神のあわれみ

ホセア11:8-9

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11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
11:9 わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。

 聖書では神の愛は、さまざまな言葉で表現されています。「あわれみ」、「いつくしみ」、「誠実」、「信実」、「恵み」、「忍耐」、また「寛容」などという言葉です。太陽の光がプリズムを通ると赤から紫へと七色に分かれて見えるように、神の愛も、神の「あわれみ」、「いつくしみ」、「誠実」、「信実」、「恵み」、「忍耐」、また「寛容」など、さまざまな形で表われ、私たちに示されているのです。神の愛を表わすこうした言葉のひとつひとつを学び、思い巡らすことによって、私たちは神の愛により近づくことができます。今朝は、神の愛を表わすことばのうち、「あわれみ」について考えてみましょう。それによって、神のあわれみの心に触れたいと思います。

 一、善意の愛

 「あわれみ」と訳される旧約聖書のことばには、おもなものに「ヘーン」、「ヘセド」、「ラハム」というものがあり、それぞれニュアンスが違っています。

 「ヘーン」は神のいつくしみ、善意を意味します。詩篇119:68に新共同訳で「あなたは善なる方、すべてを善とする方」とあるように、神は善なるお方、善意に満ちたお方です。英語で "God is good." と言いますが、まさにその通り、神は「グッド」なお方なのです。神はこの世界を造られたとき、ご自分の造られたものを見て「良し」("It is good.")と言われたように、神のいつくしみ、善意は世界に注がれています。

 けれども、私たちの人生は、かならずしも「善」ばかりで満たされるとは限りません。思わぬ災難がやってくることがありますし、様々なトラブルに見舞われることもあります。この世の悪や人のこころの奥にひそむ悪意に悩まされることもあるでしょう。そういうことが数多くあり、長く続くと、神が善であることを、頭では分かっていても、心で受けとめることができなくなってしまうことがあります。そんなときには、日常から離れて自然の中に入っていくと良いでしょう。神の造られた自然は、人間が作ったどんなものよりも美しく、神の善を表わし、人を生かすのです。ストレスがいっぱいの人間関係から離れ、ひとりで神とまじわるとき、私たちは新しい力を得ることができます。豊かな自然の中で、神を求めるひとびとと、ともに神のことばを学び、祈るまじわりに参加できたら、もっと良いでしょう。

 そうした機会が得られなくても、聖書のことばに心を留めるとき、神は「善」であり、「いつくしみ深い」お方であることを感じ取ることができます。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」というみことばを味わってみると良いのです。全能の神が、同時にいつくしみ豊かなお方であり、すべての事を、神を愛する者のために善にしてくださるのです。今のこの苦しみも、行き詰まりも、自分がしてしまった失敗でさえも、すべてを益にしてくださるというのです。このことを信じるなら、私たちは「こんなことが益になるはずがない」と思えるようなことでも、神がそうしてくださると信じて、それに取り組むことができるようになるのです。ローマ8:28は原文では「私たちは知っています」ということばで始まっています。しかも、この「知る」というところには、知識として知るというのではなく、体験として知るという言葉が使われています。「神は善である」という知識が体験となるまで信じて祈り続けましょう。多くの人がすでにそのような体験を積み重ねていると思いますが、そのようにして生きる日の限り、神のいつくしみと善意が私たちに伴って来ることを信じ続けていきたいと思います。

 二、契約の愛

 「あわれみ」と訳される次の言葉、「ヘセド」は神の約束、契約に関係のある言葉です。神がアブラハムやイスラエル、またダビデとの間に立てた契約のゆえに神の民に良くしてくださることを意味しています。この言葉はご自分の約束を守り通される神の真実で誠実な愛を言い表わしています。

 神がこの世界と人間を造られました。ですから、この世界を造り、聖書を通して人類に語りかけておられる神がすべての人の神です。しかし、人類は自分たちの創造者である神を捨て、自分で作り出した神々を礼拝するようになりました。そこで神は、まことの神を礼拝する神の民を人類の中から選び出されました。それが、アブラハムを先祖とするイスラエルの人々でした。神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの人々を救い出し、彼らとの間に契約を立て、彼らを神の民としました。イスラエルは神との契約によって神の民となったのです。

 神と人との契約というのは、聖書を通してのテーマです。聖書は「旧約」と「新約」に分かれていますが、「旧約」の「約」も、新約の「約」も、ともに「契約」という意味です。聖書は神と人との契約書なのです。しかし、神が人と契約を結ぶというのは、決して当たり前のことではありません。契約はそれにかかわる双方を縛りつけます。何にも縛られない、主権者である神が、みずから進んで人間との契約に縛られるというのは、特別なことなのです。また、契約は、双方に義務を与えるとともに権利をも与えます。神と人との契約では、人は神のことばを守る義務を持ちますが、同時に、人はこの契約に基づいて神に祝福を請求する権利を持つようになるのです。人間は神のしもべなのですから、神は人間にそのような権利を与える必要はなく、命令を与えるだけで良かったのです。しかし、神は人間を愛するゆえに、ご自分を低くし、人間を高め、人間との間に対等の契約を結ばれたのです。「神が人と契約を結ばれた」―ここに神の愛、あわれみが示されています。ですから聖書は神の愛を「契約の愛」として描いています。神のあわれみは、ご自分の約束を忠実に、誠実に守り通される神の愛から出たものなのです。

 神のあわれみを求めたひとびとは皆、神の契約に基づいてそれを願い求めました。モーセがイスラエルのためにとりなしたのも、神とイスラエルとの契約に基づいてでした。旧約クラスで学んでいるように、神が南王国ユダを守られたのは神とダビデとの契約のゆえでした。歴代誌第二21:7に「主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである」とあります。このダビデへの約束はイエスによって成就しました。それで、エリコの町の盲人は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んだのです。この盲人もまた神の契約に基づき、その契約の愛、神のあわれみを求めたのです。

 旧約の時代には神と人との契約はイスラエルの人々に限定されていました。しかし、新約の時代には、イエス・キリストを信じるすべての人に広げられています。キリストは、最後の晩餐で弟子たちにぶどう酒を与え「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました。イエス・キリストは十字架の上で流された血によって、神と私たちとの契約を結んでくださったのです。旧約で示されていた神の「契約の愛」は、新約では「十字架の愛」として示されているのです。ですから、私たちも、キリストによる契約に基づいて、神の約束のことばに頼って神に願い求めることができるのです。「神さま、あなたはこのように約束しておられるではありませんか」と言って、神に訴えることが許されているのです。それはまるで神を脅迫するかのように聞こえるかもしれませんが、神ご自身がそうすることを許し、喜んでくださるのです。父なる神は、遠慮してよそよそしくするような子どもではなく、神のあわれみを信じて熱心に願い求める子どもを喜んでくださるのです。

 三、同情の愛

 最後に、「あわれみ」を表わす言葉「ラハム」、複数形で「ラハミーム」ということばを見ておきましょう。これは、「ヘーン」や「ヘセド」よりももっと感情的なものを示しています。そうです。神は理性や意志ばかりでなく、感情をお持ちの、人間よりももっと豊かな感情を持っておられる方です。だからこそ神は私たちの思いを読み取られるだけでなく、私たちの感情を受けとめ、理解してくださることができるのです。今日の箇所の8節の最後に「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」とあるのは、そのような神の豊かな感情を表わしています。「心が沸き返っている。胸が熱くなっている」と言うほどに、神が私たちのことを思っていてくださっているというのは、なんと感動的なことでしょうか。こんなことばを読むと私たちの心も沸き返り、胸が熱くなります。

 契約は双方がそれを守る義務があります。一方がそれを破れば、それは無効になります。それは神と人との契約でも同じです。イスラエルは何度神との契約を破ってきたことでしょうか。神は契約を破ったイスラエルを捨ててしまうこともできたのです。しかし神は、イスラエルが何度も契約を破っても、ご自分の側からは契約を破棄されないで、それを守り続けました。契約を破り、それを踏みにじる神の民に対して、「帰ってきなさい。もういちど契約を新しくしよう」と呼びかけてこられました。

 ホセア書の11章にはそのような神のあわれみが次のように描かれています。1節から7節までを読んでみましょう。

11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
11:2 それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
11:3 それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。
11:4 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。
11:5 彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。
11:6 剣は、その町々で荒れ狂い、そのかんぬきを絶ち滅ぼし、彼らのはかりごとを食い尽くす。
11:7 わたしの民はわたしに対する背信からどうしても離れない。人々が上にいます方に彼を招いても、彼は、共にあがめようとはしない。

 イスラエルはその罪のためにアッシリアに滅ぼされ、大きな苦しみの中に投げ込まれようとしています。イスラエルの苦しみは、神に背を向け、神をないがしろにした結果であり、いわば自業自得です。それなのに、神は、惨めな状態の中にあるイスラエルに同情を寄せ、かわいそうに思ってくださったのです。「あわれみ」とは、悲惨な状態の者に対する同情の愛のことです。神はそのあわれみをもって言われます。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。」アデマ、ツェボイムというのはソドムやゴモラと一緒に滅ぼされた町のことです(申命記29:23)。神はエフライム、つまり、イスラエルを滅びから救い出そうと最後の努力をしておられます。これが、神のあわれみです。

 現代は、旧約時代にイスラエルが神に背いた以上に、ひとびとが神に背を向け、離れている時代です。人間は科学の力で自分が神になれると信じ、自分の知恵を誇って、聖書を権威ある神のことばとして信じなくなりました。聖書は自分たちの生活に役立つ金言成句のたぐいであって、聖書を利用することはあっても、それに聴き従うことをしなくなりました。世界の人々は欲しいままにふるまうようになり、社会は乱れ、人々の苦しみは増すばかりとなりました。人類は神をないがしろにすることにより、自らを苦しめるものになったのです。しかし、神は、そんな私たちをあわれんでいてくださるのです。世の終わりには最後の裁きがあり、すべてに決着がつけられます。しかし、そのときまで、神は私たちが神に立ち返るのを待っていてくださいます。神のあわれみは絶えることはありません。最後の最後まで神はそのあわれみを取り下げはなさいません。今この世界を救うのは神のあわれみ以外にありません。私たちにできることも、ただひとつ、この神のあわれみを求め、それにすがることです。

 あわれみを求めるには謙虚な心が必要です。私たちは「なんて自分は不幸なんだろう」と自己憐憫の思いを持ち、人から同情されることを願ったりします。だったら、「神さま、こんな罪びとの私をあわれんでください」と謙虚に祈ることができるかというと、そうではなく、どこかで自分の弱さを認めることを拒み、自分の力に頼ろうとしています。しかし、神のあわれみを思うとき、私たちのそうしたプライドは消えてなくなります。神はきょうも「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言っておられます。この神の熱い思いに触れるとき、私たちは謙虚で正直になることができます。「主よ、あわれんでください」が私たちの祈りとなるのです。そして、神のあわれみによって救われ、神のあわれみをほめたたえて生きる幸いを得るのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、そのあわれみによって私たちの善を求め、神の民とされた者に誠実を尽くし続け、惨めさの中にある者たちをかえりみていてくださいます。あなたから離れ、あなたとの契約を破り、惨めな者となっていた私たちを、あなたはイエス・キリストにある大きなあわれみによって救ってくださいました。ですから、私たちが自分の惨めさに気づくとき、謙虚にあなたのあわれみを求めることができるようにしてください。あなたのあわれみの中に留まり、救いに至る者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/1/2010