きよさにあずかる

ヘブル12:10-11

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12:10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

 先週、神が、信じる者の父となってくださること、そして、「父」としての愛をもって、神の子らを訓練してくださることを学びました。きょうの箇所では、その訓練の目的が教えられています。それは何でしょうか。10節の後半に「そのきよさにあずからせるため」とあります。神が訓練をお与えになるのは、神の子どもに、神の「きよさ」にあずからせるためだというのです。では神の「きよさ」とは何なのでしょうか。また、神のきよさに「あずかる」とは、どうすることなのでしょうか。そして、神のきよさにあずかることから、どんな「祝福」が与えられるのでしょうか。きょうは、そうしたことを順を追って学びたいと思います。

 一、神のきよさ

 「きよさ」というのは、神のご性質のひとつです。いっさいの汚れがなく、純粋で、過ぎ去っていくこの世のものから隔離されているという意味があります。「聖なる、聖なる、聖なるかな」という讃美歌にある通りです。この讃美歌は、ミサ曲の「サンクトゥス」から生まれたものですが、もとは、イザヤ6:3の天使の賛美です。天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と三度声をあげて神を賛美したので、讃美歌でも「聖なるかな」を三度くりかえすのです。しかし、なぜ三度なのでしょうか。

 じつは、ヘブライ語には比較級というものが無く、 “holy” に対して、 “holier” という場合は “holy holy” と言葉を重ねてそれを表現します。神殿には祭司が祈りをささげる場所があって、そこは「聖所」、ヘブライ語では Holy と呼ばれました。その聖所の奥に垂れ幕で仕切られた場所があり、そこは「至聖所」、ヘブライ語では Holy holy と名付けられました。「至聖所」は地上で最も聖なる場所であり、大祭司が年に一度しか入ることを許されなかったほどです。ところが神は “Holy Holy Holy” と “holy” を三つ重ねて呼ばれています。これは、神が、至聖所を超えて聖なるお方であることを表わしているのです。

 神は「聖」であるとともに、「義なるお方」であり、「愛なるお方」です。人間は、神のかたちに造られましたので、神のご性質の一部をいただいていて、「義」や「愛」を授けられています。しかし、人間の「義」はまことに不完全ですし、その「愛」は身勝手なものです。それに比べ、神の義は完全で、その愛は純粋です。別の言い方をすれば、神の義は「聖なる」義であり、その愛は「聖なる」愛です。「聖三位一体」、「聖なる恵み」、「聖なる導き」など、神のご存在やご性質、またその御業のすべてに「聖なる」という言葉をつけることができます。「きよさ」こそが、神と他のものとを区別するものであり、「聖であること」こそ、神が神であることを示すものであるといってよいでしょう。

 二、きよさにあずかる

 イザヤは、この聖なる神に出会ったとき、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫びました。イザヤは、聖なる神の前で自分の罪を認識したのです。このときイザヤが認識した罪とは、彼が犯した、あの罪、この罪のことではありません。それよりももっと深い罪、性質としての罪です。「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る」(マルコ7:20-22)と、イエスが言われたように、人が罪を犯すのは罪の性質を持っているからです。罪とは、たんに、してはいけないことをしてしまった、しなくてはならないことをしなかったというだけはないのです。イザヤは、自分が犯した罪を悔いるだけでなく、罪を犯す存在である自分自分自身を嘆いたのです。

 わたしたちは、聖なる神に出会うまでは、罪を犯していても、それを罪とは分からないでいました。しかし、神のきよさに触れ、今まで自分がどんなに大きな罪を犯してきかたを知らされました。そして、イエス・キリストを信じて、罪の赦しをいただいたあと、しばらくは赦しの喜びでこころが一杯になるのですが、やがて、自分が聖なるお方の前に、どれほど惨めで、汚れた罪びとであるかが分かるようになってきます。自分が罪そのものであるという、深い、罪の認識を持つようになるのです。そんな体験を、皆さんは持ったことがあるでしょうか。ペテロは、イエスがなさった奇蹟を目の前で見たとき、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)と叫びました。また、パウロも、神の言葉によって心を探られたとき、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫んでいます。「信仰の人」として尊敬される人はみなこの体験を持っています。この体験は、信仰者が神の「きよさ」にあずかるために必要な体験なのです。

 神の前に震えおののくイザヤに、天使が祭壇の炭火を持ってきて、その唇に触れ、イザヤをきよめました。「炭火」は信じる者のうちにきよめのわざをなしてくださる聖霊を意味します。神は、イエス・キリストによって罪の赦しを与えてくださるだけでなく、聖霊によって、罪をきよめ、罪にかえて、神のきよさを分け与えてくださるのです。

 エペソ4:22-24にこうあります。「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」神は信じる者を新しく生んでくださいましたが、その時、神は「義と聖とをそなえた…新しい人」を備えてくださったのです。それで、信者は「聖徒」と呼ばれるようになりました。神のきよさにあずかって、聖なる者とされたからです。

 聖霊は、新生の恵みによって「罪びと」を「聖徒」へと変えてくださいましたが、それで聖霊のお働きが終わったのではありません。聖霊は、信仰者たちが実際に聖なるものとなるよう、引き続き、信じる者に働き続けてくださるのです。これを「聖化」の恵みと言います。新生の恵みは瞬間的ですが、聖化の恵みは時間の中で行われます。日常のさまざなことがらの中で、多くの場合、試練や訓練を伴ってなされます。

 11節に「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」とあるように、誰も試練や訓練を好みません。しかし、神は無意味に試練や訓練をお与えになりません。それは、神のきよめのみわざのひとつなのです。11節の後半に「後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」とあるように、試練や訓練を通して行われるきよめのみわざは信仰者の将来に大きな報いをもたらすのです。

 聖書はわたしたちに過去を悔やみながらでも、明日を心配しながらでもなく、「今を生きる」ようにと教えています。しかし、それは「今が楽しければそれで良い」というものではありません。わたしたちは誰も明日どうなるかを知ることができませんが、神がわたしたちの将来を支えていてくださり、今の苦しみが将来の栄光となることを信じています(第二コリント4:17)。今、神のみこころに従うことが、将来を切り開くことを知っています。もし、人が、今という時に、神のくださる訓練を避けていたら、その人の将来はどうなるでしょうか。将来を信じればこそ、今、きよめられることを願い求めて、神のくださる訓練に従いたいと思います。

 三、きよさの祝福

 ヘブル12:14に「自らきよくなるように努めなさい」とあります。聖なる神は、わたしたちにも、きよくあるように、また、「きよさ」を求めるようにと命じてくださっています。ところが、現代では「きよくあること」など、何の役にも立たないと思われています。「きよくあること」よりも、「強いこと」、「賢いこと」、「人気があること」などが求められます。「きよくあること」を求めても、損をするだけだ。世の中で成功したいと思ったら、清濁合わせ飲むような度量がなければだめだなどと言われます。しかし、それは世の中で語られていることであって、信仰者には通用しないもの、いや、通用させてはならないものなのです。

 「きよくあること」は、何の役にも立たず、どんな益にもならないのでしょうか。いいえ、それは最も大きな益をもたらします。ヘブル12:10に「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」とあります。たましいの父である神がくださるものが、地上の誰が与えるものにまさっているのは当然です。11節に「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」とあります。「きよさ」を求める者は、悲しみにかえて喜びを、恐れにかえて平安を、罪にかえて義をいただくのです。なぜなら、そうした祝福はみな、「きよさ」から生み出されるからです。

 人の心には罪があります。その罪が形をとったものが「不義」です。不義の中には、神に対するもの、人に対するもの、そして、社会に対するものがあります。神に対するものはこの世の法律では罰せられることがなくても、神の裁きを受けなければなりません。人に対する罪も、それが心のなかだけで留まっている場合、犯罪にはなりませんが、確実に人格を損ない、家庭を壊し、社会を乱します。賄賂や改ざん、隠蔽などといった社会的不義が国を駄目にし、世界に悪をはびこらせています。これを図で描くと、次のようになります。

 【罪 Sin】→【不義 Unrighteousness】→【悪 Evil】

 悪の原因は不義であり、不義の原因は罪です。神は、悪をその根本から断ち切るため、人の心の最も奥深いところに手を差し伸べられました。つまり、罪にかえて、「きよさ」を置き、そこから正しくものを考え、感じ、語り、行動すること、つまり「義」が生まれるようにしてくださったのです。この「義」から、あらゆる良いもの、「善」がもたらされるのです。これは次のように描くことができるでしょう。

 【きよさ Holiness】→【義 Righteousness】→【善 Goodness】

 わたしたちは、何事かをしようとするとき、そのための「力」や「知恵」、「知識」を求めます。スポーツ選手には「力」や「技術」が必要です。ビジネスマンには「人とのつながり」が重要でしょう。社会的な活動をする人には「情熱」や「信念」が求められます。しかし、神がキリスト者に求められるのは、内面の「きよさ」です。「きよさ」は信仰生活の目標ですが、同時にその原動力です。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)からです。聖書が分かるのは、たんに知恵、知識によるのでなく、「きよめられた心」によります。確信に満ちた祈りは「きよい」心から生まれます。伝道も、奉仕も、内面の「きよさ」なしには実を結ぶことはありません。「きよさ」こそが、わたしたちに大きな祝福をもたらすのです。そのことを知って、まず、わたしたちの内面の霊的な部分に、そして、日々の生活の中に「きよさ」を追い求めていこうではありませんか。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(第一ペテロ1:16)と言われ、わたしたちにきよくあることを求めておられます。しかし、わたしたちには、その力はありません。わたしたちはあなたの前に罪を悔い改めてひれ伏すだけです。どうぞ、あなたの聖なる霊によって、わたしたちを聖なる者へと変えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/24/2018