イエスの生涯と苦しみ

ヘブル5:7-10

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5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
5:10 メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

 一、イエスの生涯

 使徒信条は、イエス・キリストについて、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と言ったあと、すぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と続けています。イエスの誕生から死へと飛んでいるのです。イエスの幼年期のこと、バプテスマを受けて公生涯に立ったこと、神の国の福音を説いて、町々、村々を巡り歩いたこと、様々な病気をいやし、悪霊を追い出したことなどは、聖書に詳しく書かれているのに、それが省かれているように見えます。なぜでしょうか。十字架と復活さえあれば、イエスの生涯やそのわざは、私たちの救いにとって、大切ではないというのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。

 イエスの生涯を知ることは、とても大切なことです。イエスの罪のない、きよく、愛に満ちた生涯は、このお方こそ神の御子であることを証明するものだからです。多くの人は、イエスを「神の独り子」また「我らの主」と信じる以前に、その生涯に感銘を受けます。まずは、人としてのイエスに心を惹かれるのです。私も、自分で聖書を買い求めて読んだとき、イエスが病気の人に手を触れたり、抱き寄せたりしていやしたこと、また、弱い人々の味方となって、当時、権力をふるっていた人々に立ち向かったことに感動しました。それは、私にとって信仰の第一歩となりましたが、皆さんも同じだろうと思います。

 また、イエスの力ある奇蹟のわざも、イエスがまことの救い主であることの証明です。旧約聖書に、救い主が来るとき、「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:5-6)と預言されています。イエスは、この預言の通りの奇蹟を行いました。バプテスマのヨハネが、牢獄から自分の弟子たちに託して、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と質問したとき、イエスはこう答えました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」(マタイ11:2-5)イエスは、ご自分が行っている奇蹟が、ご自分が救い主であることを証明していると答えたのです。そして、イエスが行ったこれらの奇蹟を見た人々は「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」(ヨハネ7:31)と言って、イエスを信じたのです。

 「奇蹟があったなどと書いてあるから、聖書は信じられないのだ」と言われることがよくあります。しかし、イエスはこう言いました。「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」(ヨハネ14:11)もし、イエスが何の奇蹟もできなかったら、イエスは人を救うことはできなかったでしょう。イエスが奇蹟を行うことができたからこそ、イエスが人類の救いという最大の奇蹟を行うお方であることを信じることができたのです。

 イエスの生涯とそのわざは、最初は口頭で伝えられました。イエスと生活を共にし、その教えを直接聞き、そのわざを目撃した人たちがそれを語り伝えたのです。この人たちは「福音の語り部」という意味で、「ユアンゲリステース」と呼ばれました。この言葉は、エペソ4:11で「伝道者」と訳されていますが、今日の「伝道者」とは意味合いが違います。イエス・キリストの福音は、たちまち広い地域に広まりましたので、ユダヤにいる福音の語り部だけでは足りなくなりました。それに、年老いた語り部たちが世を去っていく時代がやって来ました。そのため、どうしても書かれたものが必要となり、それで福音書が生まれたのです。

 しかし、四つの福音書はイエスの行ったことをすべて書き残したわけではありません。ヨハネ21:25に「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う」とある通りです。四つの福音書でさえ、イエスの生涯とそのわざについてすべてを含めることができなかったとしたら、一冊の書物どころか、一ページにもならない短い使徒信条にイエスの生涯とそのわざについて含めることはできません。使徒信条がイエスの生涯について直接触れていないのはそのためです。

 もうひとつの理由は、使徒信条が、イエスの生涯とそのわざを、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という部分に、すでに含めているからです。ヨハネ20:31にこうあります。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」イエスの生涯やそのわざは、私たちを「イエスは神の子キリスト」と信じる信仰へと導くものです。使徒信条は、イエスの生涯やそのわざについて直接触れていませんが、「イエスは神の子キリストである」ことを告白しています。つまり、使徒信条は、イエスの生涯とそのわざを知ることによってもたらされる信仰を告白することによって、イエスの生涯とそのわざを物語っているのです。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と言う時、私たちは、イエスの生涯とそのわざを含めて、キリストへの信仰を告白しているのです。

 二、イエスの苦しみ

 使徒信条がイエスの生涯に直接触れていない第三の理由は、イエスの生涯が十字架を目指しているものであって、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり…」という部分にイエスの生涯が要約されているからです。「処女マリヤより生れ」と「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」との間にはイエスの三十年の生涯と三年の公生涯があるのに、使徒信条は「生まれ」の次にすぐ「死に」と続け、「イエスは死ぬために生まれた」と言っています。イエスの生涯の全体を死の陰が覆っていたと言っているのです。

 マリアとヨセフは生後四十日目のイエスを神にささげるため、神殿に連れてきました。そのとき、シメオンが母マリアにこう言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)なんと不吉な言葉でしょう。子どもの誕生を喜び祝福する日に、その子の死が予告されているのです。

 マタイ2:13以降には、ヘロデ王がイエスを亡き者にしようとして、ベツレヘムに軍隊を送ったことが書かれています。イエスは御使いのお告げによって間一髪のところで助かっていますが、幼くして、実際に死の危険をくぐっているのです。

 ルカ2:41以降には、イエスが十二歳のときのことが書かれています。エルサレムからの帰り道でマリアとヨセフはイエスを見失ってしまいました。それで二人はエルサレムまで引き返し、三日後に神殿で学者たちと議論しているイエスを見つけました。マリアは、「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです」とわが子イエスをたしなめました。すると、イエスは「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」と答えました。そのときのマリアには、この言葉の意味が分からなかったと聖書は告げていますが、マリアは後になって、この言葉はイエスが神の御子であることの自覚を口にしたものだったことが分かったことでしょう。

 母マリアはイエスを一時的にせよ「失い」ました。古代のキリスト者は、これを、イエスが世を去って人々の目から隠され、三日目に再び人々に現われたこと、つまり、十字架と復活を予告するものであったと考えました。そう考えると、イエスの生涯には、生まれたときも、少年時代も、十字架の影があったことが分かります。私たちは、イエスの苦しみを十字架での苦しみだけに限定してしまいがちですが、じつは、イエスの生涯のすべてに十字架につながる苦しみがあったのです。

 きょうの聖書箇所、ヘブル5:7には「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ…」とあります。神の御子が人となるということは、いのちの主であり、不死であるお方が、死すべき者となるということです。そんな意味では、イエスの苦しみは受胎の瞬間からすでにはじまっていたのです。

 イエスは、人類の罪を背負って死ぬという、御父のみこころに従順でした。私たちを愛して進んでその命をささげてくださいました。しかし、「死」に屈服したのではありません。「死」と闘い、それに打ち勝ったのです。そしてイエスは敬虔さと従順によって、その勝利を勝ち取ったと、聖書は言っています。イエスは人々の祈りを聞きあげてくださる神であるのに、地上では、御父に祈る、ひとりの信仰者となりました。「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」というのは、ゲツセマネの園の祈りや十字架の上での祈りのことだけではないと思います。イエスは、毎日、弟子たちからも離れひとりで祈っていました。その隠れた祈りのひとつひとつが、叫びと涙の伴った、死との闘いの祈りだったのでしょう。

 続くヘブル5:8-10は、こう言っています。「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」完全な神の御子には何かを学ぶ必要も、完全にされる必要もないはずです。そうであるのに、御子は人となって、私たちがたどる成長の過程を、あえて、たどってくださったのです。それは、私たちが味わうであろう人生の苦しみのすべてを味わうためでした。私たちとともに苦しみ、私たちに救いを与えるためでした。

 どの人の人生にも、生きるための戦いがあり、悩みや苦しみがあります。誰もが痛みや重荷をかかえています。人は生きる日の間、どれだけ、労苦の汗と悲しみや痛みの涙を流すことでしょうか。「もう耐えられない」と感じることを何度も体験するかもしれません。そんなとき、神の御子が、私たちの人生の苦しみを共に苦しんでくださるというのはなんという慰めでしょうか。イエスは私たちが人生の苦しみに直面して挫けそうになるとき、それを傍観して、叱咤激励するだけのお方ではありません。嘆きと涙を体験されたお方が、その苦しみを共に苦しんで、支えてくださるのです。イエスは私たちと同じ、いや、それ以上の苦しみを耐え、それに打ち勝たれたお方です。このイエスによって私たちもまた、人生の戦いを戦い抜くことができるようになるのです。

 「イエスは神であるのに」という聖歌は、イエスの生涯をこんなふうに歌っています。

イエスは神であるのに 人の子として生まれ
若き日をば大工で 過ごしました
このけだかい救い主が 今も生きてわれらを救うのです

イエスのなめた人生 人が思う以上の
貧と汗と涙の つづきでした
このけだかい救い主が 今も生きてわれらを救うのです

 使徒信条の「処女マリヤより生れ」と「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」の間にあるイエスの生涯、イエスはそこですでに十字架の苦しみをなめていたのです。使徒信条を唱えるたびに、イエスの生涯における苦しみもまた、私のためであり、私を生かすものであることを覚え、イエス・キリストへの信仰を言い表したいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが、御子イエスに、人生の苦しみのすべてを体験させ、私たちの救い主としてくださったことを感謝します。私たちが苦しみに出会うとき、イエスが通られた人生と苦しみを思わせてください。そして、イエスの人生のすべて、その苦しみのすべてが私たちの救いのためであることを確信させ、いよいよ主イエスに頼る者としてください。キリストのお名前で祈ります。

3/10/2019