永遠の大祭司

ヘブル7:22-25

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7:22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
7:23 また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 主イエスは復活して40日の後、天に帰られました。イースターから40日目の木曜日は「キリストの昇天日」と呼ばれ、ドイツやオランダなどでは「国民の祝日」となっています。アメリカでは、ペンテコステの前の日曜日を「キリストの昇天主日」としています。

 イエスを天に見送った弟子たちは、ペンテコステまでの九日間、エルサレムに集まって祈りに専念しました。これにならい、多くのクリスチャンは、昇天日からペンテコステまでの九日間、とくに聖霊を覚え祈りを捧げます。この「九日の祈り」は金曜日から始まっていますが、まだ七日残っていますので、聖書が聖霊について教えている箇所を読みながら、聖霊とそのお働きを覚えて祈ってみてください。聖霊がどのように世界の創造にかかわっておられたか、旧約の時代の指導者たちにどんな力を与えたか、また、預言者たちにどのようにして神のことばを語らせたかを考えて見てください。新約聖書からは、聖霊がイエスのご生涯をどのように導かれたか、聖霊がどのように教会を生み出し、教会を導いてくださったかを学ぶことができます。また、聖霊によって生まれ変わるとはどういうことなのか、聖霊に満たされるとは何を意味しているのか、聖霊によって祈るとはどういうことか、どうしたら聖霊と真理によって礼拝をささげることができるのか、自分にどんな聖霊の賜物が与えられているのか、それをどう使ったらよいのか、どうしたら自分の人生のうちに聖霊の実を結ぶことができるのか、聖霊の導きを知るにはどうしたら良いのかなど、私たちの生活に直接関連した多くの主題があります。ペンテコステを待ち望む、この一週間が、そうしたことを改めて教えられ、恵まれたときとなりますように。

 一、「さらにすぐれた」お方

 ところで、天にお帰りになったあと、イエスは何をしておられるのでしょうか。イエス・キリストは父なる神の右の座に着き、そこで私たちのための大祭司となってとりなしてくださっています。ヘブル人への手紙では、昇天されたイエス・キリストを大祭司として描き、この手紙を読む者に「私たちの…大祭司であるイエスのことを考えなさい」(3:1)と勧めています。

 「ヘブル人への手紙」は、その名が示すように、「ヘブル人」、つまり、ユダヤの人々に宛てて書かれました。ユダヤの人々は神殿とそこで働く祭司、また、そこで行われる儀式に親しんできましたから、イエスについて教えるのに、神殿や祭司、また、そこで捧げられる犠牲を引き合いに出して説明するのは、とても説得力がありました。けれども、そういったものに親しんでいない、現代の私たちには、そうしたことは、なかなかわかりづらいことなので、ヘブル人への手紙が敬遠される理由のひとつになっているかと思います。それで、水曜日のバイブルクラスでは、9月から12月まで、ヘブル人への手紙をとりあげることにしています。くわしくはそのときに学びますが、じつは、ヘブル人への手紙には、それを理解するのに大切なキーワードがあります。それは「さらにすぐれた」(superior to/better)ということばです。

 このことばが最初に出てくるのは、1:4で、そこには「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました」とあります。これは、イエスを天使のひとりと考える間違った考えを正すために書かれたことばです。天使は霊的な存在で、人間にまさる力を持っていますが、神に造られたものにすぎません。被造物です。しかし、イエス・キリストは、すべてのものをお造りになったお方であり、すべて造られたものの上におられる主です。

 次に、3:3には「イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました」とあります。モーセがイスラエルをエジプトから救ったように、イエス・キリストもすべての人を罪と死の奴隷から救われます。しかし、イエス・キリストによる救いは、モーセによる救いにはるかにまさっています。モーセはイスラエルだけを救いましたが、イエス・キリストは全世界のすべての人を救います。モーセはイスラエルのために過越の子羊の犠牲を定めましたが、ほんとうの神の小羊はイエス・キリストです。イエス・キリストはその十字架の犠牲によって人々を救われるのです。

 イエス・キリストはあらゆる点でモーセにまさるお方で、イエス・キリストの救いはモーセがイスラエルに与えた救いにまさるものです。ヘブル人への手紙はそのことを「さらにすぐれた希望」(7:19)、「さらにすぐれた契約」(7:22)、「さらにすぐれた約束」(8:6)、「さらにすぐれたいけにえ」(9:23)などということばで言い表しています。

 モーセによって救われたイスラエルの人々は、その後、祭司を通して神とのまじわりを保ちました。祭司は、神に対しては人々を代表し、人々に対しては神の代理となるという二重の働きをします。祭司は、神によって聖別され、神の代理人として神のみこころを人々に教えました。しかし、人間には制限がありますから、どの人も完全には神を表わすことができません。しかし、イエス・キリストは神の御子ですから、人々に完全に神を表わすことができたのです。

 祭司はまた、神に対して人々を代表しました。人々に代わって犠牲をささげ、神にとりなしをしました。けれども、人間の祭司は人々に代わって、人々を罪から贖う力を持っていません。祭司といえどもやはり罪びとであり、人々のために犠牲を捧げる前に、まず自分自身のために犠牲をささげて罪の赦しを請い、そこから贖われ、きよめられなければなりませんでした。しかし、イエス・キリストは、ただひとり罪のないお方、ご自分のために犠牲をささげる必要のない、聖なるお方です。ですから、イエス・キリストがご自分を神の小羊としてささげられた、あの十字架の犠牲は、すべての人を贖い、赦し、救うのに、十分な力があるのです。

 イエス・キリストは「さらにすぐれた」お方、地上の祭司に勝る天の大祭司です。ヘブル人への手紙が「大祭司であるイエスのことを考えなさい」と教えるように、私たちは、イエス・キリストが、あらゆるものにまさるお方であることを深く思い見たいものです。

 二、「さらにすぐれたお方」と私たち

 では、イエス・キリストを「さらにすぐれたお方」として覚えることは、私たちにどんな力となるのでしょうか。

 第一に、それは、私たちの礼拝の力、賛美の力となります。

 初代教会は、イエス・キリストを「さらにすぐれたお方」として信じ、あがめ、従いました。初代教会に礼拝で用いられ、今も、世界中で歌わている賛美歌に「栄光の賛歌」があります。リビングプレイズ160番は、その初めの部分

天のいと高きところには神に栄光、
地には善意の人に平和あれ。
だけを歌っています。リビングプレイズには続きがないのが残念です。「栄光の賛歌」の続きはこうです。
われら主をほめ、
主をたたえ、
主を拝み、
主をあがめ、
主の大いなる栄光のゆえに
感謝をささげまつる。
神なる主、天の王、
全能の父なる神よ。
そして、イエス・キリストがさらにすぐれた犠牲、神の小羊であり、大祭司であることを歌います。
主なる御(おん)ひとり子、イエス・キリストよ。
神なる主、神の小羊、父のみ子よ。
世の罪を除きたもう主よ、
われらをあわれみたまえ。
世の罪を除きたもう主よ、
われらの願いを聞き入れたまえ。
父の右に座したもう主よ、
われらをあわれみたまえ。
最後の部分では、
主のみ聖なり、
主のみ王なり、
主のみいと高し、イエス・キリストよ。
聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アーメン。
と歌います。ローマの神々があがめられ、ローマ皇帝が神として礼拝され、クリスチャンにもローマの神々への忠誠や皇帝崇拝が強要されていた時代に、イエス・キリストこそ神聖なお方、イエス・キリストこそ王、イエス・キリストはあらゆるものにまさるお方、どんなものよりも優れた、最高のお方であると、信仰者たちは告白し、賛美したのです。

 礼拝(worship)ということばは、「値打ちがある、〜にふさわしい」などといった意味を持つ worth や worthy ということばから来ていると言われます。礼拝とは、神とイエス・キリストをそれにふさわしい仕方であがめるということです。イエス・キリストの素晴らしさが分かれば分かるほど、そして、それが礼拝に集う人々の共通の、一致した理解になればなるほど、その礼拝や賛美は神にふさわしい礼拝となり、イエス・キリストへの力強い賛美になるのです。

 第二に、イエス・キリストを「さらにすぐれたお方」として知ることは、伝道の力になります。

 皆さんは、イエス・キリストのことを他の人に話したとき、「イエス・キリストの十字架は、今から二千年前のことでしょう? どうして、それが私と関係があるんですか? そんな昔の人がどうやって私を救ってくれるんですか?」と言われたことがあるでしょう。皆さんはそれにどう答えますか。きょうの箇所は、そうした疑問、質問、反論に対するバワフルな回答です。23〜24節にこうあります。

また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
人間の祭司は、死によってその職務が終わります。しかし、イエス・キリストはいつまでも生きていて、大祭司の務めを変わりなく行なうことができます。イエス・キリストは、人々の罪のために死なれましたが、復活し、今も生きておられます。イエス・キリストは、十字架から二千年あとに生きている私たちをも救うことができるのです。25節に
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
とある通りです。

 私たちが人々にイエス・キリストのことを語るのは、イエス・キリストが二千年前にとても良い教えを遺していかれたから、それを勉強して生活に役立てましょうと言うためではありません。イエス・キリストは二千年前のお方ではない、イエス・キリストはいつも、今も、生きておられるお方で、どんな神々、救い主と呼ばれるものよりも「さらにすぐれたお方」、今も、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできに」なるお方であることを、告げ知らせることなのです。

 第三に、イエス・キリストを「さらにすぐれたお方」として覚えることは、困難なときに私たちを支える力となります。ヘブル人への手紙は、様々な信仰の試みを受けていた人々のために書かれ、「さらにぐれたお方」が、「さらにすぐれたもの」をもって報いてくださると言っています。イエス・キリストを「さらにすぐれたお方」、「いと高きお方」として信じ、愛し、従う者には「さらにすぐれた故郷」(11:16)、「さらにすぐれたよみがえり」(11:35)などといった「さらにすぐれたもの」(11:40)が用意されているのです。

 ステパノは、信仰と聖霊、恵みと力とに満ちた人でした。数々の奇蹟を行い、知恵と御霊によって、神のことばを語りました。しかし、そのことのゆえに、かえって人々の敵意の的になりました。しかし、彼はその敵意のまっただ中で叫びました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:56)「人の子」とはキリストを表わすことばです。「見なさい」と言っても、人々には天も、キリストも見えなかったでしょう。しかし、ステパノにはそれが見えました。イエス・キリストが父なる神の右の座から立ち上がっておられるのは、イエス・キリストが殉教していくステパノの霊を受けようとしておられたからでしょう。

 私たちにはステパノのように迫害を受けたり、殉教したりというようなことはないかもしれませんが、それでも、健康を損なったうえに経済的な困難があり、家庭的な問題があるうえに人間関係のトラブルに巻き込まれるなど、八方ふさがりのような状況に陥ることがあるかもしれません。そんな外部からの圧迫がなかったとしても、自分の願望にとらわれたり、思い煩いに疲れ果てたり、自分の罪を正直に認められなかったり、神への熱心や信頼をなくしてしまうという、自分の内側から来るさまざまな苦しみに出遭うこともあるでしょう。しかし、どんなときでも、そんな私たちのために、イエス・キリストは天におられます。四方八方がふさがっていても、いつも、天は空いています。そこにおられるイエス・キリストが私たちを「完全に救う」ことができます。困難なときこそ、恵みの御座におられる大祭司イエス・キリストに近づきたいと思います。平穏なときには、そのことを感謝して、いよいよ「神に栄光、キリストに賛美」をお返ししていきたいと思います。そして、大祭司であるイエス・キリストを見上げる生活が、私たちの人生をどんなに豊かにするかを証ししていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはイエス・キリストを高く上げ、ご自分の右の座に座らせ、すべての名にまさる名をお与えくださいました。それは、世界中のすべてのものがひざをかがめ、「イエス・キリストは主である」と告白するためです。あなたは、世界のすべてのものにさきがけて、私たちを、「イエス・キリストは主である」と告白するものとしてくださいました。私たちがその告白にふさわしく、どんなときも、イエス・キリストを「よりすぐれたお方」、第一のお方として信頼して生きることができますように。そして、私たちのまわりの人々に確信をもってイエス・キリストを伝え、証しすることができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/20/2012