摂理の神

創世記45:1-8

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45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 今年、私たちは、全教会で「目的の四十日」というプログラムを実施します。主イエス・キリストのご受難を覚える四十日の「レント」(受難節)が2月9日の灰の水曜日から始まり、3月26日のイースター前夜まで続きます。レントは、日曜日を除いて40日ありますので、その40日の間、リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』を毎日一章づつ読み、そこにある聖書のことばに導かれて人生の目的を探求していくというのが、「目的の四十日」というプログラムです。この書物は、内容が豊富で、40日でこれをマスターするのは、難しいかもしませんので、日本語礼拝では、この一月から、前もって「目的の四十日」プログラムの助けになるメッセージをすることにしています。日曜日と水曜日の聖書のクラス、水曜日の祈り会でも、この三ヶ月は、すべて「目的の四十日」に集中しますので、教会中、どこを見ても、「目的の四十日」という言葉を目にし、耳にすることになるかと思います。これは、私たちの信仰にとって、また、教会の今後にとって、とても大切なことですので、他のプログラムをストップして、このことに集中するだけの価値はあると思います。教会に集っておられる方々が、ひとり残らず、四十日の、目的探求の旅に参加していただきたいと願っています。

 一、人生の目的と創造の神

 しかし、「人生の目的」はどうやって見つけることができるのでしょうか。それは、何年もの思索の果てに、やっと悟りを開いて得られるものなのでしょうか。それとも、試行錯誤しながら、自分で作り出すものなのでしょうか。聖書は、そのどちらでもないと言っています。人生の目的は、私たちを創造し、私たちの人生を導いておられる神によって知らせていただくものなのです。私たちは偶然にここに生まれたのではありません。神によって造られました。神は、私たちを無意味に造られたのでなく、目的をもってお造りになりました。人生の目的は、創造の神、造り主である神を知ることによって得られるのです。

 私は、天文学者や宇宙物理学者の話を聞くのが好きですが、そういう話を聞けば聞くほど、なんと宇宙は広大なのだろうと思います。地球は太陽系の惑星のひとつに過ぎず、太陽系は銀河系のほんの一部分にすぎません。銀河系には、太陽系のようなものが数限りなくあり、大宇宙には、銀河系のような小宇宙が、数え切れないほどあるというのです。人間は、やっと月に到着し、火星や土星を無人の探索衛星で調べはじめたにすぎす、大宇宙のことを、ほとんど何も知らないと言ってよいかもしれません。しかし、神は、この大宇宙を造り、そのすべてを知っておられるお方です。詩篇19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあるように、この広大な宇宙は、限りない知恵や力、栄光を現わしているのです。

 創世記第一章には、神が私たちの住む世界を造られたことが書かれていますが、そこには、神がこの世界のすべてのものを目的をもって造られたとあります。たとえば、太陽、月、星について、神は「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」(創世記1:14-15)とありますが、神は、太陽、月、星が、それによって、「季節」と「日」と「年」がわかるために、また、地上を照らすために造られたと言うのです。神は、宇宙を、太陽系を、地球を、そこに住む人間のために造られました。こういう聖書の箇所を読んで、「これはまるで天動説のようで、時代遅れの考え方だ。」と感じる方もあるかもしれませんが、それは、見当違いです。これは、神の、私たち人間に対する愛を語っているのです。この宇宙にどんな物体があり、生命体があろうとも、神の愛を受け止め、それに応答できるのは人間以外にありません。神は、広大な宇宙を創造されました。しかし、神は、この広大な宇宙の他の何者にもまさるものとして人間を造ってくださったのです。聖書は、他の生物は「種類にしたがって」造られたにすぎませんが(創世記1:11-12, 21, 24-25)、人間だけが「神のかたち」に造られたと言っています(創世記1:26-27)。今朝の詩篇の中にも「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:5)とありました。古代の聖書学者たちは、「人間は神の創造の冠である。」と言いましたが、まさにその通りです。神が、その人間を意味なく、目的なく造られるはずがありません。他の被造物でさえ、目的をもって造られたのなら、人間は、なおのこと、目的をもって造られているのです。

 二、人生の目的と啓示の神

 この世界も、私たちひとりびとりも、神によって、目的をもって造られました。私たちは決して偶然の産物ではありません。そして、神は、人間に、その目的を知ることができるようにしてくださいました。太陽も、月も、星も、そして、地上のさまざまな生き物も、目的をもって造られました。しかし、太陽や月、星は、神の目的を知りません。他の動物にどれほど造り主である神を感じる力があるのか、私にはわかりませんが、どんな動物、生物があったとしても、人間以上に、神を理解できるものはないと思います。だから、神は神は常に、他の何者でもなく人間に、人間のことばでご自分を告げ知らせておられるのです。神は、人間にご自身を示すため、イエス・キリストにおいて、人間となって、この世に来てくださり、私たちと同じ姿、かたちになってくださいました。神は、預言者たちを通し、イエス・キリストを通し、使徒たちを通して私たちに語りかけ、ご自身の目的、ご計画、そして、お心を私たちにあますところなく示してくださいました。神は、ご自分を隠しておられる神ではなく、ご自分を示し続けておられる神です。神がご自分を示してくださることを「啓示」と言いますが、神は、まさに啓示の神です。私たちは、神の啓示によって、人生の目的を知るのです。

 神は、聖書を、神の啓示の書物として、私たちにお与えになりました。聖書は、神の思いのすべてを語り伝えるものであり、聖書は「神のことば」です。聖書が「神のことば」であるので、「聖書に書いてある」ということと、「神が言われる」ということが全く同じこととして扱われているのです。たとえば、イエスは、四十日、荒野で過ごされた後、誘惑に遇われましたが、その時、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4節)「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(7節)「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(10節)と言ってサタンを斥けました。イエスは、「…と書いてある。」と言われましたが、それは、「神は…と言われる。」というのと全く同じ意味でした。もし、聖書が神のことばでなかったら、サタンは「聖書は、古代の宗教書にすぎないのだ。そんなものに何の権威があるのか。」と言って、さらにイエスを攻撃したことでしょう。聖書が神のことばであることは、サタンすらも認めている事実なのです。

 もうひとつ例をあげましょう。マタイ19:3に「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」というパリサイ人のことばがあります。パリサイ人は、イエスから答えを欲しいと思って、こう言ったのではなく、イエスのことばのあげあしを取り、罠に陥れるためでした。パリサイ人は、「男の勝手で妻を離別させることができる。」と考えていたようですが、イエスの答えは、「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」(マタイ19:5)というものでした。そしてイエスは、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(19:6)と言われました。今朝は「離婚」という主題をお話しする時ではありませんので、これ以上はくわしく触れませんが、私が、この箇所を引用したのは、5節の「創造者は、…と言われたのです。」という部分に注目していただきたいためです。創造者である神が語られたということば、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」というのは、創世記2:24のことばです。創世記2:24は、直接、神がこう言われたということばではなく、いわば、説明文、ナレーションの部分です。創世記を書いたモーセのことばであると言うこともできます。しかし、イエスは、「創造者が言われた。」と明言しておられます。聖書に書かれていることは、神が言われたこと、「聖書にこう書いてある。」というのと、「神はこう言われる。」というのは全く同じことなのです。

 私たちは聖書を読む時、聖書を、まるで小説を読むように、単に読書の対象にする、百科事典を読むように、単に知識の源泉にする、専門書を読むように、単に研究の対象にするというようなことがないようにしたいものです。信仰を持たない人、あるいは神を求めない人は、聖書に対してそのような態度を取るかもしれませんが、そんなふうに聖書を読んでも、神の人間に対する語りかけを聞くことはできませんし、そのことによって神を知ることも、救いを得ることもできないのです。聖書を読む時には、そこに神の語りかけを聞く、神のお心を知って、それに従っていく、そのような態度で、神のことばに向かいたいものです。

 神が、聖書によって、ご自身を現わし、私たちに人生の目的を表わしておられるなら、私たちは、人生の目的を、神と神のことばに求めなければなりません。神の創造された世界では太陽も月も星も、神の目的どおりに存在し、その役割りを果しています。植物も、動物も、神が創造された物はすべて、神の目的が何であるかを知らなくても、神の目的どおりに生き、動き、存在しています。ところが、神の目的を知ることのできる人間が、神の目的から離れた存在となり、神の目的に従って生きていないのです。人間だけが神の目的を知ることができるのに、人間がいちばん、神の目的をないがしろにしています。人間は、神の目的を知ることができるという点では、素晴らしいものですが、神の目的に従わないという点では、それを知ることができる能力を与えられているだけに、まことに、罪深いものです。私たちは、この罪を悔い改め、謙虚に、神のことばに聴き従い、私たちに与えられた人生の目的を求め続けたく思います。

 三、人生の目的と摂理の神

 今朝の第一のポイントは、神は私たちを目的をもって造られたお方であること、第二のポイントは、神はその目的を聖書によって教えておられるということでした。今朝の第三のポイントは、神がその目的を成し遂げるお方であるということです。神は、この世界を目的をもってお造りになりましたが、創造されたあと、この世界に無関心で、それをほうっておられるというのではありません。神は、ご自分の造られた世界を愛し、いつくしみ、ひきつづき、関わりをもっておられます。この世界に目的を与えただけでなく、神は、この世界を、ご自分の目的に向かって導いておられるのです。この神の導きを「摂理」と呼びます。日本語で「摂理」というと難しく聞こえますが、英語では "providence" と言います。"provide" という動詞からできた名詞ですが、"provide" という英語も、もとはラテン語から来ています。"pro" は「前もって」という意味で、"vide" は "video" という言葉があるように「見る」という意味です。「前もって見る。」それが「摂理」という言葉の意味です。神が、この世界の目的を前もって見ておられ、この世界をそこに導いておあられる、それが「摂理」です。

 神の摂理は、聖書のいたるところに示されていますが、中でも最も感動的なものは、今朝、その一部分を読みました、ヨセフの物語でしょう。ヨセフは、兄弟にねたまれ、エジプトに奴隷として売られるのですが、奴隷の身分から、また囚人の立場から、エジプトの宰相にまで登りつめます。それは、ヨセフによって、ヤコブの一族、イスラエルが救われるためでした。神は、神の民、イスラエルを目的をもって選び、イスラエルにその目的を達成させるために、ヨセフを用いたのです。ふつうなら、権力を手に入れたヨセフが、自分を亡き者にしようとした兄たちにしかえしをするところですが、ヨセフは神の摂理を知っていましたから、兄たちに、「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:4-5)と言って兄たちを赦しています。ヨセフは続いて、こう言いました。「この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」(創世記45:6-8)ヨセフは、「お兄さんたちは、私をエジプトに売り飛ばしたが、私は頑張って、エジプトを治める者になりましたよ。」などとは言っていません。自分が今、ここにあるのは、「兄たち」のせいでも、「自分」の努力によってでもない、神の摂理によるのだと言っています。ヨセフは「神」を中心に物事を考え、行動しています。「神が…」と神を主語にして物事を考えているところに、ヨセフの神の摂理を信じる信仰が表われています。ヨセフのこの信仰は、一時的なものではなく、終生変わりませんでした。父ヤコブが亡くなった後も、ヨセフは兄弟たちに、「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」と言って、兄弟たちを慰め、優しく語りかけています(50:19-21)。ヨセフの物語は実に感動的で、ヨセフの忍耐や赦しから多くのことを教えられます。しかし、ヨセフの物語で忘れてはならないのは、神が摂理の神であるということです。神の摂理を知る者、神の目的を理解している者だけが、逆境の中で忍耐し、神を仰ぎ、人を赦すことができるのです。

 私たちが、人生の目的を知り、それに従って生きることができるのは、神が私たちを目的をもって造ってくださったから、神が聖書によってその目的を示していてくださるから、神がこの世界と私たちの人生を目的に従って導いておられるからです。創造の神、啓示の神、摂理の神を知り、信じることが、人生の目的を自分のものとする第一歩なのです。今年の標語は「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)ですが、主なる神を知ることによってはじめて、私たちは、人生の意味や目的を見出すことができるのです。リック・ウォレンは、『人生の五つの目的』の二日目のデボーションで、「自分を理解するための唯一にして最も正確な方法は、神がどういうお方であって、私たちのために何をしてくださったのかを知ることである。」ということばを引用しています。神に目を向け、主を知ることによって、私たちは自分の本当の姿を知るのです。うぬぼれでも、卑下でもなく、神に造られた者としての自分のありのままの姿を知り、自分に与えられた人生の目的をつかみとることができるのです。主を知ることを追い求め、この主から人生の目的を示していただきましょう。

 (祈り)

 私たちの父なる神さま、私たちは、これから、教会をあげて、人生の目的を探求しようとしています。しかし、この探求は、あなたを離れては全く無意味なものとなってしまいます。私たちを造り、私たちに語りかけ、私たちを導いておられる主よ、私たちが、もっと思いをあなたに向け、さらにあなたを知り、私たちに与えられた人生の目的を見出すことができるよう、助けてください。私たちは、自分の力では、あなたが与えてくださったた人生の目的を達成することはできません。しかし、あなたは、神を愛する者と共に働いて、ご自分の目的を推し進め、私たちを目的に向かって導いてくださるお方です。私たちはあなたを求めます。あなたを知ることを追い求めます。あなたを知るにつれ、私たちのうちに、人生の目的を確かなものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/9/2005