イエスを見つめて

ヘブル12:1-2

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12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

 イエスは復活されてから40日の間弟子たちに現れ、ご自分が生きておられることを示し、聖書を解き明かし、弟子たちが全世界に伝えるべき福音の内容を教えられました。そして、天にお帰りになりました。それを記念するのが「主の昇天日」です。ドイツでは「主の昇天日」は今も国民の祝日ですが、「父の日」として祝われます。ドイツの「父の日」はもとは、若い父親たちに紳士としてのふるまいを教える日だったそうですが、今では、父親と息子が一緒にビールを飲んで酔いつぶれる日となっているそうです。アメリカでは、「主の昇天日」が木曜日なので、次の日曜日を「主の昇天主日」として覚えています。では、「主の昇天」を覚えるとは、どういうことなのでしょうか。「主の昇天」には、いくつもの大切な意義がありますが、きょうは、その中から三つのことをとりあげます。

 一、イエスは主

 第一に「昇天」は「イエスは主」であることを教えています。ヘブル12:2の後半に「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」とあります。この言葉は、ピリピ2:6-11を思い起こさせます。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

 イエスは、神の御子であられたのに貧しい姿で生まれ、育ちました。低くされ、卑しめられ、苦しめられ、最後には神を冒瀆する者とされ、あの残酷な十字架にかけられました。けれども、イエスは、その復活によって、十字架の苦しみと死が、私たちすべての救いのためであったことを明らかにされました。そして、昇天によって、ご自分がすべての者の主であることを示されたのです。イエスの昇天は、いったん低くされたイエスが、再び高くあげられ、天の王座に戻られたことを教えています。

 ペンテコステの日、ペテロはエルサレムに集まった大群衆に語りかけました。「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒2:32-33)そして、こう言って、人々に悔い改めを迫りました。「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(同2:36)イエスが天に上げられた主であると、繰り返し語っています。人々を恐れ、隠れて過ごしていた弟子たちが、ペンテコステの前に続々とエルサレムに集まりました。ペンテコステには、「イエスは主です」と、力強く語り、証ししています。もちろん、それは聖霊の力によるのですが、それとともに、聖霊が弟子たちに確信させてくださった「イエスは主」との事実によるものでした。

 コリント第一12:3はこう言っています。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」聖霊のお働きは数々ありますが、その第一のものは、私たちに「イエスは主」との事実を悟らせ、確信させ、それを告白させてくださることです。ローマ10:9が「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」と言うように、「イエスは主です」との告白は信仰の第一歩です。今まで、自分を「主」として生きてきた者が、イエスを主と仰ぎ、自分をしもべとして生きる。それは聖霊によってだけできる大きな転換です。そして、この変化を経験した者は、生涯を通じて、「イエスは主です」と告白し続けていくのです。

 「イエスは主。」この事実と、それを告白することとは、どんなに私たちを強め、困難と苦しみを乗り越えさせてくれることでしょう。実際、使徒たちは、迫害を受けたとき、天におられる主を仰いでそれを耐えました。使徒7:55-56にステパノの殉教のことが書かれています。「しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。」ステパノが殉教に際しても平安で、自分に石を投げつける人々のためにとりなし祈ることさえできたのは、主イエスが天におられ、そこにステパノを迎え入れようとしておられたからであり、その主を、ステパノが信仰によって仰ぎ見ることができたからでした。

 二、信仰の創始者

 主の「昇天」は、第二に、私たちに人生のゴールを教えてくれます。ヘブル12:1-2は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで…」と言っています。2節の「目を離さないでいなさい」は、原文では独立した動詞ではありません。英語で言えば、“Let us run the race looking to Jesus.” となり、「レースを走る」という動詞にかかる分詞です。口語訳では「イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と訳されています。

 「自分の前に置かれている競走」とは、それぞれに与えられた地上の人生のことです。ヘブル人への手紙が書かれたころ、ローマ帝国の各地に競技場が建てられ、スポーツがとても盛んでした。それで、聖書は、いくつかの箇所で人生を「競走」に例えていますが、ここはその一つです。ここで「競走」とありますが、「競争」ではないことに注意してください。私たちの人生の競走は他の人と優劣を争うようなものではありません。ひとりひとりが自分に与えられたトラックを最後まで走り抜けばいいのです。他の人と競いあうものではありませんから、他の人が先に行ってもかまわないのです。自分のトラックを走り抜きさえすれば、誰もが一番でゴールできます。主から栄光の冠を授けられるのです。

 ヘブル12:1は、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから…」と言っていますが、この「証人たち」の中にはヘブル11章に出てきた信仰に生きた人々やそののちの信仰者を含みます。彼らは、それぞれ、自分のレースを走り終え、今、天にいて、私たちのレースを見守り、応援してくれているのです。聖書に登場する多くの人々、歴史の中に見る信仰者たち、そして、私たちの身近にいて模範となってくれた人々、そうした人々のことを思って、私たちはどんなに励まされてきたことでしょうか。

 しかし、どんなに多くの過去や現在の信仰者に助けられたとしても、その人たちが私たちのゴールではありません。私たちが目指すゴールは、イエス・キリストです。雲のような「証人」たちは皆、「あなたのゴールは、あのお方ですよ」と、信仰の「創始者」であるイエスを指差しているのです。この「創始者」という言葉は英語で “Founder” と言います。基礎を据えた人、基準となる人という意味です。主イエスが私たちの人生の基礎です。信仰の土台です。このお方から離れては、人生のゴールに到着することはできません。ですから、聖書は、私たちに「イエスから目を離さないでいなさい」と教えているのです。

 サッカーやソフトボールをするとき、フィールドに白い線を引きますが、それを「マーキング」と言います。ラインを真っ直ぐに引くコツをご存知ですか。そのためには、まず、基準となるところに柱や杭を立てます。そして、それにしっかりと目を向けて、マーキング・マシーンを走らせるのです。目を足元に落してやると、ラインが曲がってしまいます。私たちの人生の歩み、信仰の競走も同じです。身の回りに起こる事柄だけに目を留めていると、真っ直ぐな歩みができません。私たちのゴールである天を、そこにおられる、主イエスを真っ直ぐに見つめることが大切です。それによって私たちは、曲がりくねった人生の道を真っ直ぐな道にすることができるのです。

 三、信仰の完成者

 イエスの昇天は第三に、イエスが私たちの信仰の完成者(Perfecter)でもあることを教えています。イエスは「創始者」(Founder)として、私たちの目指すべきお方です。けれども、イエスをゴールとし、模範とし、イエスのようでありたい、イエスのように生きたいと思っても、なかなかそのようにできないのが、私たちです。スポーツに例えれば、子どもたちが憧れている選手のようになりたいと思って、そのしぐさを真似てみても、その選手のようにはなれないのと同じです。

 ある時、子どもたちが公園でソフトボールの練習をしているのを見ました。年配のコーチがバッターのところに行き、手を添えて、バットを握る位置や握り方を教えていました。また、膝をついて両手で子どもの足を動かし、バッターボックスに立つときの足の位置を教えていました。そして実際に手を添えて、いっしょにバットを振ってあげていました。それが終わると、今度はピッチャーのところに行って、ボールの握り方や投げ方を同じように手を添えて教えていました。子どもたちがソフトボールで上達するには、コーチから実際の指導を受ける必要があるのです。

 このように、イエスは、私たちの人生のコーチとなって、文字通り「手を取り、足を取り」、人生を信仰によって歩むことを教えてくださるのです。それが、イエスが信仰の「完成者」(Perfecter)と言われている意味です。信仰を与えられた私たちには、その信仰を守り、成長させていくことが求められていますが、それは、自分一人の力でできることではありません。イエスのコーチングが必要なのです。

 しかし、イエスは天におられるのに、どうやって地上にいる私たちの手をとり、足をとり、教え、助けてくださるのでしょうか。イエスが天に帰られたことによって、地上にいる私たちはイエスが遠くにあるように感じます。しかし、実際はその逆なのです。イエスが地上におられたとき、イエスから親しく信仰のコーチを受けたのは12弟子だけでした。70人の弟子たちもそれなりの訓練を受けたでしょうが、イエスの直接の訓練を受けた弟子の数は多くて120人くらいだったと思われます。もし、イエスが、天に帰らず、地上にとどまっておられたなら、世界の何億という信仰者たちは、イエスから訓練を受けることができなかったのです。

 しかし、イエスは天に帰り、そこから聖霊を送り、教会を生み出してくださいました。今、イエスは聖霊によって、また、聖霊によって生まれた教会を通して数多くの人々を親しく導き、助けておられます。イエスは、昇天によって私たちから遠くなったのではありません。むしろ、もっと私たちに近づいてくださったのです。

 イエスは天の御座で、私たちの主として私たちを守っていてくださいます。信仰の「創始者」として、私たちの人生の基礎、基準となり、ゴールとなっておられます。さらに信仰の「完成者」として、私たちの人生を導いてくださっているのです。主の昇天を覚えるこの日、この主イエスに、私たちの信仰の目を真っ直ぐに向けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主の昇天主日に、私たちの目を、再び、天と、そこにおられる主イエスに向けさせてくださり、感謝します。この週、イエスが主であり、信仰の創始者であり、また、完成者であることを深く覚えながら過ごさせてください。そして、来週のペンテコステを祈りのうちに待ち望む者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/21/2023