主を知ろう

ホセア6:1-3

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6:1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

 サンタクララ教会では、毎年その年の標語を選んでいます。2004年の標語は新約から選びましたので、2005年は旧約から選ぶことにしました。昨年12月の執事会では、いくつものみことばがあがり、どれも良かったのですが、最終的には「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」に決まりました。このみことばが、今年一年を通して、おひとりびとりを導くものとなるよう、心から願っています。

 このみことばはホセア6:3から取りましたが、ホセア書をはじめて開く人もあるかと思いますので、今年の標語をより良く理解するために、まず、ホセア書の背景からお話したいと思います。

 一、預言者の役割り

 ソロモンの死後、それまでひとつだったイスラエルの国は、サマリヤに首都を置いた北王国イスラエルと、エルサレムを首都とした南王国ユダに分裂しました。紀元前930年のことです。ホセアは、北王国イスラエルの預言者で、ホセア1:1によると、「ヨアシュの子ヤロブアムの時代」の人であることが分かります。「ヨアシュの子ヤロブアム」というのは、歴史家たちがヤロブアム二世と呼んでいる王で、紀元前786年から745年、イスラエルを治めました。ヤロブアム二世の時代、イスラエルは軍事的に強くなり、いままで失っていた領土を取り戻して、その領土を一番ひろげた時代でした。経済的にも栄え、貿易が盛んに行われていました。近年のサマリヤの発掘では、ヤロブアム二世の時代に造られた壮麗な建物の一部や、象牙などの高価な輸入品が数多く見付かっています。イスラエルは繁栄し、人々はその繁栄を楽しんでいました。しかし、その時のイスラエルは、まことの神である主を捨て、偶像の神々、とくにバアルとアシュタロテを礼拝していました。バアルは男性の神で、アシュタロテは女性の神です。バアルによって豊かな作物がもたらされ、アシュタロテによって家畜が多くのこどもを産むと信じられていました。そんなことから、バアルの神殿やアシュタロテの神殿には、神殿男娼や神殿娼婦がいて、不道徳なことが行われていました。ヤロブアム二世によってもたらされた経済的な繁栄によって、そのような不信仰と不道徳の上に、さらに物質主義が入ってきたのです。ホセアの時代には、イスラエルの指導者も民衆もみかけの繁栄に酔いしれ、神の民にとって最も大切な信仰も、それをあかしすべき社会正義も踏みにじられていたのです。そして、軍事力を誇り、経済力をみせびらかしていたイスラエルに、滅亡がひたひたと押し寄せているのに、誰も気づいていませんでした。実際、北王国イスラエルはヤロブアム二世の死後、たったの二十数年で、滅亡してしまったのです。

 預言者は、その時代の人々が見失っているものを指摘し、それに対する神のことばを語ります。ホセアも、イスラエルの国が繁栄の頂点にあった時に、人々の不信仰と不真実を指摘し、やがて来るイスラエルの滅亡について警告を与えました。もし、預言者がその時代に迎合し、指導者や民衆に気に入られることだけを語るとしたら、その人は、ほんとうの預言者とは言えません。預言者は、どんな時も、物事の本質を見、物事の真実を明らかにする、神のことばを語るのです。今日のクリスチャンもまた、この時代の預言者として、物事の本質を追い求め、それを人々に示すのです。

 とは言っても、現代のクリスチャンが、イザヤやエレミヤ、ダニエルやホセアが語ったのと同じ預言を語るというのではありません。新約では、バプテスマのヨハネがキリストの先駆者として、キリストを預言し、使徒ヨハネは、ヨハネの黙示録を書いて世の終わりについて預言をしましたが、旧約の預言者に与えられたのと同じ預言、新約の預言と同等の預言が、今日も与えられるわけではありません。すでに聖書が完結しているからです。聖書が完結した後に、「私に預言が与えられた。」と主張した人々の教えのほとんどは、聖書と矛盾したもので、真理のようでいて、そうではないものばかりでした。世の終わりには多くの偽預言者が出ると言われていますから、自らを預言者と名乗る人々には警戒が必要です。それでは、預言という要素は全くなくなったのかというとそうではありません。コリント第一14:1には「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。ここでの「預言」は、今日の説教や勧め、教え、あかしに相当します。礼拝で語られる説教、サンデースクールでのレッスン、スモールグループでの奨励やあかしなど、さまざまな場面で神のことばが語られることを「預言」、神のことばを語る賜物を「預言の賜物」と考えることができます。聖書が「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)というように、イエス・キリストを信じて、その心に聖霊をいただいた者は、ある意味で皆、この時代に対する預言者であるということができます。クリスチャンは、時代の流れを追いかけるのではなく、この時代に人々が見失っているものを見出し、それを示すものでなければならないのです。それでこそ、クリスチャンは「世の光」となることができるのです。そのようにして、本当の意味で、この時代にあかしし、キリストの福音を伝えていくことができるようになるのです。使徒パウロも、ピリピ2:15-16に「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」と書いています。

 二、預言者の警告

 預言者の役割りは、人々が見失っているものを示すことでしたが、ホセアも、イスラエルが見失っていたものを指摘しました。イスラエルが見失っていたもの、それは、ひととことで言えば、「主を知ること」でした。ホセア6:6に「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とあります。形式だけの礼拝ではなく、まごころの礼拝を、みせかけだけのささげものでなく、「主を知る」ことを、神は、神の民に求めておられるのです。しかし、イスラエルは、神の民であって、他の国の人々のように、主を知らない人々ではなかったはずです。なぜ「主を知ること」がこんなにも強調されなければならなかったのでしょうか。

 ここで使われている「知る」という言葉は、単に知識として、頭で知っているということではなく、主を人格と人格の関係で知っているという意味で使われています。なるほど、イスラエルの人は、こどもの頃から律法を教えられ、主がどのようなお方であるかは、頭では十分に知っていました。しかし、心から主を知ってはいなかったのです。人を知るという場合、経歴などの個人データを手に入れたからといって、ほんとうの意味でその人を知ったということができないように、哲学や神学を究めたから、また、聖書やキリスト教、その歴史などを知っているからといって、神を知った、主を知ったということはできないのです。神は、理論でも、物体でもありません。神は人格です。主を知るというのは、私たちが主を信じ、主に従う時、主が私たちにそのご臨在やみことば、またみわざをお示しになる中で起こることです。「主を知る」というのは、人格と人格との関係で、体験的に知ることを意味しています。士師2:10に「彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」とありますが、ここで「主を知らない」というのは、出エジプトや荒野の旅、また、カナン征服という神のわざを体験していないということ、神を体験的に知っていないということを指しています。サムエル記第一2:12には「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず…」とあります。エリの息子たちは、祭司でありながら、主と主の定めに従おうともしませんでしたから、この場合、「主を知らず」というのは、彼らが、「主を知ろうとしなかった」ということを指しています。エリの息子たちには、主に対する信仰がなく、主との人格的なかかわりがまったくなかったということを意味しているのです。

 ホセア8:2-3に「彼らは、わたしに向かって、『わたしの神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている。』と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。」とあります。イスラエルは「私たちは、主を知っている。」と口では言うのですが、彼らの行いは、その言葉を否定していました。ホセア書8章の残りにありますように、彼らは善を拒み、勝手に王を立て、偶像を作っていたのです。イスラエルが「私たちは主を知っている。」と言うのは、単に頭だけの知識でしかなかったのです。

 新約では、ヤコブが「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」(ヤコブ2:19)と言っています。「神は唯一である。」という教えが、たんに頭だけの知識、口で唱えるだけの教えであるなら、それは、本当の信仰ではない、本当に神を知っていることにはならないのです。知識だけなら、悪霊たちのほうが、神についてもっと良く知っているでしょう。聖書学者たちは、信頼や従順の伴わない信仰や知識を、「悪霊の信仰」あるいは「悪霊の知識」と呼びましたが、私たちも「主を知る」ことにおいて、悪霊以下の者にならないように、身を引き締めたいと思います。「主を知っている。」と言い張るのでなく、むしろ、まだまだ主を知らないことを認め、もっと主を知りたいという願いをもって、主に近づきたいと思います。

 ホセア6:1-3は当時の祈りのことばで、神殿での礼拝の時、祭司たちによって唱えられていたものだと言われています。それは、「さあ、主に立ち返ろう。」という呼びかけで始まり、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」との決意へと進んでいます。主から離れ、主を忘れている神の民の悔い改めと信仰を表わす素晴しい祈りのことばです。しかし、人々は、この祈りのことばを聞き、それを唱えながらも、心は主から離れ、心の中では「私たちは主を知っている。」と言い張っていました。ホセアは、そうした人々に対して、私たちが口にしている祈りのことばのとおりに、主を知ることを追い求めようではないか、主も、また、私たちに「全焼のいけにえより、むしろ神を知ること」を求めておられるのだからと、語ったのです。今年、私たちは、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とのみことばを何回も目にし、耳にし、また、口にすることでしょうが、私たちも、それを単にくり返し唱えるだけに終わらず、これを心からの祈りのことばとしたいものです。

 三、預言者の励まし

 ホセアは「主を知ることを追い求めよう。」と語りましたが、では、どのようにして、私たちは「主を知る」ことができるのでしょうか。ホセアは、ホセア書第2章でそれに答えていますが、ホセア書2章のメッセージを理解するためには、ホセアの妻ゴメルについて触れる必要があります。ホセア書第3章にあるように、ホセアの妻ゴメルは、夫を捨て他の男性に走り身を持ちくずしていました。ホセアは、姦淫の果てに女奴隷となってしまっていたゴメルを買い戻して愛しました。ホセアのしたことは、主のイスラエルに対する愛を表わす象徴的な行為でした。主はイスラエルを、夫が妻を愛するほどの愛で愛してくださったのに、イスラエルは主を捨て、バアルを礼拝したのです。主の愛に裏切りで報いるようなイスラエルは、主から捨てられて当然なのですが、主は、そんなイスラエルに対して、なおも愛を注がれました。先週、エレミヤ3:12に「背信の女イスラエル。帰れ。…わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。…わたしは、いつまでも怒ってはいない。」とあるとお話ししました。ホセア書と同じく、エレミヤ書でも、神に背いたイスラエルが、不倫の罪を犯して夫から離れて行った妻にたとえられていますが、神はそのようなイスラエルにも、「わたしのところに帰ってきなさい。」と呼びかけ続けてくださったのです。

 ホセア書2:14-20に、そのような主の愛が、次のように綴られています。「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。その日、―主の御告げ。―あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」主は、背信の女となり果てたイスラエルにさえ、なお、愛を注ぎ、彼らを純真な花嫁とし、神の民として、回復させてくださるというのです。ホセアがゴメルを買い戻し愛したのは、イスラエルに対するこの神の愛を人々に知らせる預言的な行為だったのです。

 私は、最初「預言者は、その時代の人々が見失っているものを指摘し、語る。」と言いました。その通り、ホセアは目に見える繁栄にうつつをぬかしていたイスラエルに、「あなたがたは主を忘れている。主を知れ。」と叫びましたが、同時に、滅亡へ、苦難の道へと進んでいくイスラエルに、「主はあなたがたを忘れてはいない。あなたがたは主を知るようになる。」と約束しているのです。預言者は、常に、人々が見落としているものを伝えます。人々がこの世の春を楽しんでいる時にやがて来る神の裁きを告げ、絶望にうち沈んでいる時には、希望と回復を告げるのです。2:15の「アコルの谷」というのは「悩みの谷」という意味です。主は「わたしは…アコルの谷を望みの門としよう。」と言われました。主は、悩みの谷を「望みの門」にしてくださるお方です。2:19-20に「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」とあるように、この神の救いを受け入れ、神の愛に答える時、イスラエルは、再び「主を知る」ものとなるのです。エレミヤ31:33-34にも「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ。―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」とあります。この新しい契約、愛の契約は、主イエス・キリストによって成就しています。私たちがイエス・キリストを私たちの心と生活に迎え入れる時、神は私たちを神との愛の関係の中に入れてくださるのです。そして、この愛の関係の中に生きる者に、主は、その関係の中でご自身を知らせてくださるのです。

 新しい年の始め、目に見えるものにとらわれ、それを追い求めるのではなく、なによりも、神との愛の関係を深め、主を知ることを追い求めようではありませんか。

 (祈り)

 私たちを永遠の愛で愛してくださる主なる神さま、あなたの深く真実な愛を感謝いたします。あなたは、あなたに背いている者にさえ、その愛を示し、その愛によってあなたを知ることができるようにしてくださいました。聖書に「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす。」(イザヤ11:9)とあるように、今は、どこの国の誰であっても、主イエス・キリストによって、あなたを知る者となることができるようになりました。どうか、私たちが思いあがって「主とは誰か。」と言うことがないように、主を忘れ、ないがしろにすることがないようにお守りください。また、主を知ろうとしない怠慢からも救い出し、「主を知ること」を追い求めさせてください。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とのみことばを、私たちのこころからの祈りとさせてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/2/2005