アベルのささげ物

ヘブル11:4

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11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

 一、創造と時

 ヘブル人への手紙11章には「信仰によって」という言葉が21回繰り返されています。聖書の信仰者たちを例にとりあげて、信仰の素晴らしさを教えています。その最初の人がアベルです。アベルはアダムとエバの二番目の子どもです。兄はカインといいます。アダムの二人の子、カインとアベルが、それぞれに神にささげ物をしました。創世記4:3-4に、こう書かれています。「しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。」この創世記4:3の「しばらく時が過ぎて」という言葉は、あまり注目されませんが、とても大事な言葉ですので、アベルのささげ物についてお話しする前に、この言葉について、しばらく考えてみましょう。

 「しばらく時が過ぎて」というところには、ヘブライ語で「日」をあわす「ヨーム」という言葉が使われていて、直訳すると「日々の終わりに」となります。「ヨーム」は神がはじめに造られたものでした。創世記1章は、神が6日にわたって世界を創造されたと言っていますが、この「日」を造られたのも神です。「日」が存在するためには「時」そのものがなければなりません。聖書が「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)というとき、神が「空間」だけでなく「時間」をもお造りになり、この世界を時間と空間の中に定めてくださったのです。

 「時」は、創造のときから始まりました。神は創造のとき、「宇宙時計」を造って、それをスタートさせたと考えてみるといいでしょう。私たちがタイマーやアラームを設定するように、神は世界に対してのタイマーを設定しておられ、時の経過にしたがって物事が起こるようにスケジュールを組んておられるのです。時の初めがあれば、終わりもあって、神はすでにそれを定めておられます。永遠に続くかのように見えるこの宇宙にも終わりがあるのです。

 「空間」を造られた神があらゆるものの上におられ、空間に縛られることなく、どこにでも存在されるように、「時間」を造られた神は、時を超えて存在しておられます。すべてのものは時の経過によって変化しますが、神は変わることがありません。神は永遠・不変のお方です。「時」を設定されたのは神であって、神にはそれを設定しなおす権利があるのです。

 1分は60秒、1時間は60分、ですから、1日は86,400秒となり、1年は31,536,000になります。しかし、誰も1年を31,536,000秒として数える人はありません。1年を春・夏・秋・冬の季節に分け、1ヶ月ごとに区分します。1日も、午前と午後と夜、さらに眠っている時間に分けています。時計の秒針は、朝も昼も、夜も、眠っている間も同じ間隔で動いていますが、私たちにとっては、それぞれの時の流れは違います。起きているときと眠っているときでは時間の速さは違います。楽しいときの一瞬は早く過ぎ去りますが、苦しい時の一瞬はとても長く感じられます。

 かつては、天体の運行から1秒の長さが定められましたが、今日では1秒は、「セシウム133原子の基底状態の二つの超微細構造準位の遷移に対応する放射の周期の91億9千263万1千770倍の継続時間」と、国際的に定められています。何のことやらわからない定義ですが、それが、どんな定義であれ、それらは人間の間での単なる取り決めにすぎません。「時」の中に生きている私たちは、それを客観的に眺めることはできません。「時」とは不思議なもので、それを完全に理解し、解明できる人は誰もいないでしょう。「時」を定め、それをコントロールされるのはただ神だけです。聖書に「私の時は御手の中にあります」(詩篇31:15)とあります。これは、神が、私たちの人生のそれぞれの時を導いておられることを言っているのですが、それとともに宇宙の根源の時もまた神の手の中にあるのです。

 二、礼拝の時

 創世記に書かれている「時」は、「セシウム133原子の…なんとか・かんとか」といったものでなく、きわめて実用的なものです。しかもそれは、神が人間の幸いのために造ってくださったものであると言っています。創世記1章には「夕があり、朝があった。第一日」(5節)、「夕があり、朝があった。第二日」(8節)、「夕があり、朝があった。第三日」(13節)、「夕があり、朝があった。第四日」(19節)、「夕があり、朝があった。第五日」(23節)、「夕があり、朝があった。第六日」(31節)とくりかえされています。一日を労働の「朝」と、安息の「夕」に分けています。創造のとき、神が朝に働き、夕に休まれたことは、神が私たち人間に、朝に労働の楽しみを与え、夕に安息の喜びを与えるためでした。そして、神は六日の間に創造を終え、七日目に休まれ、その日を「祝福」されました。神は、この日を人とまじわり、人を祝福する日とされたのです。

 もし神が一日のすべてを労働の時間としたなら、また、一週間のすべての日を労働の日に定めたなら、人は疲れ果て、人類は滅びてしまっていたでしょう。私たちは一日の三分の一を睡眠に費やしていますが、それは、決して無駄な時間ではありません。現代の私たちは夜おそくまで起きていて、慢性的に睡眠が不足しています。それで学習や仕事の能率が下がり、病気にかかりやすくなります。幼稚園や保育所だけでなく、学校や職場でも、能率を上げるため昼寝の時間を設けているところがあるほどです。

 また、私たちには、一日のすべて労働で埋め尽くすのでなく、仕事に区切りをつけて、神とのまじわりを持つ時間が必要です。創世記3:8には「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた」とあります。「そよ風の吹くころ」とは、日が傾き、涼しい風が起こる夕方のことでしょう。この言葉は、アダムとエバが一日の働きのあとに神の言葉を聞く時を持っていたことを示しています。社会が忙しくなって静かな時を持つことの大切さが見直されていますが、クアイエット・タイムは、アダムとエバのとき以来から、人に求められていたものなのです。人は、こうした日々の神とのまじわりによって生かされるのです。

 そして、六日の労働の日々の後には、礼拝の日が待っています。それはモーセの時代に「安息日」として律法に定められましたが、安息日そのものは、アダムのときから守られていて、アダムの子どもたち、カインにもアベルにも伝えられ、教えられていたことでしょう。そうであるなら、創世記4:3の「しばらく時が過ぎて」(日々の終わりに)とは、六日が過ぎ、安息日がやってきたことを意味していることになります。NLT は、カインとアベルがそれぞれの「収穫」を持ってきたので、「しばらく時が過ぎて」を「収穫のときに」と訳しています。その日は、収穫を感謝する特別な安息日であったのかもしれません。神がこのように、礼拝の日を定めておられるのは、それによって私たちのからだにもたましいにも安息を与え、私たちが癒やされ、生かされ、強められるためです。それは、神のほうから、私たちにまじわりの手をさしのべ、私たちを祝福しようと待っていてくださることを物語っています。

 すべての日は、神が私たちの幸いのために造ってくださった日ですが、とりわけ、礼拝の日は、祝福の日、喜びの日です。詩篇118:24に「これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう」とあります。時を造り、それを支配しておられる神が、私たちと交わり、私たちを祝福するため、ご自分から時間を空けけ、日を選んでくださっているのです。神が造り、与えてくださっている一日、一日、とりわけ、礼拝の日を喜び、感謝したいと思います。

 三、礼拝と信仰

 さて、カインとアベルは、二人とも、礼拝の日に、それぞれにささげ物を持ってきました。ところが、聖書は「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」(創世記4:4-5)と言っています。二人とも礼拝の日を守っています。ささげ物を持ってきました。祈りの言葉も同じように唱えたかもしれません。見た目には何も違いません。しかし、結果は大きく違っていたのです。なぜでしょうか。その違いは、二人の心にあったようです。かつて神はサムエルに言われました。「(わたしは)…人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル第一16:7)人は、目に見える「ささげ物」に注目するかもしれませんが、神は、それを準備し、ささげる人の心をご覧になります。創世記に「主は、〝アベル〟と〝そのささげ物〟とに目を留められた」とあるように、神はアベルのささげ物だけでなく、ささげ物をささげた人の心をご覧になりました。

 ヘブル11:4は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と言っています。アベルが神にささげたものは、彼の「信仰」の心だったのです。そして、その信仰が、アベルのささげ物をカインのささげ物よりもすぐれたものにしたのです。

 では、アベルの信仰はどのような信仰だったのでしょうか。ヘブル11:1には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。信仰とは、目には見えなくても確かに存在される神を知り、認め、神に期待することだと言われています。アベルは、まず、神が目には見えなくても、アベルに礼拝をお命じになり、アベルの礼拝をお受けになるために、ここにおられると信じました。

 次に、目に見えない神は、人の目に見えない部分をご覧になることを信じ、自分の心を整えました。目に見えない神を大切にする人は、目に見えない自分の心をも大切にするのです。

 さらに、アベルは神の祝福を信じました。アベルは羊の群れの最上のものを惜しみませんでした。それは、彼が、自分の羊の群れが増え、健康に育っているのは、神の祝福によってであり、その羊の群れが、彼に与えられた神からの賜物であることを知っていたからです。神からいただいたものを神にお返しするのは当然だと考えたのです。信仰者は、目に見える幸いの背後にある目に見えない神の祝福を見ます。アベルは、信仰によって最善のささげ物を準備し、信仰によってそれをささげました。つまり、信仰の伴ったささげ物をしたのです。ささげ物と共に神への信頼の心をささげたのです。そして神はアベルとそのささげ物を喜んでくださいました。

 ところが、アベルは、カインに妬まれ、殺されてしまうのです。神を信じる者が苦しめられ、正しい人が殺される。「なぜそんなことが…」という疑問は、「正しい人」、罪のないお方、イエス・キリストの苦しみと十字架の死によってしか答えはありません。聖書は、十字架と復活の光で、アベルの死を解き明かしています。アベルの死は、罪が支払う報酬としての死ではなく、「正しい者」の死でした。ヘブル11:4は、神がアベルを「正しい」と認め、証ししてくださったと言っています。アベルは「義人」と呼ばれ(マタイ23:35)、彼の信仰は、彼の死後も語り伝えられるものとなりました。まことの信仰は、常にそれに反対する者からのチャレンジを受けます。しかし、苦しめられて終わらない、たとえ死が待っていても、そこで負わない。神は信仰者を永遠の世界に導き入れてくださるのです。

 私たちの人生の一日一日には良い日もあれば悪い日もあります。どの礼拝の日も、いつも喜び勇んで迎えることができるとは限りません。しかし、目に見えるところには失望や落胆、思い煩いや恐れがあったとしても、神は、この礼拝の日を祝福しておられます。永遠の神はかならず、それによって私たちを幸いへと導いてくださいます。礼拝の一日を通して、残りの日々もまた祝福されるのです。そうした信仰をもって、神に近づきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたが私たちを祝福し、癒やし、活かすために礼拝の時を与えてくださったことを感謝します。礼拝に臨む私たちに信仰を与え、真実をもって私たちに近づいてくださるあなたに、私たちも真実な心をもって近づくことができますよう、助け、導いてください。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と教えてくださったイエス・キリストによって祈ります。

1/8/2023