ヨセフ―信仰の勇者(5)

創世記50:15-21

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50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。
50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 今朝は、ヨセフの生涯のほんの一部分だけを読んでいただきましたが、ヨセフのことは、創世記37章以降にくわしく書かれており、創世記のおよそ四分の一を占めています。ヨセフの生涯は、とても興味深く、しかも、いじめやセクシャル・ハラスメントなどといった現代的な主題があります。この夏の「聖書を読む会」では、ヨセフの生涯を二回にわけて読みました。みなさんも、ぜひ、読んでいただきたいのですが、まだこの部分を読んでいない方のために、ヨセフの生涯をかいつまんでお話ししておきましょう。

 一、ヨセフの生涯

 ヨセフは、ヤコブの十一番目の男の子でした。年をとってから生まれた子どもだけに、ヤコブはことのほかヨセフを可愛がりました。ヨセフの十人の兄たちは、父親がヨセフだけをひいきにするので、ヨセフをねたみました。この時、兄たちはそれぞれ結婚して自分の家族を持ち、父親から独立して生活していました。ですから、まだ少年のヨセフを父親がかわいがっているのを、あたりまえのこととして受けとめるべきだったと思うのですが、人間の心というものは複雑で、ヨセフとは親子ほども年の離れていた兄たちが、年若いヨセフを憎むようになったのです。

 兄たちの憎しみが頂点に達したのは、ヨセフが、自分の見た夢を話した時でした。ヨセフは「畑で束をたばねていると、私の束が立ち上がり、お兄さんたちの束がわたしの束のまわりに来ておじぎをしました。」と言うのです。それを聞いた兄たちは「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」と言って怒りました。ところが、ヨセフのほうは、自分が憎まれていることに少しも気づかないで、もうひとつの夢をも兄たちに話しました。それは、太陽と月と十一の星がヨセフにひれ伏しているというものでした。それが、両親も兄弟もヨセフの前にひれ伏すようになるという意味であることは、誰にも分かりました。それで、兄たちは機会があればヨセフを殺してやろうと思うようになったのです。聖書にはねたみから憎しみへ、憎しみから殺人へと拡大していく、人間の心が良く描かれていますね。こうしたことは、いつの時代にもあり、現代では、いじめや差別という形をとって表われています。聖書は現代の社会を描いているのではないかと思われるほど現実的で、驚くことが良くあります。

 さて、ヨセフは、家から遠く離れた場所で、兄たちに殺されそうになるのですが、ちょうどそこにエジプトに向かうキャラバン隊が通りかかり、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいました。兄たちは、ヨセフから剥ぎ取った着物に動物の血を塗りつけて、父親には、ヨセフは野獣に殺されたと、告げました。

 不幸中の幸いとでも言うのでしょうか、エジプトでヨセフはパロ(ファラオ)の侍従長に買われ、やがて、その家のすべてを管理するまでになりました。ところが、侍従長の妻がヨセフに目をつけ、ヨセフを誘惑してきました。聖書は「ヨセフは体格も良く、美男子であった」と言っていますので、彼女の目にとまったのでしょう。ヨセフは誘惑を避けようとするのですが、侍従長の妻はヨセフの上着をつかんでヨセフにしつこく迫り、ヨセフは上着を残したままその場を逃げ出しました。侍従長の妻は、夫が帰ってくると、その上着を持ち出して、ヨセフが彼女に手を出したと訴えました。ヨセフは、奴隷の身分でしたので、なんの弁明もできないまま、監獄に追いやられました。兄弟の間でのねたみやいじめと同様、古代エジプトにも、現代に通じるセクシャル・ハラスメントがあったのですね。

 侍従長の家で幸運をつかんだと思われたヨセフでしたが、「奴隷」よりももっと悪い「囚人」にまで落とされてしまいました。しかし、ヨセフは監獄にいたことによって、夢を解き明かす力があることがパロに知られるようになり、パロの夢を解き明かすことになりました。パロの見た夢は、七年間の豊作の後、七年間の飢饉が来ることを告げるものでした。パロは、ヨセフの知恵に感心し、ヨセフに全権を委ね、やがて来る飢饉に備えさせました。ヨセフは囚人から一気にエジプトの支配人にまでなったのです。ヨセフがエジプトに売られてから十五年はたっていたでしょうか、彼が三十歳の時でした。

 パロ見た夢のとおり、七年の豊作の後、飢饉がやってきました。まわりの国は飢饉で苦しみましたが、エジプトには、ヨセフの働きによって、食糧が蓄えられており、食糧を求めてエジプトに来る人たちが絶えませんでした。その中にヨセフの兄たちがいました。ヨセフにはそれが兄たちであることがわかりましたが、兄たちには、エジプトの支配者がヨセフであることは知るよしもありません。ヨセフがエジプトに売られてから三十年近い年月が経っていますし、ヨセフはエジプト人の身なりをし、エジプトの言葉を話していたからです。この時、弟のベニヤミンがいっしょではなかったので、ヨセフは、兄たちが弟ベニヤミンを大切にしているかどうか心配でした。それで、ヨセフは兄たちにスパイ容疑をかけ、兄たちのひとりシメオンを捕まえて、弟のベニヤミンを連れてくるように命じました。しかし、ヨセフは兄たちには食糧を与え、その代金もそっと返してやっていました。それから半年か一年ほどしてでしょうか、兄たちがベニヤミンを連れて、再び、ヨセフのもとに来た時、ヨセフは、こらえきれなくなって、ついに自分を明かし、驚き、恐れている兄たちに優しく語りかけ、父ヤコブを連れてエジプトに来るように告げました。ヨセフが兄弟たちと抱き合って涙する場面は感動的です。

 ヤコブは130歳の時に、一族を連れてエジプトに移住し、17年生きながらえて、147歳で死にました。ヨセフは、ヤコブをその祖父母アブラハムとサラ、また父母イサクとリベカが葬られているカナンにある墓地に葬りました。ヤコブの葬儀が済んだ時、兄たちは「今までは、父が生きていたから、ヨセフは自分たちにも親切にしたが、父が亡くなった今、自分たちがヨセフを殺そうとしたことに仕返しをするに違いない。」と考え、みんながそろって、ヨセフのところに行き、四十年前の罪を赦してくださいと願い出て、ヨセフの前にひれ伏しました。この時、ヨセフは、兄たちを赦し、いままでと変わらず、彼らに親切を尽くしました。それが、今朝の聖書の箇所に書かれていたことでした。

 このように、ヨセフは、その見た夢のとおり、兄たちにまさるものとなり、父ヤコブとその一族を保護するものになりました。ヨセフによって、イスラエル、つまりヤコブの子たちは、飢饉の中でも守られ、大きく、強い国民になっていったのです。

 二、ヨセフの生涯の秘訣

 ヨセフの生涯は、まるで小説のようです。彼のストーリーを読む時、いつも、わくわくし、また感動を覚えます。そして、多くのことを教えられます。ヨセフは言われのないことで憎まれ、誘惑に会い、無実の罪で苦しめられましたが、そうしたことで駄目になってしまうことなく、エジプトで最高の地位にまで登りつめました。しかも、高慢にも、横暴にもならず、自分に悪をはかった兄たちでさえ赦しています。ヨセフは自らが苦難から救い出さればかりでなく、飢饉の時に多くの国々と自分の民族を救う者になりました。ヨセフの物語を読む人は誰も、「ヨセフが、あれほどの苦しみに耐え、誘惑を斥け、人を赦すことができたのはなぜだったのだう。」と、思うことでしょう。「聖書を読む会」でも、ヨセフの生涯の秘訣について話し合ったのですが、今朝は、その中から、三つのことをとりあげましょう。

 第一に、ヨセフは「夢」、「ヴィジョン」を持っていたということです。兄たちはヨセフを軽蔑して「見ろ。あの夢見る者がやって来る。」(創世記37:19)と言いましたが、ヨセフはその夢によって、苦難を乗り越えることができたのです。兄たちは「さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」(創世記37:20)と言いました。ヨセフの夢はこの時消えるかに見えましたが、神から出た夢、ヴィジョンはかならず成就するのです。兄たちに殺されそうになった時も、奴隷に売られた時も、また囚人になった時も、ヨセフは神から与えられた夢を忘れず、「自分はこのままでは終わらない。」ということを信じ、将来に希望をつなぎました。奴隷の苦しみ、囚人のつらさに耐え、いわれのない罪をかぶせられても自暴自棄になりませんでした。ヨセフは、夢とヴィジョンを持ち、それをどんな時にも捨てなかったので、その夢が実現するのを見ることができたのです。

 信仰の勇者たちはみな神からのヴィジョンを与えられ、それによって歩みました。ノアは洪水とその後の世界を信仰によって見つめ、忍耐深く箱舟を作り続けました。アブラハムは空の星を見上げて、彼の子孫がその星のように多くなるとのヴィジョンを得ました。人間の力ではとうてい実現しないと思えることも、全能の神には可能であると信じたのです。私たちは、神のヴィジョンをつかんでいるでしょうか。ほんとうの意味で「夢見る者」となっているでしょうか。聖書は「ヴィジョンのない民は滅びる」(箴言29:18)と言い、「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2:28)と約束しています。私たちは、個人としても、教会としても、神からのヴィジョンをしっかりと保ち、それによって目に見える困難を乗り越えて前進していきたく思います。

 第二は、ヨセフは常に神と共にいたことです。ヨセフにとって神は、時たま思い起こすだけのお方ではありませんでした。また、神は、彼の苦しみの時に、そっと姿を隠してしまわれるような方でもありませんでした。ヨセフは、いつ、どんな時でも、神が彼と共にいてくださることを知り、信じていました。ヨセフは、侍従長の妻の誘惑にあった時、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」と言っています。エジプトにいても、ヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブの神を忘れませんでした。それで、神もまたヨセフを忘れず、ヨセフと共にいてくださったのです。侍従長は、「主がヨセフとともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見て、知った」(創世記39:3)と、聖書にあります。また、ヨセフが監獄に入れられたときも「主はヨセフとともにおられ」(創世記39:21)ました。それで、侍従長も、監獄長も、ヨセフの手にすべてを任せたのです。ヨセフがパロの夢を解き明かした時、パロは「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。」(創世記41:39-40)と言って、神がヨセフとともにおられることを認め、ヨセフにエジプトのすべてを任せたのです。まことの神を知らないエジプト人も、ヨセフと共におられる神を認めざるを得ないほどに、ヨセフは神の側近くに、神と共に生きました。

 私たちも、日曜日の礼拝の時だけ、「おひさしぶりでした」と言って神を覚えるような生活ではなく、朝ごとに「神さま」と呼びかけて、神と共に一日を始め、神と共に一日を終わる生活をしていきましょう。その時、私たちが「神は私と共にいてくださる」という確信を得るだけでなく、まわりの人々も「神はあなたと共におられる」ということを認めるようになるのです。そして、神が共にいてくださる時、私たちも、ヨセフのように、誘惑に勝ち、試練に耐え、ついに人生の勝利者になることができるのです。

 ヨセフの生涯の秘訣の第三は、ヨセフが神の摂理を知っていたことです。ヨセフは、兄たちに「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」(創世記45:4)と言って自分を明かしましたが、その時こう言いました。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。…私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」(創世記45:5, 8)ヨセフは、神がこの世界と私たちの人生のすべてを支配しておられることを知り、信じていました。神が、この世界と私たちの人生に介入され、導かれることを「摂理」と言いますが、ヨセフは神の摂理を知り、摂理の神に信頼していました。ヤコブが死んだ後、兄たちがヨセフのところにきてひれ伏した時も、ヨセフは「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:19-20)と言っています。かって、自分を殺そうとした兄たちに、こんなに優しいことばをかけ、赦すことができたのは、驚きですが、これは、ヨセフが謙遜であった、寛大であったからということだけでは説明がつきません。ヨセフが兄たちを赦すことができたのは、神の摂理を、また摂理の神を信じる信仰があったからです。ヨセフは「どうして私が神の代わりでしょうか。」と言っています。人を裁き、報いをなさるのは、主権者である神です。ヨセフは、エジプトの支配者となり、どんなに権力があっても、決して、主権者であり、審判者である神の立場をとろうとはしませんでした。神の主権にすべてを委ね、神のなさったことを受け入れています。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」神は悪を善にさえ変えることのできるお方です。そして、神が一切を良いことに変えられたのなら、どうしてヨセフは兄たちに仕返しをすることができるでしょうか。ヨセフは自分の人生に神のご計画を認めました。それで、ヨセフは、普通だったら、仕返しをしてやりたくなるようなことをも、完全に赦すことができたのです。

 私たちは、ヨセフの生涯から、忍耐や希望、謙遜や赦しなど、多くのことを学ぶことができますが、なによりも学ばなければならないのは、ヨセフの、神の摂理に対する信仰であると思います。ヨセフはそれを侍従長の家で、監獄で、そして、パロの宮廷で学びました。神の摂理は、たんに神学や教理の項目として学ぶものではなく、実際の信仰生活の中で学ぶものです。私たちは、それぞれに形は違っても、「なぜ、こんなことが起こったのだろう。」「なぜ、こんな苦しみに会わなければならないのだろう。」と思い悩むような状況に遭遇します。そのような中で、神の摂理を学んでいくのです。

 多くのクリスチャンは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)というみことばをよく知っています。誰かが辛い目にあっていたら、その人をこのみことばで励ましてあげることでしょう。ところが、いざ自分が同じ辛い目にあった時には、このみことばをどこかに置き忘れてしまい、自分にあてはめることができなくなることが何と多いことでしょう。しかし、そんな時も、静まって摂理の神と向かい合う時、ある時は、徐々に、ある時は、突然に、神が、楽しいことにも、辛いことにも、共に働いていてくださったことを悟り、神の摂理を受け入れることができるようになるのです。摂理の神への信仰を持つ時、今まで、とうていできないと思っていたことができるようになり、とうてい赦せないと思っていたものをも赦すことができるようになるのです。

 ヨセフの信仰の秘訣を、私たちも自分のものとし、誘惑に勝ち、試練に耐え、そして、赦し、赦される生涯を送りたいと思います。

 (祈り)

 すべてのことを働かせて益としてくださる神さま、あなたは摂理の主でありますのに、私たちには、それを認める信仰がなく、あなたのご計画を見失い、忍耐を失い、希望を投げ捨ててしまうことが何と多いことでしょう。そのような時、もう一度、私たちにヴィジョンを取り戻させ、あなたが共におられることに気付かせ、そして、あなたの摂理に身を委ねることができるよう、私たちの信仰をふるい立たせてください。愛する主イエスのお名前で祈ります。

8/10/2003