ノアと箱舟

ヘブル11:7

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11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

 「ノアの洪水」といえば、聖書を読んだことのない人でも、よく知っている物語です。私は子どものころ、父親から、よく「たばこを買ってこい」と言いつけられました。踏切を渡って向う側にあるたばこ屋に買いに行きました。アメリカでは考えられないことですが、そのころの日本では子どもにもたばこを売ってくれました。父がいつも買うたばこは“Peace” という銘柄で、その箱には鳩がオリーブの枝をくわえている絵がありました。私は、聖書を読むようになって、それが、創世記8:11からとられたものであることを知りました。戦後、アメリカの文化がどっと入ってきたときに、こうした聖書のシンボルが日本のたばこの箱のデザインに取り入れられたのは、とても興味深いことです。

 多くの人は、ノアの洪水をおとぎ話のように考えていますが、これは実際にあったことです。ノアは、今から4500年前、バビロニアにいた人ですが、この時代に大洪水が起こりました。バビロニアの古代の町の発掘では、どこででも粘土層が見つかっており、これは大洪水によるものであると思われています。ウルを発掘したペンシルバニア大学のC.L.ウーリー博士は厚さ2.5メートルの水性粘土層を見つけ、その下にさらに古い時代の都市の廃墟を見つけています。オックスフォード大学のスティーブン・ラングドン博士はキシュの町の粘土層の下に、四輪の戦車とそれをひいた動物の骨を発見しました。ノアがいたと思われている町、ファラは、ペンシルヴァニア大学のエリック・シュミット博士によって発掘され、洪水層の下には彩られた土器や円筒型の印章、壺や鍋などが見つかっており、人々が高度な文化生活を営んでいたこと、その生活が突然の洪水によって滅びてしまったことが分かっています。

 ノアは洪水から救われ、その一家は洪水後の新しい世界を切り開く者となりました。それは、裁きの中にもあわれみを残しておられる神の恵みによるものですが、聖書は、ノアが信仰によってその恵みに与ったと言っています。では、ノアが救いの恵みを受け取った「信仰」とはどんな「信仰」だったのでしょうか。

 一、神とともに歩んだ

 まず、第一に、ノアは神とともに歩みました。創世記6:9では、「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」と言われています。先週学んだエノクも5:24で「神とともに歩んだ」と言われていました。二人は「神とともに歩んだ」ということで共通しています。聖書で「歩む」というのは日常の生活を意味していますから、エノクもノアも、神に喜ばれる人は、日々、神を覚え、神に祈り、神をあがめながら生活をしていたのです。

 しかし、ノアの時代は、エノクの時代にくらべ、神とともに歩くことがもっと難しくなっていた時代でした。というのは、ノアの時代には、神を信じるセツの子孫と、神を信じないカインの子孫とが混ざり合い、神を信じる人々が神を信じない人々に飲み込まれてしまっていたからです。良いものが悪いものに感化を与えて善に導くよりは、悪いものが良いものを誘惑して悪に染めていくことのほうが多いのは、古代からそうでした。神を信じる者が「地の塩」や「世の光」の役割を果たさなくなるとき、世の中は急速に悪くなっていきます。聖書はノアの時代についてこう言っています。「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。」(創世記6:11-12)

 けれども、ノアは、そのような堕落した時代、暴虐に満ちた社会でも、神とともに歩み続けました。詩篇1:1に「幸いなことよ/悪しき者のはかりごとに歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人」とありますが、ノアもまた、そのような「幸いな人」のひとりでした。神を信じない周りの人々から影響を受けることなく、信仰を守り、信仰によって日々を歩んだのです。詩篇1篇は、「歩まない」、「立たない」、「座らない」と言っていますが、信仰によって歩むには、この逆の順序をたどるといいと思います。「座る」、「立つ」、「歩む」です。まず、神の前に「座って」祈り、神との交わりのときを持つ。そして、神から頂いた御言葉を確信して「立ち」あがる。そこから、神に喜んでいただける「歩み」が始まるのです。

 皆さんは、一日の中で、神の前に座る時間を持っていますか。たとえ短くても、それはとても大切なものです。一週168時間のうち、この礼拝の時間は、その168分の1に過ぎませんが、このひととき、神の前に座り、御言葉を受けて立ち上がるなら、それは、毎日を神とともに歩む力となることでしょう。

 二、神の言葉に従った

 第二にノアは神の言葉に従いました。神はノアに箱舟を作るよう命じ、事細かな指示を与えました(創世記6:14-16)。聖書には箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトとあります。現代の寸法では、長さ135メートル、幅23メートル、高さは13メートルとなります。ノアは、このように巨大なものをたった八人の家族だけで作り上げなければならなかったのです。その上、動物たちを箱舟に入れ、その世話もしなければなりませんでした。ノアの家族の食べ物と動物たちの食べ物の準備も大変なものでした。

 しかし、ノアは神の言葉に従いました。創世記6:22は「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」と言っています。ノアは、とてもできそうもないと思えるような指示を受けたときも、感情だけで応答しませんでした。「神さま、たった八人だけで、そんな大きなものを作れるわけがありません」とは言いませんでした。「たとえ八人でも、何年もかければ、きっとできる。自分の住むところには箱舟になる材料はいくらでもあり、自分には木を切り出し、それを加工する知識も技能もある。息子たちは力があり、嫁たちも働き者だ。なにより、神が命じられたのだから、神が助けてくださるに違いない。」そのように、ノアは理性と信仰を働かせ、神の言葉を受け入れ、それに従ったのです。

 神の命令には、「どうしてこんなことを?」と思えるようなことが無いわけではありません。しかし、よく思い直すなら、神は、決して不可能なことや理不尽なことを命じられないことが分かります。この箱舟の寸法は、ノア家族と動物たちを大洪水から守るのに必要不可欠なサイズだったのです。それよりも小さければ、洪水に耐えられなかったでしょう。また、それよりも大きければ、とても洪水の日までに完成させることができなかったでしょう。神の言葉に従ったことが、ノアとその家族を守ったのです。ある人の聖書の表紙うらに、誰かが書いたこんな言葉を見つけました。「これを守れ。そうすれば、これがあなたを守る。」神の言葉を守るなら、神の言葉がその人を守るというのですが、ほんとうにその通りです。ノアは神の言葉を守り、それに従うことによって大洪水から守られました。そのように、私たちも、神の言葉に従うとき、大きな災いから守られ、救われるのです。

 三、将来に備えた

 第三に、ノアは将来に備えました。ノアが住んでいたと思えるファラという町は今日ではユーフラテス川から40マイルも離れていますが、ノアの時代には、ユーフラテス川がその町のすぐそばを流れていたことが知られています。しかし、ユーフラテス川がいくら大きいからといって、ノアが作っていた船は、そこに浮かべるには大きすぎるものでした。ユーフラテス川が氾濫するのさえも見たことのない人々は、ノアが作っている船を見て、きっと嘲笑ったに違いありません。

 しかし、ノアはやがて来る大洪水を思い描いて船を作り続けました。いつ洪水が来るか、ノアには知らされていなかったでしょう。しかし、箱舟ができあがっていくのを見ながら、ノアは、その日が、日一日と近づいているのを感じとっていたことでしょう。

 ヘブル11:1が、「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と言っているように、目に見えないものについて、それを目に見えるもののようにはっきりと認識させるもの、それが「信仰」です。過去は記憶の中にあり、現在見ているものも、瞬間瞬間に移り変わっていきます。将来のことは、目には見えません。私たちは、「見ている」といいながら、自然の現象でも、社会の状態でも、個人の人生のことでも、それらの本質は、ほんとうには見ていないのです。いや、見ることができないでいるのです。しかし、信仰は、それらを見る「視力」を与えてくれます。ノアは、他の人が見ることがなかった神の裁きの現実を、信仰によって見て、確信して、それに備えました。

 今は恵みの時、救いの日です(コリント第二6:2)。私たちはイエス・キリストの恵みによって、信仰によって救われる、ほんとうに幸いな時代に生きています。その幸いな時代は2,000年以上も続きましたが、これからいつまでも続くわけではないのです。聖書は、救いの時代の後に裁きの日がやってくると教えています。そして、イエスは、ノアの洪水のときと同じようにして、その日がやってくると言っておられます。イエスは言われました。「ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17:26-27)「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」とは、日常のことを指しています。とくに快楽を表しています。ノアの洪水の前、人々は、神を忘れて、その日、その日の快楽にふけっていたのです。社会に暴虐が満ち、人々が堕落していているのを目の当たりにしていても、裁きなど来るはずがない、自分たちの日常の楽しみは永遠に続くのだと考えていました。「見えない将来を心配するより、今をおもしろおかしく生きればよいのだ」とうそぶいていたのです。

 たしかに、イエスは「明日のことを心配するな」(マタイ6:34)と言われました。しかし、それはやがて来るものに備えることなく、気楽に生きるということではありません。イエスは、主人がいつ帰ってきてもよいように備えている忠実なしもべのようであれ、花婿が遅れたとしても、ともしびの油を切らさないで待っている賢い乙女たちのようであれと教えておられます。ノアは、信仰によってやがて来る大洪水に備えました。そのことのゆえに彼は、ヘブル人への手紙で「信仰の人」のひとりとして名前を残したのです。

 ノアは、第一に、神とともに歩む生活をしました。第二に、神の言葉に聞き従って箱舟を作りました。そして、第三に、将来を見つめ、それに備えました。ノアの信仰から学ぶことは他にもたくさんありますが、きょうは、こうしたことを覚えたいと思います。その中の一つだけでも実行して、ノアの模範に倣いたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちに信仰の模範となる人々を聖書の中に、歴史の中に、また、様々な国の様々な分野の人々の中に、そして私たちの身近にも、数多く置いてくださいました。そうした人々によって、私たちを励ましてくださることを感謝します。きょう、ノアの信仰から学んだことを、日々の生活の中で実行できますよう助けてください。私たちの信仰の導き手、イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/22/2023