捨てるべきもの

ヘブル12:1

オーディオファイルを再生できません
12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

 一、明け渡し

 スゥンドール先生はその著書の中で、「神との親密さ」「シンプルであること」「沈黙とひとりになること」「明け渡し」「祈り」「謙遜」「自制」「犠牲」の八つの霊的訓練について教えています。わたしたちも、それに従って、最初の三つの訓練、「神との親密さ」「シンプルであること」「沈黙とひとりになること」について学んできました。きょうは、第四の訓練、「明け渡し」に進みたいと思います。

 わたしたちは、イエス・キリストを救い主として、心に迎え入れて、救われました。そのとき、わたしたちは同時に、キリストをわたしたちの人生の「主」としても迎え入れたのです。バプテスマは、わたしたちがキリストを「救い主」として、また「主」として受け入れたことを言い表わすものです。つまり、わたしたちはバプテスマによって、次のふたつのことを言い表わしたのです。第一に、「わたしは滅びるべき罪人ですが、救い主イエス・キリストがわたしを罪と滅びから救ってくださいました。」第二に、「わたしはキリストをわたしの人生の主として受け入れ、そのしもべとなって生活します。」

 ところが、油断をしていると、救い主キリストへの信頼を忘れます。自分が立派な人間であるように勘違いをし、バプテスマを受けたとき悔い改めたのだから、もう何も悔い改めるものはないなどと考えるようになってしまいます。ほんとうは、信仰が深まれば深まるほど、罪の認識も深まるはずなのですが、信仰生活が形だけのものになると、自分の罪を忘れ、悔い改めと罪の赦しの喜びを見失ってしまうのです。

 ダラス近郊に The Village Church という教会があります。その教会のウェブページに「教会は建物でも、行事でもありません。それは人です。キリストのからだです。わたしたちは恵みによって救われた罪人です」という言葉がありました。自分たちを「恵みによって救われた罪人」だというのです。もちろん、これは、「罪人のままで良い」という意味ではなく、そこには、キリストの恵みによって、「罪人から聖徒へ」へと変えられていくということも含まれています。クリスチャンとは、「罪赦された罪人」であることを忘れず、絶えず悔い改めながら、赦しの喜びの中に、キリストの恵みによって生きる者です。わたしたちも、悔い改めと信仰によって、キリストの恵みの中にとどまっていましょう。

 また、バプテスマのとき、キリストを自分の人生の主として迎え入れたのに、口ではキリストを「主よ」と呼んでいても、実際は「しもべ」として生活していないということも起こりえます。キリストがかしらである教会の中でさえ、自分の願望、自分の意見、自分の都合を第一にして、キリストではなく、自分を「かしら」にしてしまうこともあるのです(第三ヨハネ1:9-10)。そうしたことに気付き、悔い改め、救い主に信頼し、自分をキリストのしもべとして捧げ直し、「イエスはわたしの救い主、わたしの主」というバプテスマのときの告白に立ち返ること、それが「明け渡し」です。

 二、からみつく罪

 きょうの箇所、ヘブル12:1は、この「明け渡し」を教えています。新約聖書が書かれた時代、ローマ帝国内には、今日のスタジアムを思わせるような大規模な円形競技場が数多くあり、さまざまな競技がさかんに行なわれていました。そうした競技に参加する人は、長い裾の服や重い上着を着たり、飾りを着けたりはしません。からだにまとわりついて、邪魔になるものは潔く脱ぎ捨てます。信仰の競走でも同じです。「信仰の競走」とは、キリストを「救い主」として喜び、また「主」として従う生活のことですが、そのためには、捨てるべきものを捨てる必要があるのです。

 では、信仰の競走において捨てるべきものとは何でしょうか。ヘブル12:1に「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて」とあるように、それは一言で言えば「罪」です。罪はどんな罪でも、信仰の競走を妨げますが、この原文で「からみつく罪」という言葉には英語の "the" に相当する定冠詞がついています。それは、ここで言われている罪が、「その罪」、「あの罪」というように特定されたもの、つまり、その人にとって、長い間克服できない罪のことを表わしていると思われます。

 ある人にとっては、それは、不平不満やつぶやきの罪かもしれません。ある人にとっては他の人に怒りをぶっつけ、簡単に人を批判してしまうことかもしれません。ある人にとっては、思い煩いや引っ込み思案かもしれません。ある人には失望やあきらめかもしれません。物事に気まぐれで、無責任であるということかもしれません。あるいは物欲や金銭欲などかもしれません。こうした、「からみつく罪」を捨てるには、まず、その罪が何なのかを特定する必要があります。聖霊に私たちの内面と生活を探っていただき、自分の罪を正直に認め、悔い改めて、そのことをしたいと思います。

 また、罪に定冠詞がつくとき、それは、「罪の中の罪」をさします。"Bible" というのは "book" という意味ですが、それに "the" がつき、"The Bible" となると、「本の中の本」「最高の本」「聖書」という意味になるのと同じです。

 では、「罪の中の罪」とは何でしょう。それは、「自己中心」、「自分第一」という心の態度です。"SIN" という言葉の真ん中にあるのは、"I" です。キリストを「救い主」として求めず、「主」として従わず、「自分の思いの通りに生きていく」という思いと、そうした生き方が、罪の中の罪、"The Sin" なのです。

 注意しないといけないのは、この「自己中心」や「自分第一」というのは、いつも「わがまま」や「自己主張」という形で現われるとはかぎらないことです。それは、謙遜そうな態度で現われることもあります。「わたしのような者が…」と言って、自分の殻に閉じこもり、キリストの前にさえ出ることがないことも、自己中心です。高慢は罪ですが、卑下もまた罪です。

 また、善意の「自己中心」というのもあります。ときに、わたしたちは、あることがらについて、責任を強く感じて「わたしが何とかしなければならない。これはわたしでなければできない」と考えることがあります。責任感も努力も素晴らしいものです。しかし、それが、神への信頼から、「わたし」への信頼にすり替わっていくことがありますから気をつけなければいけません。それもまた、「わたし」を第一にすることになってしまいます。

 信仰の競走で躓いたり、力を失うことがあったら、「大文字」で威張っている「わたし」(I)がそこにいないかどうか検討してみましょう。そして、自分をキリストに明け渡し、小文字の「i」となって、主に仕えましょう。それが、「からみつく罪」を捨てることなのです。

 三、参加すべき競走

 このように、捨てるべきものを捨てて、わたしたちは、信仰の競走を走るのです。ヘブル12:1は「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」と、わたしたちを励ましています。

 ここで注意していただきたいのは、「わたしたちの参加すべき競走」という言葉です。わたしたちがどのコースを走るかは、わたしたちが決めるのではなく、神が定められるのです。どんなに他の人の人生がうらやましく見えても、わたしたちは他の人の人生を生きることはできません。神によって定められた自分のコースを、最後まで忠実に走りぬくこと、それが、信仰の競走で一番大切なことです。

 1980年のボストン・マラソンでロージ・ルイーズは女子の部で一位でゴールインしました。ところが、フルマラソンを走った後にしては、ほとんど疲れていない様子に、他のマラソン走者が気付いて、彼女が最後の1/2マイルしか走っていないことが分かりました。どんなに一番先にゴールに着いたとしても、決められたコースを走り抜いたのでなければ失格者になってしまいます。聖書は、「競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない」(第二テモテ2:5)と教えています。

 信仰の競走で大切なのは、神から与えられた「自分のコースを走る」ということです。信仰の競技では、自分と同じコースを走る人は他には誰もいません。そのコースで走るのは自分ひとりですから、最後まで走り終えさえすれば、誰もが一着になり、朽ちない冠という賞を得ることができるのです。どんなに時間がかかっても、走るべき道を走り抜いた者には、栄冠が用意されているのです。わずかな間にめざましく信仰の成長をとげる人もあれば、何年もかかってゆっくり成長していく人もあります。どんなに早く成長しても、その後、成長がストップし、信仰が深められないままでいるとしたら、時間がかかっても、確実に信仰を成長させ、深めている人には勝らないのです。

 クリスチャンになって五十年、六十年と長い信仰生活を送る人もあれば、クリスチャンになってわずか数年で天に召される人もあります。長い信仰生活は、神の祝福であり恵みですが、たとえ数年、あるいは数日、数時間という信仰生活であったとしても、それもまた神の目には尊いものです。主イエスは、ご自分とともに十字架にかけられた強盗のひとりに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」(ルカ23:43)と言われました。この強盗は死の間際になって主イエスを信じました。彼の信仰生活は、わずか数時間でした。しかし彼は、その数時間のうちに、主イエスの十字架上の七つのことばをじかに聞き、キリストの死の瞬間を目撃しています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる。」(ガラテヤ2:20)これは、信仰生活における最高の体験ですが、この強盗は文字通り、キリストとともに十字架につけられるという体験をしたのです。このように、たとえ時間は短くても、神との深いまじわりの中に生きることもできるのです。

 ある年配の方が言いました。「この年になってからクリスチャンになってもしょうがない。」決してそんなことはありません。クリスチャンになるのに、早すぎることも、遅すぎることもありません。地上の信仰の歩みは、長くても短くても、天国で永遠を過ごすことにくらべたなら、問題にはならないのです。大切なのは、自分に与えられているコースを精一杯走りぬくことです。

 きょうはこののち、「主の晩餐」に与りますが、わたしは、さまざまな意味で、「主の晩餐」は「第二のバプテスマ」だと考えています。キリストの救いを覚えるこの晩餐式で、わたしたちは、バプテスマのときの「キリストこそわたしの救い主」という信仰の告白を新たにするのです。キリストのからだが捧げられるこの晩餐式で、「キリストこそわたしの主」と言い表わし、自分のからだを捧げるのです。この晩餐式、この礼拝を、そのような「明け渡し」の時、「信仰の競走」へのリ・エントリーの時としたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、わたしたちに「信仰の競走」、つまり、わたしたちがキリストを救い主として信頼し、主として従う生活を与えてくださいました。どうぞ、自分自身を明け渡すことによって「からみつく罪」を捨て、あなたがお与えになったコースを最後まで走り抜く者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/3/2018