聖霊の七つの賜物

イザヤ11:1-5

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11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
11:3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

 一、キリストに与えられた聖霊

 イザヤ書にはイエス・キリストの預言が満ちています。キリストが処女から生まれること(9:6-7)、荒野の預言者に紹介されて世に現れること(40:3-5)、聖霊を受け(11:1-5)、その力によって宣教すること(42:1-4)、人々に斥けられ、苦しめられること(イザヤ53:1-3)、しかし、その苦しみと死が、人々の罪を贖うこと(イザヤ53:5ー9)、罪びとのためにとりなしてくださること(53:10-12)などが、イエス・キリストが来られる八百年も前に書かれたとは思えないほど、克明に描かれています。

 イザヤ11:1に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とあるのは、イエスがダビデ王の再来としておいでになることを示しています。「エッサイ」はダビデの父親です。エッサイの子ダビデが神の民イエスラエルの王となって人々を治め、イスラエルの黄金期を築いたように、イエス・キリストがダビデの子孫として生まれ、全世界を治める王となることが、ここで預言されているのです。

 イエス・キリストはマタイの福音書の系図が示すとおり、ダビデの子孫として生まれました。その誕生のときから「ユダヤ人の王」と呼ばれ、東方の博士たちの礼拝を受けておられます。イエスは王宮に住まず、豪華な服を着ることもなく、また、冠をかぶることもありませんでした。それどころか、イエスは家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられ、その着物を剥がされ、頭に茨の冠をかぶせられたお方です。しかし、イエスは王です。この世の王ではありません。この世の王以上のお方、神の国の王です。神の国の王が、この世に神の国をもたらし、あらゆるものを正しく、またいつくしみ深く治めてくださるのです。

 イエスが、そのような王であることは、バプテスマをお受けになったときに明らかになりました。イザヤ12:2の「その上に、主の霊がとどまる」というのは、イエスがバプテスマをお受けになって、水から上がられたとき、聖霊がイエスの上に降ったことをさしています。そのときに降った聖霊は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」でした。聖霊が与える「知恵と悟り」、「はかりごとと能力」、「主を知る知識と主を恐れること」といった賜物は、すべて、王であるものが備えていなければならないものでした。

 王には、まず、知恵と悟りが必要です。ソロモンがダビデのあとをついで王になったとき、ソロモンが第一に求めたのは、知恵でした。ソロモンは祈りました。「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(列王記第一3:7-9)この祈りはみこころにかない、神はソロモンにどの国の王にもまさる知恵を与えました。ソロモンはその知恵に従って「悟り(判断力)」を働かせ、イスラエルの国を平和と繁栄に導きました。

 次に王になくてならないものは「はかりごとと能力」です。「はかりごと」というのは、「政策」や「外交」のことです。どんなに良いこころざしがあったとしても、政策が悪ければ、それは人々に通じません。外交の下手な国は、なにかにつけて不利な立場に追いやられ、国民の不満をふくらませます。外交ができないから、戦争に突っ走ってしまうのです。しかし、政策や外交にはその裏付けとなる「能力」(力)が必要です。国の力というとすぐに軍事力や経済力といったものを考えますが、大きな軍隊を持たない国でも、経済力のそんなにない国でも、国際社会で発言力を持っている国が、いくつもあります。教育の力、技術の力、文化の力、歴史の力、道徳の力という力もあるのです。神の国の力は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)です。ソロモンは巧みな外交家であり、おおいに国力を高めた人でした。

 「知恵と悟り」、「はかりごとと能力」に加えて、神の民の王には、さらに三つのものが求められました。それは「主を知る知識」、「主を愛する心」、そして「主を恐れる心」です。「主を恐れる」というのは、神を怖がるということではありません。神を怒らせないようにと、いつもビクビクしていることではありません。神の恵みやあわれみに信頼して、神に近づくこと、神を愛することです。しかし、かといって、神を「おともだち」扱いし、馴れ馴れしくすることでもありません。やはり、「恐れる」という言葉には、聖なる神に対して、畏敬の念をもって、うやうやしく礼拝し、服従するという意味があります。「主を恐れる」ということばはイザヤ11:3にも出てきますので、聖書がラテン語に訳されたとき、2節の「恐れ」は「愛」、3節の「恐れ」は「畏敬」と訳されたので、それ以来、「知恵」、「悟り」、「はかりごと」、「能力」、「知識」、「愛」、「畏敬」の七つが、「聖霊の賜物」とされるようになりました。神の民の王には、たんに国を強くする、豊かにするというだけでなく、人々に神を知らせ、神を愛させ、神を敬わせるという務めがあります。神の民の指導者にはなによりも、神を知り、神を愛し、神を敬うこころが必要なのです。

 ネヘミヤ記を読んでいて、私は、ネヘミヤ7:2に目がとまりました。そこには、総督であるネヘミヤが、エルサレムの市長にハナヌヤを任命したことがか書かれてあり、ハナヌヤが選ばれた理由について、「ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである」と書かれていました。「神への恐れ」、つまり「愛」と「畏敬」の心こそ、神の民を治める者に求められている第一のものだということを改めて思いました。ソロモンは「知恵」、「悟り」、「はかりごと」、「能力」においては優れた王でしたが、主を知る「知識」、「愛」、「畏敬」においては足りないところがありました。ソロモンは、外国の神々をイスラエルに持ち込むことに手を貸してしまったのです。ソロモンは父ダビデのようには、神を知り、神を愛し、神を恐れる心を持っていませんでした。聖書に出てくるイスラエルの王には、七つの賜物を備えた完全な王はだれひとりいませんでした。しかし、イエスは違います。イエスはソロモンにまさるお方(マタイ12:42)です。王としての資格と賜物のすべてをお持ちになったお方です。

 ヨハネ3:34に「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」とあるように、父なる神は、御子を愛し、御子に聖霊を注ぎ、完全な賜物をお与えになりました。父は、御子に聖霊を与え、賜物で満たすことによって、御子イエスこそ、神の国の王であることを宣言されたのです。

 二、クリスチャンに与えられた聖霊

 御子イエスを愛して、聖霊を豊かに注がれた父なる神は、御子を信じる者にもまた、聖霊を与えてくださいます。イエスは、ルカ11:13で「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と言っておられます。聖霊は天の父の子どもたちへの愛の贈り物、神の愛のしるしです。イエスがバプテスマをお受けになったとき、イエスに聖霊を注がれた天の父は、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者にも聖霊を注いでくださるのです。さきほど執り行なわれたバプテスマでは、信仰を言い表した人が水に浸されました。それは、見えるところは、水によるバプテスマでした。しかし、神はそれと同時にその人に聖霊を注いでくださったのです。人間には水を注ぐことしか出来ません。しかし、神は、バプテスマの水を用いて、信じる者に聖霊を注いでくださったのです。

 神は、信じる者たちが罪の奴隷でいることをお望みになりません。神は、人々がこの時代に振り回され、誤った教えの風に吹かれ、サタンにまどわされていることを深く悲しんでおられます。神は、バプテスマによって、信じる者たちを、神の民、神の子どもとされただけでなく、この世を治める者ともしてくださったのです。私たちはキリストとともに王とされたのです。ですから、環境にコントロールされるのでなく、それを治めることが求められているのです。

 私たちは誰しも、嫌なことが起これば不機嫌になります。プレッシャーがかかると逃げ出したくなります。失敗すると落胆してしまいます。それは、サーモメーターのような生き方です。サーモメーターは、その時々の気温に反応するだけです。しかし、サーモスタットは、気温が上がれば冷房のスイッチを入れ、気温を下げます。気温が下がれば、暖房のスイッチを入れて気温を上げるのです。環境に支配されるのでなく、環境を変えていくのです。神は、私たちに、サーモメーターのように、まわりのものに振り回される生き方ではなく、サーモスタットのように、まわりを変えていく生き方を望んでおられます。そして、そうすることができるようにと、神は聖霊をくださったのです。私たちのサーモスタットは時々故障することがあります。まわりを温めなければならないときに冷たい風を送ったり、まわりを落ち着かせなければならないのに、火に油を注ぐようなことをしてしまうこともあります。そうならないよう、私たちのサーモスタットを、真に人を変え、状況を変えることがおできになる聖霊にしっかりとつなげていきたいと思います。

 そのために、イエスに与えられたのと同じ聖霊の七つの賜物が、信じてバプテスマを受けた者たちにも与えられていることを覚えていたいと思います。与えられた聖霊の賜物を、もういちど燃え立たせたいと思います。

 七つの賜物の第一は「知恵」("wisdom")でした。知恵とは、何が一番良いことか、賢い答えを与えてくれるものです。聖書は知恵の欠けた者は「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」(ヤコブ1:5)と教えています。第二の「悟り」("understanding")は、生活で出会う様々なことがらの中に、神のみこころを把握する力です。知恵と悟りによってみこころにかなった歩みをすることができるのです。

 第三の「はかりごと」は、英語で "councel"(助言)と訳されています。それは他の人に助言を与える力であると同時に、神からの助言、他からの助言に耳を傾ける柔らかい心でもあると思います。第四の「能力」は、英語では "might"(力)、"fortitude"(不屈の精神)あるいは "courage"(勇気)と訳されます。迫害や誘惑をはねのけ、正しいと信じることを貫き通す力です。私たちが何かをしようとして出来ないのは、多くの場合、能力がないからではありません。「こんなことは今までやったことがない」「こんなことはできるわけがない」「やってもうまくいなないのでは」「失敗したら嫌だ」などという先入観や恐れがあって、せっかく与えられた能力が発揮されないのです。ちいさいこどもが、「できな~い」と言ってダダをこねるようなことを、大人も、案外やっているのかもしれません。聖霊からいただく勇気、くじけない心を常に願い求めたいと思います。

 第五の「主を知る知識」(knowledge of God)、第六の「主への愛」(英語では "piety" または "reverence")、そして第七の「主を恐れること」(英語では "fear of the Lord" または "wonder and awe")については、とても話す時間がありません。これこそ、聖書の主題なのですから、聖書を学ぶということは、つまり主を知る「知識」と、「愛」の心と、「畏敬」の思いを育てていくことに他ならないのです。

 「知恵」(wisdom)、「悟り」(understanding)、「助言」(counsel)、「勇気」(fortitud/courage)、「知識」(knowledge)、「愛」(piety)、「畏敬」(fear of the Lord)のすべては、私たちの日々の生活になくてならないものです。私たちは必要なものほどすぐ取り出せるように身近に置きます。そのように、聖霊の七つの賜物を手の届くところに置いておきましょう。そのために、いつも聖霊を求め、聖霊とともに歩みましょう。皆さんは、誰かにプレゼントしたものが、ジャンクボックスに入れられて、ほったらしにされていたら残念に思いませんか。愛を込めてプレゼントしたものは、大切にして使ってもらいたいですね。同じように、神も、私たちへの愛のしるしとして私たちに与えてくださった聖霊の賜物が、まったく用いられていない、あるいは無視されているとしたら、それをどんなに悲しまれることでしょうか。聖霊の賜物、神の愛の贈り物を大切にし、それを大いに用いる私たちでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちを愛して、御子イエスにお与えになったのと同じ聖霊の賜物を私たちにも与えてくださいました。それは、あなたの私たちへの尊い愛のしるしです。他のもので自分を満たそうとするのでなく、聖霊の賜物を豊かに受け、それを用い、それに満たされるように導いてください。与えられている賜物を再発見し、それが日々の生活の中に働くものとなりますように。あなたからの賜物によって自らが生かされ、他の人を生かし、あなたの栄光を表わすことができますように。主イエスによって祈ります。

8/7/2011