恵みの御座

ヘブル4:14-16

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4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

 主イエスは復活ののち、四十日にわたって、弟子たちに現われ、ご自分の生きておられることを示されてから、天に昇っていかれました。その日を「主の昇天日」と言います。「昇天日」は、オランダ、オーストリア、スイス、ドイツ、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、フランス、ベルギー、モナコなど、ヨーロッパ各国では国民の休日ですが、アメリカでは木曜日の「昇天日」ではなく、「昇天日」の次の日曜日を「キリスト昇天主日」として記念します。「昇天日」は忘れられがちですが、主イエスが天に昇っていかれたことには、毎年それを記念するのにふさわしい大切な意味があります。今年は、天にお帰りになった主イエスが、そこで何をしておられるのかを、ご一緒に学び、考えてみましょう。

 一、権威の御座

 聖書は、まず、イエス・キリストは父なる神の右の座に着いておられると告げています。「右の座」というのは、それよりも高い位がない、「最高の位」を意味します。イエス・キリストは最も高い王座に着き、あらゆるものを支配しておられます。

 主イエスは天に帰られる前に、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19-20)と命じられました。しかし、弟子たちはどうやって、この命令を実行できるというのでしょうか。弟子たちは、自分たちの師であり主であるお方を亡き者にした人々に取り囲まれているのです。伝道をはじめたとたんに反対に遭い、迫害を受けるのは目に見えています。しかし、そんな中で、弟子たちが、どんな反対や迫害にも屈しないでイエス・キリストを宣べ伝えたのはなぜでしょう。それは、主イエスが「あなたがたは行って…」と命じられる前に、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)と言われたからでした。実際、主イエスは天で、あらゆる権威の上にある「神の右の座」に着き、そこから、すべてのもを治めておられます。

 わたしたちは外国を旅行するとき、パスポートを持っていきます。アメリカのパスポートには、「アメリカ合衆国国務長官は、ここに氏名が記されているわが国の市民、また国籍保持者を、速やかに支障なく旅行させ、必要な保護扶助を与えるよう要請する」と書かれています。どこの国のパスポートにもほぼ同じことが書かれています。わたしたちが外国を安心して旅行できるのは、何かがあったとき、自分の国の政府が対処してくれるという保証があるからです。同じように、弟子たちが、全世界に出て行って、福音を伝えることができたのは、イエス・キリストご自身が福音の宣教を保証してくださっているからでした。自分たちの背後に、地上の国の権威にまさるイエス・キリストの大きな権威があることを確信したからです。

 ピリピ2:6-11にこう書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」これは、初代教会の賛美のひとつであると考えられています。初代のキリスト者たちは、この賛美を繰り返し歌い、礼拝のたびごとに、あらゆるものの上におられる方を仰ぎ見ました。そして、このイエス・キリストの権威に支えられて、礼拝から伝道の場、証しの場へと遣わされていったのです。

 わたしたちの礼拝は、形式は違っていても、その本質は初代教会と変わりませんし、変わるものであってはなりません。初代のキリスト者と同じように、わたしたちもイエス・キリストの権威のもとにひざをかがめるために、それぞれの生活の場からこの礼拝に招かれて来ているのです。そして、このイエス・キリストの権威によって、ここからそれぞれの生活の場へ、キリストの証し人として派遣されていくのです。キリストの証し人には、すべてにまさるキリストの権威が、その背後にあります。そのことを確信して、それぞれの証しの場へと遣わされていく、きょうの礼拝、また毎週の礼拝でありたいと思います。

 二、恵みの御座

 ヘブル1:3は「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」とあって、イエス・キリストが神の右の座におられると言っています。しかし、それと同時に、きょうの箇所では、その神の右の座が「恵みの御座」と呼ばれており、主イエスは、あわれみ深い大祭司として、そこにおられると言われています。

 イエス・キリストが座しておられる、神の右の座は、王であるキリストがそこから世界を治め、裁かれるところです。イエス・キリストがあらゆる権威を帯びた王として、また厳格な審判官としてそこにおられるということだけなら、罪ある者には、その座は、恐ろしくてとても近づくことのできないところ、地上から見上げることさえできない場所になってしまいます。しかし、聖書は、イエス・キリストが王また審判者としてだけでなく、大祭司としてもそこにおられると教えています。しかも、その大祭司は、人となられ、人間が味わうあらゆる試練を通られたお方で、人間の弱さや、さまざまな必要をすべてご存知のお方だというのです。イエス・キリストは、立派な人間の代表者として神の前に立っておられるのでなく、もろく、欠けだらけの者たちの代表者として、神の前に立ってくださるのです。

 旧約聖書では、「恵みの御座」は神殿の至聖所に置かれた契約の箱の蓋を意味しました。それは「贖罪所」や「贖いの蓋」とも呼ばれ、旧約の時代に、大祭司が、年に一度、そこに犠牲の血を注ぎかけて、人々の罪の贖いをしました(レビ記18章)。旧約の時代、人々は、それが何を意味しているか分からないまま繰り返していましたが、その意味は、イエス・キリストによって、明らかになりました。それは、まことの大祭司であるイエス・キリストが、ご自身を全人類のための罪のための犠牲としてささげ、十字架の上で血を流されたことを示すものだったのです。旧約時代には、動物の犠牲の血は至聖所の「贖いの蓋」に注がれましたが、主イエスの血は、やがて役割を終えて姿を消していく地上の神殿ではなく、天の聖所に運びこまれました。イエス・キリストが天に昇られたのは、勝利の王として、その王座に着くためであるとともに、大祭司として、天の聖所にその血を携えていくためでもあったのです。それは、十字架による贖いが、天で確立するためでした。イエス・キリストの十字架が、今から二千年前のものとして終わることなく、そこで流されたイエス・キリストの血が、今も、永遠までも、人々を罪から贖う力を持っていることを、確かなものとするためでした。

 きょうの箇所は、この恵みの御座に来て、イエス・キリストの贖いを受けるようにと、わたしたちを招いています。わたしたちに必要な神のあわれみ、恵み、また助けは、すべて、イエス・キリストの贖いから来るからです。わたしたち人間にとっての最大の問題は、罪と、罪の結果である死の問題です。この地上でわずかばかりの幸いを得たとしても、罪の赦しなしには、誰も神に近づくことはできません。また、この地上でどんなに健康で長生きしたとしても、罪から贖われていなければ、永遠を神とともに生きることはできないのです。わたしたちの人生における様々な問題や不安、恐れなどは、罪の赦しを得ていないこと、死の恐れから解放されていないことから生じるのですから、恵みの御座で、罪の赦しを受けなければ、人生の諸問題からの解決もないのです。

 主イエスの贖いのための犠牲は、ただ一度限りのものです。主は、それを繰り返されるのではありません。しかし、主は、恵みの御座で、ご自分の贖いを、神に対しても、わたしたちに対しても示し続けておられます。神に対しては、「父よ、彼らの罪を赦してください。わたしは、彼らの罪の贖いのため、みこころにしたがって、わたし自身をささげましたから」と言われ、わたしたちに対しては、「子よ、あなたの罪は赦された。平安のうちに行きなさい。わたしはあなたのために贖いとなったのだから」と言ってくださるのです。この恵みの御座に来るとき、わたしたちは、イエス・キリストの贖いの力が、決して色あせるものではなく、今も、わたしたちを救うものであることが分かるのです。

 三、祈りの御座

 では、イエス・キリストは大祭司として、恵みの御座で何をしておられるのでしょうか。大祭司の最も大切な勤めは、祈りです。とりなしです。主イエスは、そこで、とりなし、祈っておられます。ローマ8:34にこうあります。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」想像してみてください。栄光を身にまとい、王冠という王冠をすべてかぶり、玉座におられるお方が、その玉座から降りて、ひざをかがめて祈っておらる姿を。しかも、その祈りは、この栄光の主に対して罪を犯している罪びとのためなのです。主イエスはわたしたちが祈りをささげる対象です。なのに、このお方が、わたしたちのために祈ってくださるのです。なんと、おそれおおいこと、なんと大きな恵みでしょうか。

 主は、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)と仰って、自分を否んだペテロのために祈られました。ペテロが立ち直ったのは、じつに、主エイスの祈りによってでした。主は、ご自分を十字架につけた人々のためにも、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、祈られました。ペンテコステの日に、ペテロが、「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(使徒2:36)と説教したとき、人々はこれを聞いて、強く心を刺されました。そして、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(使徒2:37)と言って、救いを求めました。この回心は聖霊によるものですが、その背後には、主イエスの十字架の上での祈りがありました。

 神に近づこうとする時、自分の足りなさを感じない人はだれもいないと思います。何かを真剣に祈ろうとすればするほど、自分の祈りが足らないことを感じることでしょう。真面目な信仰者であれば、誰も、そうした自分に失望するものです。しかし、そのような時こそ、恵みの御座を仰ぐのです。そこには、わたしたちのために祈ってくださるお方おられます。主イエスはわたしたちの足らない祈りをとりなし、欠けた信仰を完全なものとし、父なる神にとりついでくださいます。ですから、わたしたちは、たとえ、自分たちに足らないところがあり、欠けたところがあっても、大胆に天を仰いで、赦しを求め、助けを求めるのです。主はあわれみ深く、弱い者を心温かく思いやってくださるお方です。主は、主に近づく者を赦し、いやし、再び生かしてくださいます。ですから、どんなときでも、助けを求めて主のもとに行くのです。「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(16節)この言葉の通り、「はばかることなく」、「大胆に」、恵みの御座に近づこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、キリスト昇天主日に、わたしたちの目を、もう一度、天に向けさせ、天のことを思い、天におられる主イエスを思うことができ感謝します。天の「恵みの御座」はいつも開かれています。真剣な悔い改めと、大胆な信仰をもって、そこに近づくことができますよう、わたしたちを導いてください。わたしたちのあわれみ深い大祭司、イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/28/2017