明け渡すべきもの

ヘブル12:1-3

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12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 この夏は、キリストのようになるための訓練ということで、チャック・スウィンドル先生が取り上げた八つのことがら、「神との親密さ」「シンプルであること」「沈黙と孤独」「明け渡し」「祈り」「謙遜」「自制」「犠牲」について学んでいます。今朝は、その中の第四の訓練、「明け渡し」について学ぶことにします。「明け渡し」について教えている聖書にはさまざな箇所がありますが、今朝は、ヘブル人への手紙12:1-3を取り上げました。

 一、自分のコースを走る

 新約聖書が書かれたローマの時代には、今日のスタジアムを思わせるような大規模な円形競技場が数多くあって、さまざまな競技がさかんに行なわれていました。それで、パウロも、ペテロも、そして、このヘブル人への手紙の著者も、信仰生活をスポーツの競技と比較して説明しています。ヘブル12:1は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と言っています。

 ここで最初に注意していただきたいのは、「私たちの前に置かれている競走」という言葉です。私たちがどのコースを走るかは、私たちが決めるのではなく、神が定められるのです。どんなに他の人の人生がうらやましく見えても、私たちは他の人の人生を生きることはできません。神によって定められた自分のコースを、最後まで忠実に走りぬくこと、それが、信仰の競走では一番大切なことなのです。1980年のボストン・マラソンでロージ・ルイーズは一位でゴールインしましたが、あとになって最後の800メートルしか走っていないことが分かりました。なんとしても優勝したかったため、レースでごまかして脇道を走ったのです。フルマラソンを走った後にしては、ほとんど疲れていないというので、他のマラソン走者が、そのごまかしを見破ったのです。去年のボストン・マラソンからは、走者は、靴か車椅子に自分のチップをつけなければならないことになりました。このチップによってそれぞれの選手の各地点の通過時刻がインターネットを通して表示されるそうです。こうなれば、ルイーズのようなごまかしはもうできませんね。どんなに一番先にゴールに着いたとしても、決められたコースを走り抜くのでなければ失格者になってしまうのです。聖書も「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。」(テモテ第二2:5)と教えています。

 信仰の競走で大切なのは、どれだけ早く走るか、どれだけ長く走るかではなく、「私たちの前に置かれている競走」を走る、「自分のコースを走る」ということです。夏期修養会で講師の福澤満雄先生は、信仰の競技で同じコースを走る人は他には誰もいない。そのコースで走るのは自分ひとりだから、最後まで走り終えさえすれば、誰もが一着になり、朽ちない冠という賞を得ることができると、話してくださいましたが、その通りですね。どんなに時間がかかっても、走るべき道を走り抜いた者には、栄冠が用意されているのです。わずかな間にめざましく信仰の成長をとげる人もあれば、何年もかかってゆっくり成長していく人もあります。どんなに早く成長しても、その後、成長がストップし、信仰が深められないままでいるとしたら、時間がかかっても、確実に信仰を成長させ、深めていくほうが、もっと神に喜ばれます。信仰の成長においては、速度は問題ではないのです。それは、人よりも数多くの集まりに出ている、沢山の活動をしている、また数多く役員になったというようなことを競い合うものではありません。

 また、信仰の競走はたんに信仰生活の長さを競うものでもありません。クリスチャンになって五十年、六十年と長い信仰生活を送る人もあれば、クリスチャンになってわずか数年で天に召される人もあります。長い信仰生活は、神の祝福であり恵みですが、たとえ数年、あるいは数日、数時間という信仰生活であったとしても、それもまた神の目には尊いものです。主イエスは、ご自分とともに十字架にかけられた強盗のひとりに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。「きょう」と言われていますので、主イエスが息を引き取られた後、数時間してこの強盗もまた息を引き取ったと思われます。この強盗は死の間際になって主イエスへの信仰を言い表したのです。彼は、わずか数時間の信仰生活、しかも、十字架の上に釘づけられたままの信仰生活しか送ることができませんでした。しかし彼は、その数時間のうちに、主イエスの十字架上の七つのことばをじかに聞き、キリストの死の瞬間を目撃しています。信仰生活における最高の体験は、ガラテヤ2:20の「私はキリストととも十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という箇所に表されている体験だと言われていますが、この強盗は文字通り、キリストとともに十字架につけられるという体験をしたのです。このように、たとえ時間は短くても、神との深いまじわりの中に生きることもできるのです。

 ある年配の方が「この年になってからクリスチャンになってもしょうがない。」と言いましたが、決してそんなことはありません。クリスチャンになるのに、早すぎることがないように、クリスチャンになるのに遅すぎることもありません。地上の信仰の歩みは、長くても短くても、天国で永遠を過ごすことにくらべたなら、問題にはならないのです。信仰の成長の速度や信仰生活の長さを人と競う必要は何もありません。それぞれに与えられている自分のコースを精一杯走りぬけば良いのです。

 二、余分なものを捨て去る

 信仰の競走で大切な第二のことは「余分なものを捨て去る」ということです。ヘブル12:1に「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とあります。スポーツ選手が競技の時に着るものには、体の動きを妨げるものはすべて取り除かれています。重いコートを着てマラソンを走ったり、ロングドレスを着て水泳の競技をしたら、それこそ滑稽なことです。そんな格好ではそもそも運動ができません。信仰の競走でも同じです。私たちは、重いコートや大きな荷物のようなものを人生に抱えたままで信仰の競走を走ることはできません。そうしたものは、主イエスのもとに置いてこなければなりませんし、からだにまとわりつくものも脱ぎ捨てなければ、途中で躓いてしまいます。

 私たちにとって「まとわりつくもの」とは一体何でしょうか。「まとわりつく罪」と書かれていますから、それは明らかに罪、つまり神が決して喜ばれない思いや行いのことを指しています。罪はどんな罪でも、私たちにまとわりついて、私たちの信仰の競走を妨げるのですが、原文で「まとわりつく罪」という部分には英語の "the" に相当する定冠詞がついています。それは、ここで言われている罪が、一般的な罪ではなく、「その罪」、「あの罪」という特定されたた罪であることを表しています。したがって、これは「あなたの罪」という意味になります。人にはそれぞれに弱さがあり、欠けたところがあります。いつもその人にまとわりついて来る罪というものがあるのです。ある人にとっては、それは、不平不満やつぶやきかもしれませんし、ある人にとっては他の人に怒りをぶっつけ、簡単に人を批判してしまうことかもしれません。ある人にとっては、思い煩いかもしれませんし、ある人には失望やあきらめかもしれません。相手のこともまわりの人々のことも考えずに、ところかまわず自己主張をすること、不機嫌な態度、高慢、偏見、さらには性的な罪、物欲や金銭欲なども、私たちにまとわりついてくる罪です。ほんとうに多くの罪がこの世に生きているかぎり、私たちにまとわりついてきます。このまとわりつく罪を捨てるには、まず、いつも自分にまとわりついてくる罪が何なのかを特定する必要があります。自分の問題、自分の弱さを正直に認め、悔い改めることを、神は私たちに求めておられます。

 聖書は "The Bible" と言います。"Bible" というのは "book" という意味ですが、それに "the" がつくと、「本の中の本」「最高の本」という意味になります。それと同じように「まとわりつく罪」に定冠詞がついているのは、それが「罪の中の罪」「罪の最たるもの」という意味でもあります。では、"The Sin" と呼ばれるほどの罪とは何なのでしょうか。チャック・スウィンドル先生は、この「罪」とは不信仰のことだと言っています。と言いますのは、ヘブル11章は「信仰の章」と言われるように、信仰の大切さを描いており、それを受けて12章が書かれているからです。罪を犯して神から離れ去った人間は、どんなに努力しても、どんなに大きな犠牲を払ったとしても、それによっては、神が人間に求めておられる基準を満たし、神に受け入れていただくことはできません。罪人にとってできる最善は、罪を悔い改め、それによって神に受け入れられようとする努力をやめ、ただ、神の恵みとあわれみに頼ること以外にありません。ヘブル11:6に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあるように、信仰なしには神に受け入れられることはないのです。私たちが神に喜んでいただけるのは、ただ信仰だけです。ですから、信仰を無くしたり、それを弱めたり、薄めたり、またそこに混ぜものをしたりという「不信仰」は「罪の中の罪」ということになるのです。

 チャック・スウィンドル先生はさらに、この不信仰の中心には「自己がある」とも言っています。神に頼らないとしたら、自分に頼るしかないわけですから、そこには「自己」が顔を出していることになります。ある人が「罪の真ん中には『私』がある。」と言いました。"SIN" の真ん中は "I" だからです。信仰の競走で捨て去るべきものとは、この『私』であり「自己」なのです。先にあげた、私たちにまとわりついているさまざまな罪はどれも、私たちが自分に焦点を合わせ、自分を主張し、自分を中心にすることから来ていました。私たちは、「明け渡し」の訓練によって、この罪から解放されなければなりません。

 「まとわりつく罪」の他に、ヘブル人への手紙では「重荷」も捨て去るように教えられています。「重荷」というと、「罪の重荷」という表現がありますように、これもまた「罪」のことであると考えられがちですが、聖書では、かならずしも「重荷」が「罪」だけを指しているわけではありません。それは、何か困難なことや、私たちが背負わなければならない責任という意味で使われています。主イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われた時の「重荷」は、生活の困難や精神的な圧迫をさしていたことでしょうし、使徒パウロが「互いの重荷を負いあい、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。…人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:2,5)と言っている場合の「重荷」は負うべき責任という意味でしょう。「重荷を捨てる」というのは、決して負うべき責任を放棄するという意味ではありません。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある」のです。自分の人生に与えられている重荷を避けて通るなら、それは、信仰の競走では、スタートラインに立たないで観客席に着こうとするようなものです。信仰の競走で、観客席に座ることを許されているのは、自分の競走を最後まで走り抜いた人たちだけです。人生で重荷を負わない人はありません。しかし、それを自分の力でなんとかしょうとしているとしたら、それは正しい態度ではありません。私たちは時に、責任を強く感じて「私が何とかしなければならない。これは私でなければできない。」と考えることがあります。責任感も努力も素晴らしいものなのですが、知らず知らずのうちに神への信頼が『私』への信頼にすり替わっていくことがあります。重荷を負うことにおいても『私』が先に出て、神を隠してしまうようになるのです。人生の「重荷」は確かに負うべきものなのですが、信仰の競走では、「重荷」を神に委ねるという形で、また、自分ひとりでそれを背負おうとしている「自分自身」を、神に明け渡すという仕方で、重荷を捨てていかなければならないのです。「重荷」を捨てることにおいても、私たちは「明け渡し」の訓練が必要です。

 チャック・スウィンドル先生は、私たちの生活の中で明け渡すべき領域について、具体的に四つのことをあげています。それは「所有物」「地位」「計画」「人々」です。英語では "Possesssions", "Positions", "Plans", "People" の四つで、どれも "P" で始まる言葉です。私たちは、どこかで「自分」というものを明け渡すことができず、そのために「所有物」や「地位」、「計画」や「人々」にしがみつき、神に頼ることを忘れていることがあります。「私の物」「私が築き上げた地位」「私の立てた計画」「私のためにいる人々」と、そこに、またもや『私』が顔を出してくるのです。今朝は、そのひとつひとつに触れる時間がありませんが、この四つの領域で私たちは「手放すこと」を学び、「明け渡す」訓練を受けていきたいと思います。

 三、キリストを見つめる

 しかし、自分を明け渡すと言っても、そんなに簡単にできるものではありません。ですから、私たちには訓練が必要なのです。しかし、幸いなことに、この訓練において、完璧なモデルがあり、優秀なコーチがいるのです。それは、主イエス・キリストです。ヘブル12:2-3は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と言っています。信仰の競走で大切な第三のことは「キリストを見つめる」ことです。その時、私たちは「明け渡し」をキリストから学ぶことができます。

 イエス・キリストは「自分を明け渡す」ことにおいて、私たちの最高の模範です。ピリピ2:6に「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とあり、ペテロ第一2:22-23に「キリストは罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあります。キリストはただひとり罪のないお方でしたからご自分の正しさを主張なさることができたのですが、キリストは「自分」を主張しませんでした。キリストは「自分」を完全に神に明け渡されたのです。

 多くのスポーツの選手は、自分を訓練する時、自分よりも優れた人をモデルにして、その人がするとおりのことを真似ることから始めるそうです。モデルになる人を真似るために、その人をあらゆる角度から観察し、ビデオに撮ったものを繰り返し見て研究するのだそうです。これは信仰の世界でも同じです。私たちがキリストのようになりたいと願うなら、いつもキリストを見つめていなければなりません。具体的には、聖書によってイエス・キリストを学び、祈りの中でイエス・キリストを深く思い見るのです。ヘブル12:2で「イエスから<目を離さないでいなさい。>」と言われていたことはヘブル12:3では、「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを<考えなさい。>」ということばで言い換えられています。テモテ第二2:8に「イエス・キリストを、いつも思っていなさい。」とあるように、キリストをいつも思い見ることが大切です。リック・ウォレン先生が『人生を導く五つの目的』に書いているように、イエス・キリストを常に思うというのは、愛し合っている恋人どうしが、お互いのことが頭から離れないのと同じようにすることです。そのようなにキリストを思い見ることによって、私たちはモデルであるキリストを真似るのです。

 しかし、モデルを真似るといっても、初心者には難しいものです。どんなに観察してもよく分からないものがあります。その人がすると簡単そうに見えることも、いざ、自分がやろうとすると、どんなにしてもできないということがあります。そんな時はどうすればいいのでしょうか。一番いいのは、コーチに来てもらうことです。モデルは遠くにいて手が届きませんが、コーチは選手のそばに離れずにいてくれます。モデルのところには出かけていってその人から学び取らなければなりませんが、コーチは向こうから自分のところに来て指導してくれます。リトル・リーグでコーチしいるのを見たことがありますが、コーチはピッチャーにボールを握らせ、その指を一本一本動かして指の位置を直し、ボールの握り方を教えてました。バッターに対しても、バッターの足もとにしゃがみ込んで足の開き方や向きを矯正していました。まさに「手をとり、足をとり」のコーチでした。主イエスは、モデルとして遠くにおられるだけでなく、私たちの側につきっきりで、私たちが信仰の競走を走るのをコーチしてくださるお方でもあるのです。主イエスが「信仰の創始者であり、完成者」と呼ばれているのは、主イエスが「信仰の創始者」としてモデルであるばかりでなく、「信仰の完成者」として、私たちの信仰のコーチでもあるということを言っています。スポーツの世界では、何度やってもうまくできないとコーチがさじを投げてしまう場合があるでしょう。しかし、信仰のコーチである主イエスは、私たちが何度失敗しようとも、決してさじを投げたりなさいません。何度でも、私たちの手をとり足をとり、忍耐をもって私たちを導いてくださいます。私たちがあきらめることがあっても、主は私たちをあきらめることはないのです。ですから、私たちも、主イエスが手をとり、足をとってくださる時、その手を払いのけて、「私はこうしたいのです。」と自己主張せず、その指導に従っていきたいと思います。「主イエスに目を留める」とは、そのように自分を明け渡し、主イエスのコーチに身を委ねることなのです。そして、主イエスのコーチに身を任せることによって、私たちは、重荷や罪から解放され、自分に与えられたコースを、最後まで走り抜くことができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちを導こうとしておられるのに、何度私たちは自分の思いを押し通そうとしたことでしょうか。あなたが私たちの主となろうとしておられるのに、何度私たちは自分で自分の主となろうとしたことでしょうか。あなたが私たちを教えようとしておられるに、何度私たちは自分の意見を押し通そうとしたことでしょうか。あなたが私たちを満たそうとしておられるのに、何度私たちは自分で自分を満たそうとしたことでしょうか。今、これらの「からみつく罪」を悔い改めています。自分自身を明け渡すことを学ばせてください。主イエスが、私たちに触れて、私たちの歩みをコーチなさる時、自分を明け渡し、それに従うことができますよう導いてください。私たちの信仰を完成に至らせてくださる、イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/31/2005