仕事にとりかかった

ハガイ1:12-15

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1:12 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。
1:13 そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。──主の御告げ。──」
1:14 主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。
1:15 それは第六の月の二十四日のことであった。

 一、妨害と困難

 バビロンに捕虜となって連れていかれたユダヤの人々は、ペルシャのクロス王の勅令によって、エルサレムに帰り、主の宮の再建にとりかかりました。それは順調に進み、短い期間に基礎が据えられました。人々は主を賛美し、主に感謝し、互いに喜び合いました(エズラ3:11)。

 ところが、すでにエルサレム周辺に住んでいた人々はユダヤの人々の帰還を好まず、神殿の再建を妨害しました。彼らはペルシャの「議官たちを買収して」(エズラ4:5)、クロス王の勅令が実行されないようにしました。そのうち、ペルシャの政治はクロス王から息子のカンビュセスに譲られ、クロス王の勅令が忘れられるようになりました。カンビュセスのあと、ペルシャの王となったダリヨスの第二年目まで、神殿の工事は中断されたままとなりました(エズラ4:24)。このダリヨス王は「ダレイオス大王」あるいは「ダレイオス一世」と呼ばれる人で、紀元前522年に即位しましたから、その二年目は紀元前520年になります。クロス王の勅令が紀元前538年、神殿の基礎ができたのが紀元前535年ころですから、神殿工事はおよそ15年ほど中断されていたことになります。

 工事が中断されていた15年の間、ゼルバベルは様々に手を尽くし、自らもペルシャの都とエルサレムを行き来したことでしょう。けれども、政治的な努力だけでは、物事は打開しませんでした。そうした間に、人々は最初に持っていた情熱を失くし、あきらめの気持ちを持つようになったのです。「今はまだ時ではない。まずは自分たちの生活を安定させよう。神殿の工事はそれからでもいいのではないか」と考えるようになりました。

 私たちの人生には、どんな事柄においても、妨害や困難はつきものです。もし、私たちがそのつどあきらめていたら、何事も成し遂げることができません。ペリー提督は七回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、あきらめないでもう一度挑戦し、八回目に北極点に到達しました。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試し、最後に日本の竹から作ったものを使ってやっと電球を灯すことができました。ユリシーズ・グラントは、軍務についている時に酒を飲み、酔っ払ったため、軍を辞めさせられました。それでビジネスをしましたが、失敗し、農業も試してみましたが、それも失敗しました。彼は、働き盛りの四十代に、薪ひろいをし、それを道端で売っていたのです。しかし彼はあきらめませんでした。南北戦争のときリンカーンに認められ東部戦線の指揮官となりました。リンカーンが暗殺され、副大統領だったアンドリュー・ジョンソンが第17代大統領となりましたが、ユリシーズ・グラントは彼の後、第18代大統領となり、二期つとめるまでになったのです。

 イエスは種蒔きの譬の中で、岩地に落ちた種と、茨の中に落ちた種について説明して言われました。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:20-22)人は「困難や迫害」という外から来るもの、また「この世の心づかいと富の惑わし」という内から来るものにどんなに弱いかを、イエスはご存知でした。「私は大丈夫」と言っている人が案外、真っ先にくじけてしまったり、思い煩ったり、誘惑に負けてしまったりするものです。だからこそ、私たちは、自分の力に頼るのではなく、神の力に信頼するのです。私たちは困難に直面する時、じたばたしがちですが、そんな時こそ、神を想い、神に祈って、静かに時を待つのが良いのです。そうする時、私たちはつまづきやあきらめから立ち上がり、困難を乗り越え、妨害に負けずに歩むことができるようになるのです。

 二、預言による励まし

 さて、神殿の再建はまわりの人々によって妨害されましたが、それを一番妨げていたのは、じつは、神の民自身の不信仰でした。信仰を失くしてしまったら、どんなによい条件が揃っていても物事をやりとげることができなくなります。それで、主は、人々の信仰を励ますため、預言者ハガイを通して、人々に語りかけてくださいました。その語りかけはダリヨス王の第二年第六の月の一日から始まって、第七の月の二十一日、第九の月の二十四日にわたっています。それを記録したのが、「ハガイ書」という預言書なのです。

 ハガイ1:1−11にある最初の預言は、人々に悔い改めを迫るものでした。人々は「まずは自分たちの生活を安定させよう」と考え、それを第一にしましたが、結果は、みじめなものでした。頑張っても、頑張っただけの報いが帰ってこなかったのです。「多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」(ハガイ1:6)「あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。」(同1:9)と主は言われました。日本のことわざに「骨折り損のくたびれ儲け」というのがありますが、人々の生活はそのようだったのです。なぜそんなことになったのでしょう。主は言われます。「それはなぜか。──万軍の主の御告げ。──それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」(同1:9)物事は人間の努力だけで達成できるものではありません。私たちの努力は、その上に神の祝福があってはじめて実を結ぶのです。人々は、主の宮のことを後回しにしたため、その祝福を失っていたのです。

 ハガイ1:4に「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(同1:4)とあります。エルサレムの住宅はたいていは石造りで、材木の少ないこの地方では、「板張りの家」は贅沢なものでした。人々は、材木を自分の家のためには材木を使っても、主の宮のために調達しようとしなかったのです。それで、主は言われました。「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」(同1:8)この言葉の通り、誰であっても、神のことを第一にするとき、その人の生活に祝福がくだります。それは、この時代ばかりでなく、現代も同じです。

 人々は、この言葉を聞いて悔い改めました。「悔い改める」とは、方向転換することです。間違った方向に向かっていることを認め、正しい方向に舵を切ることです。人々は、自分たちのことだけに目を向けるようになっていましたが、神の宮のことに目を向けるようになりました。妨害や困難だけを見ていましたが、「宮を建てよ」と命じ、そのために力を与えてくださる主なる神を見上げるようになりました。そして、その心を奮い立たせ、「彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった」(同1:14)のです。

 聖書に「奮い立つ」あるいは「奮い立たせる」という言葉は40回ほど使われていますが、それは、神が人の霊に働きかけ、勇気や力を与えてくださることを意味しています。「彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った」(同1:12)とあるように、人々は神の言葉に聞き従うことによって、聖霊の力を受けたのです。また、「民は主の前で恐れた」(同1:12)とあるように、主を恐れることによって、妨害や困難をも恐れず、「仕事に取りかか」ることができました。

 私たちが物事をやり遂げることができないのは、たいていの場合、「本当に大丈夫なんだろうか。うまくいかなかったらどうしょうか」などという恐れに捕まえられ、そこから先に進もうとしないからです。同じところで足踏みしていても前に進むことはできません。信仰のことではとくにそうです。神の言葉によって、また、神の言葉とともに働いてくださる聖霊に心を奮い立たせられて、一歩を踏み出そうではありませんか。

 三、神による成就

 エズラ記は、神殿工事が再開されたことを次のように書いています。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」(エズラ5:1-2)これを見たまわりの地域の総督や知事たちは早速、ダリヨス王に訴えを起こし「ユダヤの民は、クロス王の命令によって神殿を再建していると言っていますが、ほんとうにクロス王からの命令があったかどうか、お調べください」と書き送りました(エズラ5:17)。反対者たちは、クロス王の勅令など見つかるはずがないと思っていたのです。

 ところが、ダリヨス王が記録を調べさせたところ、神殿再建についてのクロス王の命令が見つかったのです。そこで、ダリヨス王は、ユダヤの人々を訴えた総督や知事たちに、神殿再建の費用を負担し、貢物を出すようにと命じました。さらに、その命令に背くものは死刑にするという罰則までも定めたのです。ユダヤの人々を訴え出た人々には、それが「やぶへび」になったのです。ユダヤの人々は、政治的な働きかけによってではなく、ただ神に信頼し、神の言葉に従って「仕事にとりかかり」ました。神は、その信仰に報いて、ダリヨス王の心を動かし、万事を益にしてくださったのです。

 このようにして、神殿は、「ダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日」(エズラ6:15)、工事の再開から五年目に完成しました。エズラ6:14には「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨス…の命令によって、これを建て終えた」とあります。聖書は、「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって」、「イスラエルの神の命令により」、また、「クロスと、ダリヨス…の命令によって」主の宮を建て終えたと言っています。「ペルシャ王の命令」よりも、「神の命令」を先に置いています。神殿の再建には、総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイとゼカリヤ、クロス王やダリヨス王、そしてペルシャから帰ってきた五万人の人々など、大勢の人が関わっています。しかし、それらの人々を動かし、王たちを導き、預言者に言葉を与えたのは神です。この神が命じられるとき、物事はその言葉のとおりに実現していくのです。イザヤ55:10-11にこうあります。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

 神はイスラエルの人々を励まし、その信仰に報いて、神殿を再建させてくださいました。同じ神が、今も、私たちに、力ある言葉で語りかけておられます。神のためになすべき務めを果たすようにと励ましてくださっています。私たちがそれに答えて与えられた務めにとりかかるなら、神がそれを完成させてくださると約束してくださっています。神殿の再建を成し遂げた人々と同じように、私たちも、この神の言葉に聞き従い、神の言葉が実現するのを見せていただきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま。あなたは御言葉によりすべての物を造り、世界を導いておられます。私たちが行き詰まりを覚えて悩む時や、自分の限界を感じて嘆く時、あなたの力ある言葉によって、そこから立ち上がらせてください。そして、御言葉の約束の通りの幸いと祝福とを見ることができますよう、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/19/2020