ラハブの信仰

ヘブル11:30-31

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11:30 信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。

 モーセによって導かれたイスラエルは荒野で40年を過ごしました。その間に、世代交代が進み、イスラエルの民のほとんどがエジプトを出たあとで生まれた人々になりました。モーセも世を去り、イスラエルを約束の地に導いたのは、ヨシュアでした。イスラエルがまだヨルダン川の東側にいて、カナンの地に入る前、ヨシュアは二人の偵察員を送って、イスラエルが最初に戦うことになるエリコの町を探らせました。その二人をかくまったのが、ラハブでした。

 一、ラハブの信仰

 ラハブは、エリコの町の城壁に組み込まれた家に住んでいました(ヨシュア2:15)。古代のエリコの町は、3ヘクタール(約7.5エーカー)で、そのすべてが高さ10メートルもある城壁で取り囲まれていました。その城壁は二重になっていて、外壁の厚さは2メートル、内壁の厚さは4メートルもありました。両方の壁の間隔は5メートルあって、その間に木を渡して建てられた家によって連結されていたことが分かっています。ラハブの家はそうした家の一つでした。

 二人は、こっそりと町に入り、町の様子を探りましたが、イスラエルからスパイが入ったとの知らせがあり、彼らは追われる身となり、ラハブの家に入りこみました。その情報を掴んだ役人は、ラハブに、「おまえの家に入った者たちを出せ」と言いましたが、ラハブは機転を効かせ、二人を上手に匿いました。役人が帰ったあとで、ラハブはイスラエルの偵察員にこう言いました。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。」(ヨシュア2:9-11a)

 二人の偵察員はこれを聞いて意外に思ったことでしょう。というのは、イスラエルのほうがカナン人を恐れていたからです。イスラエルは荒野を進んできて、若い人たちは兵士として登録されてはいましたが、十分な装備も訓練もありませんでした。それに比べ、カナンの町はどれも、厚く、高い城壁に囲まれ、武器、兵器も十分にあります。それに立ち向かえば、どんな反撃を受けるか、カナン人に取り囲まれて全滅の憂き目に遇うかもしれなかったからです。ところが、エリコの町の人々をはじめとして、カナンの人々のほうがイスラエルを恐れていたのです。これは、神が、「わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする」(出エジプト23:27)と言われたことの成就でした。

 私たちが何かをしようとする前に、神が先立って働いておられた。そのようなことを、皆さんも日常で体験したことはありませんか。気難しい人と交渉しなければならならず、びくびくしていた。けれども、少し勇気を出してその人と会ってみると、案外機嫌よく交渉に応じてくれた。難しい問題を処理しなければならないが、大丈夫だろうかと心配してた。ところが、やってみると、思ったより簡単に解決できた。こういう申し出をしても受け入れてもらえないだろうと、あきらめていたところ、駄目でもともとだと思って申し込むとそれが受け入れられた、などといったことです。神が、先立って物事をアレンジしてくださっていたのだということが分かって、神は真実なお方、主は約束を守られると、改めて確信できたということが、皆さんにも、きっとあったことと思います。二人は、ラハブの言葉によって、どんなに勇気付けられたことかと思います。

 ラハブはさらにこう言いました。「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:11b)これはラハブの信仰告白です。ラハブは「遊女」と呼ばれていますが、それは、カナンの神々に仕える「巫女」(かんなめ)という意味であったと思われます。異教の神々の神殿に仕える人たちは、男性は「巫」(かんなぎ)、女性は「巫女」(かんなめ)と呼ばれますが、その中には「神殿男娼」や「神殿娼婦」がいました。ラハブは神殿娼婦ではなかったと思いますが、巫女の一人だったので「遊女」と呼ばれたのでしょう。ラハブは「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです」と言いましたが、ここでの「主」は神の固有のお名前「アドナイ」(ヤーウェ)です。カナンの宗教を持つ人が、イスラエルの神、「主」だけがただおひとりの神であると信じ、そう言い表しているのは驚くべきことです。しかし、本気で宗教を実践していくと、かえって、その宗教に限界を感じるものです。今日も、真剣に自分の宗教を追求する人が、かえってまことの神を見出すということがあります。私は、僧侶から牧師になった人、神官からクリスチャンになった人を何人か知っています。ラハブもカナンの宗教に関わることによって、かえって、それらが実体のないものであり、まことの神はイスラエルと共におられる神であると信じるに至ったのだと思います。きょうの箇所に「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた」とあるように、ラハブは信仰を心に持ち、口で言い表しただけでなく、その信仰を行動によって示したのです。

 二、ラハブの救い

 偵察員がモーセのもとに帰ってから何日かして、イスラエルはヨルダン川を渡り、エリコと目と鼻の先にあるギルガルに陣を敷きました。そして、イスラエルがエリコを攻める日がやってきました。神の力によってエリコの城壁は崩れ、イスラエルはエリコになだれこみました。しかし、イスラエルの兵士たちは、ラハブの家に集まっていた人たちには手出しをしませんでした。ラハブに匿ってもらった二人が、ラハブにこう約束したからです。「見なさい、私たちはこの地に入って来ます。私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、そして、あなたの一族全員をあなたの家に集めておきなさい。あなたの家の戸口から外に出る者がいれば、その人の血はその人自身の頭上に降りかかり、私たちに罪はありません。しかし、あなたと一緒に家の中にいる者のだれにでも手が下されたなら、その人の血は私たちの頭上に降りかかります。」(ヨシュア2:18-19)

 このことは、「ノアの箱舟」を思い起こさせます。ノアのように実際に箱舟を作りませんでしたが、ラハブは彼女の家を、災いから逃れる救いの「箱舟」にしたのです。

 また、「赤いひも」は目印のためでしたが、「過越」を連想させます。子羊の血が塗られた家を災いが過越したように、「赤いひも」の下げられたラハブの家にいた者はみな守られたのです。私たちにとっての救いの箱舟、また「過越の子羊」はイエス・キリストです。「赤いひも」は十字架です。イエス・キリストが十字架で流された血が私たちの罪を赦し、きよめ、私たちに命を与えます。このように、旧約聖書には、キリストの救いを予告するものが数多くあります。

 ラハブは、家の窓に「赤いひも」をつけました。しかし、自分一人が救われればよいと考えませんでした。「赤いひも」の秘密を家族に打ち明け、親族に話し、自分の家に招きました。私たちも、イエスの十字架の「秘密」、福音を人々に話たいと思います。ラハブの言葉を聞いて信じ、彼女の家にやって来た人たちは皆救われています。同じように、イエスのもとに来る人は誰一人救いから漏れることはないのです。

 三、ラハブの祝福

 戦闘が終わって、ヨシュアは偵察に行った二人に命じました。「あの遊女の家に行き、あなたがたが彼女に誓ったとおり、その女とその女に連なるすべての者を連れ出しなさい。」(ヨシュア6:22)聖書は続いて、「しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである」と書いています(ヨシュア6:25)。ラハブはカナン人であっても、イスラエルの神を信じる信仰によって、神の民の一員となったのです。

 この後、旧約聖書には再びラハブの名が出ることはありませんが、新約聖書の一番はじめに、もう一度ラハブの名が出てきます。マタイ1:3-6にこうあります。「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。」ユダは、ヤコブの子で、イスラエルの十二部族の筆頭、ユダ族の先祖となった人です。ユダの子どもにペレツが生まれました。ユダとペレツはヤコブとともにエジプトに移住しました。何世代かたって、ナフションの時に、イスラエルはエジプトを脱出しました。エジプトを脱出した世代は荒野で世を去りましたので、ヨシュアに導かれてカナンの地に入ったのは、ナフションの子、サルマということになります。ラハブは、このサルマと結婚しました。

 このサルマの子がボアズで、ボアズも、モアブの女性ルツと結婚し、二人の間に生まれたのがオベデ、オベデの子がエッサイ、その子がダビデです。イエス・キリストは、このダビデの子として世に来られましたから、ラハブは、イエス・キリストの祖先の一人となることによって、救い主が世に来られるために用いられたのです。

 ヘブル人への手紙は、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセなどを「信仰の人」としてとりあげてきましたが、みな男性でしたが、最後には女性のラハブをとりあげています。しかも、彼女は、イスラエル人ではない人です。このことは、人が信仰を持ち、救われるのに、男性も女性も、人種も血筋も関係がないことを教えています。救われて神の祝福を受け、それを人々に分け与えるのに、教育も、職業も、社会的なステータスもまた、関係がないのです。

 ヘブル11:33-34に「彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました」とあります。この中の「弱い者なのに強くされ」という言葉に注目しましょう。私たちは、聖書の信仰者を見るとき、「あの人たちは強い人たちだったから、信仰に生きることができたのだ」と思いがちです。しかし、実際はそうではありません。今まで見てきた信仰者たちは、もとから強い人ではありませんでした。信仰を持つのにも、その人の強さや弱さは関係がないのです。自分の弱さを知る人ほど神に頼ります。そして、その神への信頼、信仰によって強くされるのです。いや、全能の神が、信じる者を強くしてくださるのです。ラハブの信仰から、そのことを学び、さらに神への信頼を深めたいと思います。

 (祈り)

 恵み深い神さま。信仰に生きた人々の実例を通して、私たちに「信仰」とは何なのかを教えていただきありがとうございました。それを学べば学ぶほど、あなたがどんなに力強く、恵み深く、真実であられるかを思います。私たちの信仰は、あなたの力を受け、あなたの恵みに与り、あなたの真実と結びつく器に過ぎません。自分の強さを誇ることも、弱さを嘆くこともせず、ただあなたに頼り、あなたに繋がる信仰へと導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/30/2023