待ち望む」ことを学び、実践していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、みことばをもって、「主を待ち望む者」の姿をお示しくださり感謝いたします。私たちは、すでに主イエス・キリストへの信仰を言い表わしてバプテスマを受けた者たちは、これから、主の晩餐にあずかります。聖餐の式辞に「このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とありますように、聖餐は、主イエス・キリストが再び来られることを待ち望むためのものです。パンと杯にあずかる者たちの心に、主を待ち望む信仰を養ってください。そして、主を待ち望む者たちに、地上の罪の束縛から離れて、天を翔ける聖霊の自由をお与えください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/28/2004