天のふるさと

ヘブル11:13-16

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11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 以前、織田泰博先生を迎えて、賛美の集いをしたことがあります。なつかしい賛美の数々を歌いましたが、「ふるさと」も歌いました。

兎追いし、かの山、子鮒釣りし、かの川、
夢は今も巡りて、忘れがたきふるさと。
いかにいます父母、つつがなしや友がき、
雨に風につけても、思いいずるふるさと。
こころざしをはたして、いつの日にか帰らん、
山はあおきふるさと、水は清きふるさと。
この歌は、大正三年六月に「尋常小学唱歌」として出版されたものですが、日本人の心にしみこんでいる歌で、多くの人が、「ふるさと」を歌いながら涙ぐんでいました。そこに集まっていた人たちは、戦後まもなく船に乗ってアメリカに来た人たちばかりでした。今は、飛行機で簡単に日本に行くことができる時代ですが、当時は、簡単には日本に行くこともできず、毎日、海を見ながら、「ああ、あの海の向こうに日本があるのだ。」と思いながら生活してきた人ばかりでした。十年以上も日本に行っていない人々が多くいましたから、「ふるさと」に感動するのももっともです。織田先生は、「みなさんは、クリスチャンなのに、賛美歌を歌っても感動しないで、『ふるさと』で涙を流すとはどういうことですか。」と言いました。これはもちろん冗談で、織田先生も、そこにいる人々の気持ちをよく知っていました。

 聖書も、私たちに「ふるさと」を教えています。聖書の教える「ふるさと」とは何でしょうか。私たちは、その「ふるさと」に、どのように向かっていけばいいのでしょうか。そのことをご一緒に学びましょう。

 一、天のふるさと

 ヘブル11:13に、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」とありますが、「これらの人々」とは、誰のことでしょうか。神を信じる人々のことですが、とくにアブラハムやイサク、ヤコブといった神の民の先祖たちのことを指していると思います。

 アブラハムは、生まれ故郷、カルデヤのウルを後にして、はるばるカナンの地まで旅してきました。アブラハムは、多くの家畜の群れやしもべたちを持っており、カナンでも一目置かれるほどの有力者になっていたのですが、アブラハムは、カナンには、自分の土地を持っていませんでした。アブラハムが唯一所有したのは、妻サラの墓地として、ヘテ人エフロンから買い取ったマクペラの洞穴だけでした。アブラハムは、神から「カナンの土地は、おまえとおまえの子孫に与える。」という約束を与えれていました。実際にカナンの土地を手にはしませんでしたが、神の約束がかならず実現することを堅く信じていました。それで、ヘブル11:13は「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」と言っているのです。

 ところで、ここで、「信仰の人々として死にました。」と言っているのは、興味深い表現です。「信仰の人として生きた。」と言うほうが、分かりやすい気がしませんか。実際、ヘブル人への手紙11章は「信仰の章」と言われるように、「信仰によって」という言葉を繰り返し、繰り返し使って、旧約の聖徒たちが、どのように信仰に生きたかを示しています。「信仰の人々として死にました。」という表現は、この人たちが、信仰に生きただけでなく、信仰を抱いて死んだということを示しています。死にいたるまで信仰を保ち続けたのです。主イエスはヨハネの黙示録で「死に至るまで忠実であれ。」と命じておられますのに、時々、年配のクリスチャンが、神への真実も人への愛も忘れてしまって、「わしも若いころは、教会に熱心に通ったものじゃ。」と話すを聞くことがあり、さみしい思いをすることがあります。一般に、アメリカでは、「教会は、若者たちが悪いことに走らないためにおもりをするところ」と考えられていて、信仰は、若い人たちには意味があるが、年配者にはいらないと言うのを耳にしたことがあります。もちろん、若い人に信仰は必要です。しかし、年配者にはさして必要ないと言うことはできません。人生のしめくくりの時こそ、信仰が必要なのです。地上を去って神の前に立つ時が近づいていればいるほど、もっと信仰を高めていく必要があるのではないでしょうか。人々が姦淫の現場で捕まえた女性を連れ来て、「モーセは、このような女には石打ちにするよう命じているが、あなたは、何と言うのか。」とイエスに迫りました。主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。それを聞いた時、人々は、手に持った石を捨てて、その場から立ち去っりましたが、聖書は、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き…」と書いています。この世に長く生きているということは、それだけ多く罪を犯しており、自分の罪を知っているということです。だからこそ、多く赦され、さらにきよめられなければならないのです。年長者にこそ、赦しを得させ、きよめへ導く信仰が必要なのです。世の中のものは、最初は何かに熱中していても、徐々にその熱が冷めてくるものです。年をとると、情熱を傾けるものがなくなってくるとも言われます。しかし、神への愛は、最初は熱くても、あとはしぼんでいくというものではないはずです。それは年齢を重ねれば重ねるほど、いよいよ深くなっていくものです。私たちも、死に至るまでも信仰を保ち続け、「信仰に生きた」と言われるだけでなく、「信仰者として死んだ」と言われたいと思います。

 「信仰の人々として死んだ。」というのには、もうひとつの意味があります。それは、「死のかなたにあるものを待ち望みながら死んだ。」という意味です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、約束されたカナンの地を手にしませんでした。カナンの土地は、彼らから何世代の後の子孫が、やっとそれを受け継いだのです。では、アブラハムやイサク、ヤコブには、何の報いも無かったのでしょうか。彼らには受け継ぐものが無かったのでしょうか。いいえ、聖書は、「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」と言っています。神は、新約時代の私たちと同じように、旧約の信仰者たちも、永遠の神の国を与えてくださったのです。今年もメモリアル・デーを迎えるにあたって、私たちは、先に主のみもとに召された多くの方々のことを思って、この礼拝に集っています。それらの方々は、信仰の人として「生きた」だけでなく、天のふるさと、神の都を告白しながら、信仰の人として「死んだ」かたがたでした。私たちも、彼らの後に続きたいと思います。信仰者として生き、信仰者として死ぬ、そのような決意を新しくしたいと思います。

 二、ふるさとで生まれる

 さて、「ふるさと」というのは「生まれ故郷」と言うように、そこで生まれたところを指します。さきほど、私たちに天のふるさとが約束されているということを確かめました。神を信じる者の「ふるさと」が天にあるということは、私たちがどこで生まれていようと、信仰者としては、天で生まれたということを教えています。ある人は、東京で生まれ、ある人は大阪で生まれ、あるひとは福岡で生まれたかもしれません。カリフォルニアの人、シカゴの人、オレゴンの人もいるでしょう。しかし、この地上のどこで生まれた人でも、キリストを信じる者は、みな、ひとつのところ、天のふるさとを持っているのです。

 ヨハネ1:17はこう言っています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」「この方」とはイエスのことです。「その名を信じる」とは、イエスが「キリスト」であり、「神の子」であり、「主」であることを信じることです。そして、御子キリストを信じる者は、「神の子ども」として、父なる神から、聖霊によって生まれたのです。天におられる神から生まれたのなら、天が「ふるさと」「生まれ故郷」になるのです。

 水曜夜の祈り会では、詩篇を一篇ずつ黙想しており、数週間前は、詩篇87篇でした。短い詩篇ですから、全部読んでみましょう。

主は聖なる山に基を置かれる。
主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。
「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。
見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。
これらをもここで生まれた者として。」
しかし、シオンについては、こう言われる。
「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。
こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。
主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。
踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。
ここには、神を信じる者は、たとえ、エジプト人でも、バビロン人でも、また、ペリシテやツロ、そしてエチオピアで生まれた者であっても、みな、神の都で生まれた者たちだと歌われているのです。地上のエルサレムは、天の都の象徴です。「しかし、シオンについては、こう言われる。『だれもかれもが、ここで生まれた。』と。」と詩篇にあるのは、キリストを信じる者は天で生まれることの預言になっています。ですから、私たちは、先に召された人々を「天に行った。」とは言わず、「天に帰った。」と言うのです。父なる神がおられる天は、神の子どもたちが帰るべき「ふるさと」なのです。私たちは、まだ地上にいますが、信仰の目で、まだ見ぬ「ふるさと」をはるかに望み見ながら生きるのです。

 三、ふるさとへの旅

 日本の古典に、「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。」とあるように、人生が旅であり、私たちは旅人であるという考え方は、日本人にはなじみ深いものです。しかし、同じように人生を「旅」と捕らえても、日本的なものと、聖書とでは、視点が違うように思います。日本の思想では、人生の旅の行き着く先が見えてきません。しかし、聖書は、はっきりと行き先、終着点をしめしています。それは「天のふるさと」です。また、日本には「旅の恥は掻き捨て。」という、あまり好ましくないことばがありますが、聖書では、天のふるさとを目指す旅人に対して、厳しい節制が教えられています。たとえば、ペテロ第一2:11ー12に「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」とあります。

 また、日本の思想で、「旅人」と言えば、身分も立場も定まらない、浮き草のような存在ですが、聖書では、神を信じる者は、この世では「旅人」であっても、天に国籍を持つ神の民であると教えています。ペテロ2:12で「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と言われているのは、キリストを信じる者たちが神の民であるということが前提になっています。ペテロの手紙第一は、ユダヤ人に対してばかりでなく、もとは「異邦人」と呼ばれていた人々に対しても書かれたものです。異邦人クリスチャンに「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と言われているのは、クリスチャンは、もはや異邦人ではなく、神の民となったからです。ペテロ第一2:10に「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」とある通りです。

 私たちは、行く先も、目的もなく、地上をさまよう旅人ではなく、神から、使命を与えられて地上に遣わされている者たち、神の国の大使です。外交官は、一般のパスポートとは別の、特別なパスポートを支給されます。民間人でも、政府の依頼を受けて外国に行く時には、特別なパスポートが与えられるのです。日本では、外交官のパスポートは表紙が濃い茶色で DIPLOMAT と書かれており、公用の場合は緑色で OFFICIAL と書かれています。クリスチャンも、神の国に国籍を持つ者として、神から使わされた大使として、特別なパスポートを与えられて、その使命を果たしています。私たちの教会のルーツと言ってもよい、OMSIの創設者カウマン夫人は、「天を持つ者は地をも持ち、天を失う者は地をも失う。」という、意味深いことばを残しています。天にふるさとを持ち、神の民としての自覚を持つものは、地上でも確かな歩みをすることができます。しかし、天のことを考えず、神への信仰を捨て、地上の富やこの世での成功だけを求める者は、地上でも、ほんとうに意義ある生き方や、ほんとうの成功を得ることはできないというのです。「天を失う者は地をも失」います。しかし、キリストを信じ、神に頼る私たちは、天にふるさとを持ち、それゆえに、この地上の生活を意味と目的を持って生きることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、今日のメモリアル・サンデーに、アメリカの自由を守るために、また、人々の命を守るために、生き、また死んでいった多くの人々を覚えて感謝いたします。私たちの身近な人々もまた、コミュニティーのために、家族のために、それぞれに、その命をささげて、生き、死んでいかれました。私たちもまた、神の民として、神から遣わされた大使として、喜んで、払うべき犠牲を果たすことができるよう、助けてください。天のふるさとをしっかりと見上げ、そこに帰るべき日まで、あなたのわざに励むものとしてください。私たちの霊的な自由と命のために、その命をささげてくださったイエス・キリストを覚え、そのお名前で祈ります。

5/29/2005