摂理の神(二)

創世記50:15-21

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50:15 ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。
50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った、「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました、
50:17 『おまえたちはヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちはあなたに悪をおこなったが、どうかそのとがと罪をゆるしてやってください」』。今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」。ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた。
50:18 やがて兄弟たちもきて、彼の前に伏して言った、「このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」。
50:19 ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。
50:20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。
50:21 それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

 一、創造

 聖書は創造の神を教えています。この世界は、目に見えるものも、見えないものも、すべて神がお造りになりました。科学者たちは目に見える世界を探求し、そこに見事な秩序があることを発見してきました。そしてそれをあるいは数式で、あるいは化学記号で表してきたのです。しかし、そうした数式や化学記号は、この世界の成り立ちを表わすことはできても、その起源、目的、意味について何も語ることはできません。科学の言葉では、この世界とそこにある現象がどのような仕組みであるかを述べることはできても、その仕組みがどこから来たのか、それにはどんな目的があり、意味があるのかを語ることはできません。

 それで聖書は、世界の創造を説明するのに、科学の言葉ではなく、「物語」の言葉を使いました。それによって、この世界が神により、目的をもって造られた、だから、そこには意味があるということを教えるためです。

 創世記1:14に「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」とあります。この光は太陽や月、星のことです。太陽はそこに百万個以上の地球が入る大きさですが、それは地球のように鉱物ではできておらず、水素とヘリウムから成り立つガス体です。それは絶えず燃え続けており、太陽の中心部の熱は華氏で二千七百万度あると言われています。

 地球と太陽の距離は、人間が生きて行くために、きわめて正確に設定されています。もし地球がもう少し太陽に近ければ、水は沸騰、蒸発してしまいますし、地球がもう少し離れていれば、水は凍って、水として働かなくなります。また、地球は24時刊に一回、自転しています。赤道での速度は、時速1,034マイルにもなり、ジェット機よりも早い速度です。そのために、一つの面だけが太陽に照らされるのでなく、全部が太陽に照らされます。また、地球のち軸は23.5度傾いて、太陽のまわりをまわっています。そのため、春・夏・秋・冬の季節が生じるのです。じつに、聖書が言うように、天体は「季節のため、日のため、年のため」という目的をもって、配置されているのです。聖書は天体について「神はこれらを天のおおぞらに<置いて>」(創世記1:17)と言っています。この「置く」という言葉は、神が天体を絶妙のバランスで配置されたことをさしているのかもしれません。

 ある天文学者が太陽系の模型を作りました。電源を入れると、惑星がぐるぐると太陽のまわりを回るようにできていました。友人がその人のところにやってきて、その模型を見て言いました。「これはよくできているね。誰が作ったんだい?」天文学者は答えました。「自然にできたのだ。」友人は、自分がからかわれていると思って、言い返しました。「そんなことはないだろう、こんなによく出来ているものが、自然にできるはずがない。君が作ったんだろう?」それで、天文学者は言いました。「そうさ、これは僕が作った模型だよ。模型でさえ自然にはできないとしたら、本物の宇宙が自然に出来たと考えるのはおかしいと思わないかい?」そう言って、神の創造を信じる天文学者は、友人に神のことを話したということです。神の創造以外に、この世界の起源、目的、意味についての満足のいく答えはありません。

 二、摂理

 すべてのものには「原因」があって、「結果」があります。それで、哲学者たちは、創造者である神を「第一原因」と呼びました。そして、「神はすべてのものを動かすが、自らは何者によっても動かされない存在」と言って、「神」を定義しました。しかし、この「神」は、論理上の「神」でしかありません。神は、世界を造った「第一原因」であっても、創造のあとは世界から手を引き、世界が与えられた法則にしたがって動いていくのに任せてしまっている」ということになります。これは、職人が時計を作ったあとネジをまいたあとは、それが時を刻むままにしているのと同じであると説明されます。

 「神は世界を創造した。しかし、神がこの世界に干渉することはない。」このような考え方を「理論上の神」と書いて「理神論(りしんろん)」と言います。「理神論」は17世紀から18世紀にかけて盛んに唱えられたものですが、それは聖書の教えるところとは異なります。神は、世界を創造された後も、この世界に働きかけ、それを支え続けておられるお方です。とりわけ神は、ご自分のかたちに造られた人間を特別に愛して、ひとりひとりの人生を導いてくださっています。

 太陽、月、星などが神の栄光を語り伝えると言っても、そうした天体は、神を思うことも、自分が神から造られたものであることを自覚することはできません。しかし、人間は、大宇宙の中で、ほんのちっぽけな存在でしかありませんが、人間は、自分よりも大きな宇宙を研究の対象とすることが出来る、理性を持ったものです。そればかりでなく、人間は、自分をはるかに超えた神を思い、神を知り、神を愛することができるものとして造られているのです。それで神は人間に語りかけ、その人生に手を差し伸べて、人間が、神から与えられた目的を果たすことができるように導いてくださるのです。

 神が、この世界と人類の歴史、また、ひとりひとりの人生を導いてくださっている。このことを、わたしたちは「摂理」と呼んでいます。世界が偶然によって造られたものでないように、わたしたちの人生に起こることもまた、たんなる偶然の積み重ねで成り立っているのではなく、そこに、神の摂理が働いているのです。このことを知る人は、どんな逆境の中でも決してへこたれることはありません。そのことを教えているのが、創世記のヨセフの物語なのです。

 三、信仰

 ヨセフは、ヤコブの十二人のこどもの下から二番目でしたが、兄弟にねたまれ、エジプトに奴隷として売られました。いったんは、主人の家で管理人の立場に立つのですが、無実の罪を押し付けられ、囚人になってしまいました。ところが、囚人から、エジプトの宰相になるのです。そして、宰相となったヨセフは、ヤコブの一族を、当時その地方を襲った飢饉から救いました。

 ヨセフは、エジプトに食糧を買いにきた兄弟たちに、会ったとき、自分がヨセフであることを明かして、こう言いました。「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。」(創世記45:4-8)

 ヨセフは、「お兄さんたちは、私をエジプトに売り飛ばしたが、私は頑張って、エジプトを治める者になりましたよ」などとは言っていません。自分が今、エジプトにいるのは、「兄たち」のせいでも、「自分」の努力によってでもない、「神」の摂理によるのだと言っています。ヨセフは「神」を中心に物事を考え、行動しています。「神が…」と神を主語にして物事を考えているところに、ヨセフの神の摂理を信じる信仰が表われています。

 ヨセフのこの信仰は、一時的なものではなく、終生変わらないものでした。りませんでした。ヤコブがエジプトで亡くなったとき、兄弟たちは、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」と考え、ヨセフの仕返しを恐れました。しかし、ヨセフにはそんな気持ちは全くありませんでした。ヨセフはすでに兄弟たちを赦していました。ヨセフは、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(19節)と言って、兄弟たちを慰め、優しく語りかけています。

 このヨセフの言葉は、新約聖書のローマ8:28で、すべての信仰者にあてはまる真理として、言い換えられています。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ヨセフの物語は実に感動的です。この場面はまるで映画のラストシーンのようです。ヨセフの物語を読むとき、ヨセフの忍耐や赦しから多くのことを教えられます。しかし、ヨセフの物語で忘れてはならないのは、神が「万事を益としてくださる」摂理の神であるということです。そして、ヨセフが、神が摂理の神であることを「知っいて」、この神を「愛する者」であったということです。ヨセフが、逆境の中で忍耐することができ、自分を殺そうとした兄弟たちさえ赦すことができたのは、この摂理の神を知り、信じていたからです。

 わたしたちも、創造の神を信じて、人生の意味と目的を見出しましょう。摂理の神に信頼して、神から与えられた目的のために生きる力を受け取りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、太陽、月、星でさえ、目的をもって造られました。人間には、あなたに愛され、あなたを愛するという、もっと素晴らしい目的を授けてくださいました。そして、あなたは、わたしたちが、その目的にかなった人生を送ることができるため、数々の恵みを、あらかじめ備えてくださいました。どうぞ、そのことを知り、信じ、あなたの摂理に導かれて生きるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/12/2017