イエスを仰ぎみつつ

ヘブル12:1-3

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12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

 一、信仰の目

 日本語に「目のつけどころ」という言葉があります。わたしは、どの分野でも、専門家のお話しを聞くのが好きですが、そういうお話しを聞くと、「なるほど、専門家は、やはり、目のつけどころが違うなあ」と感心します。また、聖書学校の教師をしていたときには、学生のレポートを読んで、「目のつけどころはいいんだが、論理が弱いね」と批評したこともあります。このように、「目のつけどころ」という言葉には「着眼点」という意味があります。

 こんな話があります。アメリカの靴メーカーの社員がふたり、市場調査のため、ある国のある地域に行きました。数週間そこで調査したあと、ひとりは会社にこう書き送りました。「この国では、靴の販売は難しいと思われます。ほとんどの人は裸足で生活していますから。」しかし、もうひとりは、こう書き送ったのです。「この国では、靴はいくらでも売れます。ほとんどの人が靴を持っていないのですから。」同じものを見ても、目のつけどころ(着眼点)が違えば、結論が変わるのです。ものを「見る」というのは、目の網膜が光の信号をキャッチするというだけのものではなく、目から入ってきた情報をどう処理し、結論づけるかという理性の働きも含めたものであることが分かります。ものごとを、一方向からだけでなく、様々な面から見ることができる人が、世の中では成功すると言われます。信仰においては、見えるものだけでなく、「見えないものに目を注ぐ」(コリント第二4:18)ことができる人が、確かな歩みをすることができるのです。

 ヘブル11章では、「見る」という言葉が使われて、信仰がこう定義されています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)ヘブル11章に登場する信仰者たちは、「まだ見ていない事実」を、「見て」、「確信」した人たちでした。ノアはやがて洪水が来るという啓示を受けたとき、その前兆すらないときに、箱舟を作りはじめました。人々は、「こんな平地で舟を作って、どうやって川まで運ぶのか」と言って馬鹿にしましたが、ノアは、この平地も、山も、みな水の下に沈むことを、信仰の目ではっきりと見ていたのです(ヘブル11:7)。

 アブラハムは、神の召しを受けたとき、行き先も分からないのに、故郷を離れ、旅立ちました。そして、まだ子どもがいない時、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。…あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記15:5)という、神の言葉を聞きました。アブラハムは、その言葉を信じて、自分の子孫が満天に輝く星の数ほどに増え広がるのを、前もって「見た」のです(ヘブル11:8-11)。

 モーセはエジプトの王子として育てられ、その恩恵を約束されていましたが、「エジプトの宝」という地上の報いよりも、神からの報いに目を向け、神の民と苦しみを共にしました(ヘブル11:23-26)。モーセはじつに、「見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」(ヘブル11:27)のです。

 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(コリント第二4:18)とあるように、信仰者の「目のつけどころ」は、この世の人のそれとは違います。信仰者は人生を永遠の観点から見るのです。神の愛、恵み、導き、報いなど、世の人には「見えないもの」を信仰の目で見て、その観点から人生を歩むのです。

 二、創始者イエス

 ヘブル人への手紙は、11章で旧約時代の信仰者の例をひいたのち、12章でクリスチャンに対して、「イエスを仰ぎ見なさい」(ヘブル12:2)と命じています。旧約時代の人々でさえ、やがて来られるキリストを仰ぎ望んだのであれば、新約時代のクリスチャンは、すでに来られたキリストに目を留めのは当然のことだと言うのです。

 ヘブル12:2で、イエス・キリストは「信仰の導き手であり、またその完成者」と呼ばれています。「信仰の導き手」とあるところは、新改訳や新共同訳では「信仰の創始者」と訳されおり、そのほうが良いと思います。「創始者」というのは英語で "founder" で、ものごとを始めた人、基礎を築いた人のことを指します。イエス・キリストはまさに、わたしたちの信仰の土台を据えてくださったお方であり、また、信仰の土台そのものです。「わが身の望みは」という賛美のおりかえしに“On Christ, the solid Rock, I stand; all other ground is sinking sand.”(「キリスト、この確かな岩の上にわたしは立つ。他は沈み行く砂地だ」)とあります。『聖歌』では「イエスこそ岩なれ、他は砂地なり」と歌われています。この賛美のように、イエスの他、わたしたちの拠って立つところはありません。だから、わたしたちはこのイエスから目を離してはいけないのです。

 創始者のあとに続く者は、創始者の意志を受け継ぎ、創始者に見習います。イエスが信仰の創始者であるなら、イエスは信仰の模範でもあるはずです。「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」という、ヘブル12:2後半の言葉は、ペテロ第一2:21−23を思いおこさせます。そこにこう書かれています。「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」このように、イエスを信仰の土台とする者は、イエスが歩まれたのと同じ道を歩むよう、召されているのです。

 ヘブル12:3では、「あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである」とあって、イエスを「仰ぎ見る」ことが、「思いみる」という言葉で置き換えられています。ここで使われている「思いみる」という言葉は、「アナロギゾマイ」といって、新約聖書ではここでしか使われていませんが、「ロギゾマイ」という言葉なら多く使われています。それには、「計算する」、「認める」、「考慮する」などの意味があります。「アナロギゾマイ」の「アナ」には「ひとつ」という意味がありますから、これは、「ひとつひとつ数える」、「注意深く考察する」、「深く考える」という意味になります。「望みも消えゆくまでに」という賛美のおりかえしに「数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」とあります。このように「思いみる」という言葉はイエス・キリストがわたしたちに代わってしてくださったことや、わたしたちに先んじてしてくださったことを、ひとつひとつ、注意深く考え、自分のものとすることを教えています。

 多くのスポーツの選手は、自分を訓練する時、自分よりも優れた人をモデルにして、その人がするとおりのことを真似ることから始めるそうです。モデルとする人を真似るために、その人をあらゆる角度から観察し、ビデオに撮ったものを繰り返し見て研究するのだそうです。それは、スポーツばかりでなく、どの分野でも同じでしょう。「学ぶ」という言葉は「真似る」という言葉から生まれたと言われていますが、わたしたちは模範となるものを真似ることによって、ものごとを習得していくのです。そして、真似るためには、その対象をよく見る必要があるのです。

 それは信仰の世界でも同じです。わたしたちがキリストのようになりたいと願うなら、じっとキリストを見つめ、よく観察しなければなりません。具体的には、聖書によってイエス・キリストを学び、祈りの中でイエス・キリストを深く思いみるのです。そのようにして、イエスに目をとめ、イエスを思いみることを忘れないようにしましょう。

 三、完成者イエス

 このようにイエスは信仰の「創始者」ですが、同時に信仰の「完成者」です。イエスが信仰の「完成者」と言われているのは、イエスがわたしたちの救いのために必要なことをすべて成し遂げてくださったからです。イエスは十字架でわたしたちのすべての罪を背負い、私たちを罪から贖ってくださいました。また、その復活によって、信じる者に永遠の命を与えてくださいました。イエスは今も生きて、わたしたちの祈りをとりなしてくださり、やがて、この世界を一新するために、再び、世に来られます。そのとき、イエスは救いを完成させてくださるのです。じつにイエスは信仰の創始者であり、完成者です。

 また、イエスが「信仰の完成者」であるという場合、それは、わたしたちひとりひとりのうちに働いて、わたしたちの信仰を育て、完成に至らせてくださることも意味しています。イエスは信仰の模範、モデルです。しかし、モデルを真似るといっても、簡単ではありません。その人がそのことをどのようにしているのか、見抜けないときがありますし、その人がすると簡単そうに見えることも、いざ、自分がやろうとすると、どんなにしてもできないということがあります。そんな時はどうすればいいのでしょうか。

 一番いいのは、コーチの指導を受けることです。モデルは遠くにいて手が届きませんが、コーチは選手のそばに離れずにいてくれます。モデルは、その人のところに出かけていって学び取らなければなりませんが、コーチは自分のところに来て指導してくれます。リトル・リーグでコーチが子どもを教えているのを見たことがありますが、コーチはピッチャーにボールを握らせ、その指を一本一本動かして指の位置を直し、ボールの握り方を教えていました。バッターに対しても、その足もとにしゃがみ込んで足の開き方や向きを矯正していました。まさに「手をとり、足をとり」でした。

 イエスは、モデルとして遠くにおられるだけでなく、わたしたちの側につきっきりで、わたしたちの信仰を、「手をとり、足をとり」コーチしてくださるお方でもあるのです。スポーツの世界では、何度やってもうまくできないと、コーチがさじを投げてしまう場合がありますが、信仰のコーチであるイエスは、わたしたちが何度失敗しようとも、決してさじを投げたりなさいません。何度でも、忍耐をもってわたしたちを導いてくださいます。わたしたちがあきらめることがあっても、主はわたしたちをあきらめることはないのです。

 私は、今年最初の礼拝で、ダラス・カウボーイのヘッドコーチだったトム・ランドリー氏の言葉を紹介しました。「コーチとしてのあなたの仕事はなんですか」と尋ねられたとき、ランドリー氏はこう答えました。「彼らがやりたくないことをさせることが、わたしの仕事です。」プロの選手は、基礎訓練よりも、高度なことや目立つことをやりたがり、コーチの指導に従わないことが多いものです。ランドリー氏も、もと選手でしたから、そのことを良く知っていました。それで、こうしたことを言ったのでしょう。わたしたちも、ある程度の信仰生活を過ごすと、もう自分は大丈夫と考えて、イエスのコーチングを求めなくなることがあります。その事を悔い改め、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」から信仰のコーチングを進んで受け、素直にそれに従いたいと思います。

 イエスに目を向け、イエスに見習いましょう。イエスのコーチングを受けましょう。それによって、わたしたちは、信仰のレースを最後まで走り抜くことができ、天の栄光にゴールインすることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、御子イエスをわたしたちの信仰の模範、またコーチとして与えてくださったことを感謝します。わたしたちは、しばしば、世のものに目を奪われたり、人を見て躓いたり、自分を見て落胆します。わたしたちの目が、まっすぐに主を見つめていることができるよう、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/10/2018