ダビデの若枝

イザヤ11:1-9

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1:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
11:3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

 一、キリストの預言

 聖書は神のことばで、他の書物と根本的に違っていますが、その違いのひとつはそこに「預言」があるということです。聖書の中心は、イエス・キリストで、預言もまたイエス・キリストを指し示しています。旧約聖書は、紀元前千四百年から紀元前四百年前までの千年間に書かれたものですが、そこにはイエス・キリストについての預言がいたるところにあって、そのひとつひとつが、そのことばのとおりに成就しています。聖書の「預言」は、たんに、将来のことを言い当てるだけのものではありません。それは、私たちに対する神の愛や救いの計画を示すものです。聖書の預言が、たんに将来のことを言い当ててるだけのものなら、それは「すごいなあ。」「不思議だなあ。」と感心するだけで終わってしまいますが、それが、私たちの救いに関わることであるなら、私たちは、それに真剣に耳を傾け、預言が示しているイエス・キリストに、しっかりと目を向ける必要があるのです。

 キリストに関する最初の預言は、アダム、エバの時にまでさかのぼります。創世記3:15に「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、キリストが、天使のように天から降りてくるのではなく、「女の子孫」として、人類のひとりとして生まれることを預言しています。アダム、エバの時代には人類はひとつでした。人種や民族、国家や国境などありませんでしたし、言葉もひとつでした。ですから、「女の子孫」という預言だけで十分だったのです。しかし、人々が世界中に広がっていった時には、どの民族からキリストが出るのかというもう少し詳しい預言が必要となりました。そこで、創世記12:2-3では「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と、アブラハムの子孫、つまりユダヤ人の中からキリストが生まれるとの預言が与えられました。

 しかし、ユダヤ人といっても、十二部族あります。どの部族からキリストは生まれるのでしょうか。創世記49:10には「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」と、キリストがユダ族から出ることが明らかにされます。そして、聖書の数多くの箇所は、ユダ族のダビデの子孫からキリストが出ることを教えています。ですから、マタイの福音書は、イエス・キリストを「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト」(マタイ1:1)と言って紹介しているのです。マタイの福音書は、このあと、「イエス・キリストの系図」として、長々とたくさんの名前を並べています。日本人にはなみじのない名前ばかりですから、はじめて聖書を読もうと、新約聖書の第一ページを開いた人は、これを見て、聖書を読む意欲がそがれてしまうかもしれませんが、キリストの系図は、キリストが預言のとおり、アブラハムの子孫として、しかもダビデの血筋を受け継ぐ者として生まれたことを証明するたいへん重要なものなのです。

 聖書の預言は、全人類の中のユダヤ民族、ユダヤ民族の中のユダ族、そしてユダ族の中のダビデの子孫というように、フォーカスを絞りこんで、ついに、ひとりのお方、イエス・キリストにいたっています。望遠鏡で遠くのものを見る時に、最初はぼんやりとしか見えませんが、ピントを合わせていくうちに、だんだんとはっきりと見えるようになります。そして、最後に目標物がくっきりと目の前に写し出されるようになります。聖書の、イエス・キリストに関する預言も同じです。それは、イエスの生まれる何千年も前から与えられ、最初はぼんやりとですが、だんだんと詳しく、そして明確になっていくしかたで書かれています。旧約の時代にはぼんやりとしか見えなかったイエス・キリストの姿が、新約には、くっきりと描き出されています。私たちは、今、預言の成就を見、それにあずかっているのです。なんと幸いなことでしょうか。

 二、キリストの姿

 旧約の中でも、預言者イザヤは、キリストについて数多くの預言をしています。7章では、キリストがおとめから生まれ、インマヌエル(神われらと共にいます)と呼ばれる(7:14)とあり、9章では、キリストが「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(9:6)と書かれています。今朝の箇所、イザヤ11章では「平和の君」であるキリストの姿が詳しく書かれています。それはどのように描かれているでしょうか。

 まず、第一にキリストの謙遜が描かれます。キリストは、イザヤ9:6で「力ある神、永遠の父」と呼ばれていました。これは、神と等しいお方であるという意味です。ところが、キリストは人となって生まれ、地上を歩まれた時は、徹底して父なる神に服従されました。そればかりでなく、聖霊に対しても従われました。キリストは、本来は聖霊の上におられるお方で、聖霊はキリストによって世に遣わされ、聖霊は「キリストの霊」とも呼ばれ、キリストの栄光を表わすのが本来の働きです。ところが、キリストは、地上の生涯においては、全く聖霊に服従しておられます。キリストは聖霊によってみごもり、聖霊によって力あるわざをなしました。荒野で四十日の間断食をなさった時も、キリストは聖霊に服従してそうされたのです。マルコ1:1には「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。ルカ4:1には「御霊に導かれて荒野におり」とありますが、ここで使われていることばは、動物に綱をつけて引き回す時に使われることばです。新共同訳がここを「荒れ野の中を"霊"によって引き回され」と訳しているのが、一番良く意味を表わしているかと思います。キリストは、聖霊に追いやられ、引き回されるまでに、聖霊に服従されました。イザヤ11:2の「その上に、主の霊がとどまる。」とあることばは、そのようなキリストの徹底した謙遜と服従を示しています。クリスマスによく読まれる箇所ですが、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:6-8)というみことばがありますが、イザヤのこの箇所は、このことばをあらかじめ預言していたのです。万物の主である神が人となられたということだけでも、世界に類を見ないへりくだりなのに、キリストは、全世界の王となる前に、すべての者のしもべとなられた、いいえ、罪人となられ、極悪人のひとりのようにして、十字架の上で死なれたのです。私たちの救いのために、徹底してへりくだってくださったキリストを心に迎え入れましょう。そして、キリストと同じような神に対する謙虚な思い、神への従順な心を与えられたいと思います。

 ここには、第二にキリストの正義が描かれています。人間の場合は、権力と正義というものは相容れない場合が多く、人は権力を持つとそれを乱用し、私腹をこやそうとするものです。特に、政治の世界には駆け引きがつきもので、時には残酷なことも行われます。しかし、キリストは違います。「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」(3-5節)と、キリストによって正義と公平が世界に行き渡ることが預言されています。けれども、キリストが世に来られて、もう二千年がたつのに、世界にはまだ正義と公平が行き渡っていません。世の中には不義がはびこり、人の世は、かならずしも公平ではありません。「キリストの正義や公平はどうなったのか。この預言は成就していないではないか。」と、私たちは、忍耐をなくしがちですが、しかし、キリストは、もう一度この世界に来てくださり、すべてを正しく治めてくださいます。ヨハネの黙示録1:14-16にイエス・キリストの姿がこのように描かれています。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」これは、多くの人が心に描くイエス・キリストの姿とずいぶん違っていますね。キリストがもう一度おいでになる時には、最初においでになった時のように柔和なお姿ではなく、恐ろしいまでに厳しい審判者としておいでになるのです。イザヤ11:4に「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。」とありますが、黙示録もイエスの「口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出て」いると言っています。このキリストのさばきに、だれひとり耐えることのできる者はありません。ですから、キリストの再臨の前、今という恵みの時に、罪を赦していただかなくてはならないのです。罪を悔い改めてキリストのもとに行く者に、キリストは、ご自分の「正しさ」を私たちに分け与え、私たちを神の前に、正しい者と認めてくださいます。旧約のイザヤ書も新約のヨハネの黙示録もともに預言の書物で、将来のことを教えています。しかし、預言は将来のことだから私たちに関係ないと考えてはなりません。将来がどうなるかによって、今、どう生きるかが決まるのです。聖書のどの預言も、将来を示すことによって、今の私がどう生きるべきかを教えているのです。あなたは、罪を赦され、正しい者とされ、神のきよさのうちに歩んでいるでしょうか。

 ここには、第三に、キリストのもたらしてくださる平和が描かれています。狼は子羊を餌食にしようと狙い、ひょうは子やぎに食らいつきます。コブラやまむしは人に噛み付きます。今の世界は、要するに弱肉強食の世界です。ところが、キリストが世界を治める時、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、…雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」(6-8節)のです。多くの人は、これは、キリストの支配がそれほどに平和に満ちたものだという比喩であると解釈しています。確かに、イエス・キリストを信じる者の心には、人間の知恵では理解できず、人間の努力によっては勝ち取ることのできない深い平安が与えられます。「狼は子羊とともに宿り…」という預言は、今、霊的に成就しています。しかし、それだけで終わらず、この預言は、世の終わりに文字通り成就します。といいますのは、自然界の弱肉強食は、人間の堕落によって引き起こされたことで、人間の救いが完成する時には、自然界もそれに伴って回復すると約束されているからです。ローマ8:20-21に「なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」とあります。イエス・キリストがおいでになって、私たちの救いが完成する時、自然界も再び最初の秩序を取り戻します。キリストは一度目は私たちの魂を救うために来てくださいましたが、二度目には、私たちの世界を、自然界も含めて救うためにおいでになるのです。その日を心から待ち望む私たちでありたく思います。

 三、キリストの民

 では、「平和の君」イエス・キリストの愛と正義の支配が成就する時、誰が、その恵みにあずかることができるのでしょうか。それは、暗い時代の中にあっても、希望をもって信仰を保っている人々です。聖書はそうした人々を「残りの者」(レムナント)と呼んでいます。

 11:1に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。「エッサイ」とは誰でしょうか。エッサイはダビデの父親ですね。「ダビデは知っているが、エッサイのことはえっさい(一切)知らない。」という冗談が出てきそうですが、たしかに、ダビデは有名ですが、エッサイは無名です。「エッサイの根株」というのは、ダビデ王朝が倒されて、残るのはダビデ以前の「エッサイの根株」でしかないということを意味しています。イザヤ10章では北王国イスラエルが、アッシリヤに滅ぼされることが預言されていました。やがて南王国ユダのダビデ王朝もそのように切り倒され、切り株しか残らなくなります。それで、この切り株は「ダビデの切り株」とは呼ばれないで、ダビデの父親「エッサイの切り株」と呼ばれたのです。

 北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤは、おごり高ぶったために、滅ぼされます。「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:32-34)というのは、神がおごり高ぶるアッシリヤを裁かれることを言い表しています。アッシリヤという大木は、根こそぎ切り倒されてもはや再び復興することはありません。イスラエルも、切り倒され、切り株になり、その切り株もやがて朽ちていくのでしょうか。いいえ、たとえ切り倒され切り株のようになっても、そこに命が残っているなら、その切り株から芽が生え出し、それが大きな木に成長していくように、イスラエルも復興すると、ここで約束されているのです。おなじことは、イザヤ7:13にも「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」と預言されています。イスラエルがたとえ切り株のようになっても、その中にたとえ少数でも信仰を保っている人々がいるなら、神はそれらの人々を用いて、イスラエルを復興させてくださるのです。エリヤの時代に人々はまことの神を捨て、バアル礼拝にうつつを抜かしていましたが、その中でも、バアルにひざをかがめない七千人が残されていました(列王上19:18)。イザヤ10:20-22に「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。」とありますが、ここで使われている「残りの者」とは、信仰を保ち続けている少数者という意味です。

 キリストのお生まれになったころ、イスラエルは、ローマ帝国と、エドム人であるヘロデ大王の治めるところとなっており、ダビデの王朝は途絶えて久しく、ダビデの子孫であることが、何の意味もない時代となっていました。当時、神への純粋な信仰を守り通し、キリストを待ち望む人々もごく少数でした。信仰者は「残りの者」となっていたのです。「残りの者」を間違えて「残り物」と言った人がありましたが、確かに、「残りの者」は、神の目には尊い存在であっても、人の目には「残り物」のように、尊ばれてはいませんでした。しかし、神は、ダビデとの約束、イザヤに与えた預言を忘れず、エッサイの切り株から、新しいダビデの若枝を芽生えさせてくださったのです。それがダビデの子孫、イエス・キリストです。キリストは、人々から忘れられていた「残りの者」としてひっそりとお生まれになりました。しかし、キリストは、キリストを信じる者たちを、世界の隅々から集め、終わりの時に救いにあずかる、「残りの者」としてくだるのです。

 現代は、信仰を持っていることが尊ばれるような時代ではありません。人々は信仰を保っている人を、時代に取り「残された者」だと思っていることでしょう。しかし、信仰を保ち、キリストの再臨を待ち望む者は、人の目には知られずとも、エッサイの株から出る芽のように神に覚えられています。それは若枝となって、キリストの国にいたるまで成長するのです。この暗い時代の只中で、信仰を守り通し、キリストがもう一度来てくださる時、救いに入れられる、「残りの者」とさせていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神様、イエス・キリストがおいでくださったクリスマスを祝うたびに、キリストがもう一度来て、この世界を正しく治めてくださることを、思い起こします。一年が過ぎ、新しい年を迎えるたびに、私たちは、キリストがもう一度おいでになる日に、日一日と近づいていきます。聖書の預言がすべて成就する日が、近くなってきます。たとえ、時代が悪くなろうとも、人々の信仰が冷えようとも、私たちを、この世の神にひざをかがめない残りの者とし、預言のことばをしっかりと握り、真理のために良き戦いを戦い抜くものとさせてください。キリストのお名前で祈ります。

12/5/2004