そよ風の吹くころ

創世記3:8-12

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3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 一、自己との断絶

 「創世記」は、その名前の通り、あらゆるものの「はじまり」を語っています。私たちはすでに、「世界のはじまり」と「人間のはじまり」を見てきました。きょうは、「罪のはじまり」を見ます。

 神はこの世界を素晴らしく造られました。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)とあるように、世界は良いもので満ちていました。ところが、そこに罪が入ってきました。アダムとエバは神の言葉に従わず、エデンの園にあった祝福を失い、自らを不幸にしました。エデンの園での幸いな期間はごくわずかでした。創世記は、はやくも3章で、罪がこの世界に入ったことを告げています。

 罪は、あきらかに人間の選択であり、神への不従順なのですが、多くの人は、罪を人間に備わった本能のせいにします。「人間には他の動物のように、生存を保ち、子孫を残すという本能がある。法律や道徳でそれらを抑えようとするのは無理がある。〝罪〟といっても、それは人間の本能なので、罪を犯すのはしょうがない。しかもその本能を与えたのは神である」と言うのですが、そうでしょうか。いいえ、人間は罪を犯すとき「本能」といわれるものにさえ従っていません。たとえば、ライオンは他の動物を餌食にしますが、満腹したら、どんなに他の動物が近づいてきても、それに手を出しません。ところが、人間は満足することを知らないのです。ヒットラーなどの独裁者たちは、何百万人も人を殺し、他の国々を自分のものにしようとしてきました。一般の人でも、必要以上のものをむさぼり、それを人から奪いとろうとします。それは本能から出たことではありません。神はそのような本能を人間に与えはしませんでした。それは本能をこえたむさぼりであり、罪です。よく、罪を犯す人を「本能だけで生きる動物のようだ」と言いますが、実際は本能に従って生きている動物以下のものになっているのです。

 また、「神は人間に罪を犯させないようにすればよかったのだ」という反論もよく聞きます。けれども、それでは、人間はロボットになってしまい、自由な意志を持った者、「神のかたち」でなくなります。神は、人間を愛の対象として造られました。神が人を愛し、人がその愛にこたえて神を愛するという愛の関係を人間と結ばれたのです。「愛」は強制されるものではありません。強制されたらそれは愛で無くなってしまいます。ですから神は人間に自由な意志を与え、それによって神を愛し、他を愛する者としてくださったのです。神を愛することも神を憎むこともできる自由、また神に従うことも従わないこともできる自由があって、その中で神を愛し、神に従うことを選ぶ。それが、神が人に求めておられる神への「愛」であり「信仰」です。

 神は、アダムとエバにひとつの命令を与えることによって、彼らに神を愛し、神に従うことを学ばせようとなさいました。それは、決して難しいものでも、不合理なものでもありませんでした。エデンの園にある「善悪の知識の木」からその実を取って食べてはいけないという命令でした(創世記2:16-17)。もし、エデンの園にその木しかなく、それを「食べるな」と言われたとしたら、その命令は、厳しく、不合理なものですが、神は、エデンの園に食べるのによい木の実をふんだんに実らせ「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言ってくださったのです。しかも、この「善悪の知識の木」も、将来にわたって禁じられていたのではなく、やがて時が来れば、与えられたことだろうと思われます。まだ造られて日の浅いアダムとエバに神は順をおってご自分を知らせ、物事を学ばせようとなさったのです。

 箴言1:7に「主を恐れることは知識の初めである」とあるように、人はまず神を知り、神を愛し、神に従うことを学ばなければなりません。「神を教えない教育は賢い悪魔を作るだけだ」という言葉がありますが、神は、アダムとエバに、まず、神に従うことを学ばせようとなさったのです。そして、神に従うとは具体的には神のことばを守ることです。ところが、彼らは神のことばを守りませんでした。。

 その結果、人間は、本来の自分とは違ったものになってしまいました。罪は「断絶」であると言われますが、その断絶の第一のものは、本来の自分と、実際の自分とが断絶していることです。自分はこうあるべきなのに、実際にはそのようではない。こうすべきなのに、それができない。そのためにいつも心に葛藤があって、それが自分を苦しめる。人は、罪のゆえに、自分自身の中にある断絶に苦しむようになりました。

 二、神との断絶

 罪は、第二に「神との断絶」をもたらします。きょうの箇所の8節にアダムとエバは「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた」とあります。エデンの園で「そよ風の吹くころ」が一日のうち何時ごろだったか分かりませんが、おそらく、一日の労働が終わり、まだ日が沈む前、夕方涼しい風が吹くころだったと思います。その時、神と人との語り合いの時がもたれていたのでしょう。彼らは一日の働きを神に報告し、神はそれを聞いてねぎらい、次の日のために、二人に知識を授け、指示を与えてくださったことでしょう。

 ところが、罪を犯したとき、この神との語り合いが亡くなりました。アダムとエバは、身を隠そうとしましたが、誰も神から隠れることはできません。詩篇11:4に「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる」、詩篇139:7に「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」とある通りです。

 また、彼らは神の顔を避けましたが、これは人が神のみ顔を仰ぎ求めて生かされる存在であることに、全く逆らったことでした。詩篇27:8には「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」とあります。神は私たちに御顔を向け、私たちに御自身を表そうとしておられます。人のたましいが求めてやまないものは、この神の御顔です。そうであるのに、神に背を向け、神から隠れようとし、神から遠ざかろうとする。ここに罪がもたらす最大の不幸があります。罪は私たちを神から引き離します。私たちを生かしておられる生ける神から離れたなら、そこあるのは死だけです。罪は、私たちを神の御顔の光から遠ざけます。私たちを照らす恵みの光、祝福の光がなくなれば、そこにあるのは、暗闇だけです。

 罪への誘惑は耳障りのよい言葉、甘いささやきで始まり、最後は、神の言葉を否定して終わるのです。います。誘惑の言葉はこうでした。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)「あなたはもっと賢くなれる。神のようになれる。神は、人間が神のような知恵と知識を持つようになり、神の競争相手になることを恐れて、善悪を知る木の実を食べることを禁じたのだ」と言っています。偉大な神を人間のレベルに引き下げ、人間を神のレベルに上らせようとしました。そして、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)との神のことばを、「あなたがたは決して死にません」(創世記3:4)と言って、否定しました。神の言葉の否定は、神と人との絆を断ち切ってしまう恐ろしいものです。私たちは、私たちを神から引き離そうとする巧妙な誘惑に乗せられてはなりません。そのためにも、どんなことがあっても、神の言葉を守り通す決意と信仰が必要です。

 三、人との断絶

 第三に、罪は、他の人との断絶をもたらします。アダムの場合は妻との断絶でした。アダムは自分の脇腹の骨から造られた妻を見て、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」(創世記2:23)と言って喜びました。古代のある説教者はこう言っています。「神がエバをアダムの足の骨から造らなかったのは、男が女を卑しめないためである。エバがアダムの頭の骨から造られなかったのは彼女が夫の上に立たないためである。彼女がアダムの脇腹から造られたのは、アダムが彼女を抱いて護るためである。」これは創世記2:22-23の最もすぐれた解釈だと思います。アダムはそのようにエバを愛しました。ところが、アダムが罪を犯したとき、アダムはエバのことをどう呼んだでしょうか。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(12節)「この女」と呼んでいます。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と呼んだのと大違いです。

 しかも、「あなたが私のそばに置かれたこの女」とさえ言いました。「神がこんなろくでもない女を私に与えたので、私は神の命令を守ることができなかったのです」と言わんばかりです。エバが誘惑に乗ってしまったとはいえ、アダムもその場にいて、エバと行動を共にしているわけですから、エバを非難するのは筋違いです。アダムはエバを弁護するのが当然なのに、エバに責任をなすりつけています。このように罪は夫と妻との間を切り裂きました。夫と妻からはじまって、親と子、兄弟と兄弟、親族と親族に断絶をもたらしました。この断絶はアダム以来、今日まで続いています。どんなに多くの家庭が、互いにいがみあって壊れていき、隣人と隣人とが警戒しあい、国と国とが争い続けてきたことでしょうか。罪は、神の愛を見えなくさせ、人から神への愛を奪いとるだけでなく、人と人との愛をも壊してしまうのです。そしてそれは時代が経てば経つほど、どんどん悪くなっており、私たちはその現実を見ています。

 四、断絶からの回復

 これらの断絶は回復するのでしょうか。回復します。なぜなら、神がそれを望んでおられるからです。神は、アダムが罪を犯して、エデンの園の木々の間に身を隠したときも、神は、人に呼びかけ、「あなたは、どこにいるのか」(9節)と呼び続けられました。神はアダムが罪を犯した瞬間に彼に死を与えることもできました。神はアダムに「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのですから、その言葉どおりになさっても良かったのです。しかし、神は、アダムを惜しみ、「あなたは、どこにいるのか」と言って、アダムを捜し求められました。

 神がアダムを捜し求められたといっても、もちろん、神はアダムのいるところをご存知でした。神が「あなたは、どこにいるのか」と言われたのは、神がアダムを見つけられなかったためではありません。これは、「あなたは、どこにいるのか。なぜ、わたしのもとから離れて身を隠すのか」という、アダムへの呼びかけでした。アダムにいるべきところに立ち返るようにとの招きの言葉だったのです。神が、罪を犯した者に悔い改めて神に立ち返るよう呼びかけておられる言葉は、聖書の初めから終わりまで、何度も何度も出てきます。放蕩息子の譬に出てくる弟息子は、ブタの餌さえ食べたいと思うほどに落ちぶれ果てたとき、はじめて、自分はここにいるべきではないと気付きました。そのように、神はアダムにも、いるべきところでないところにいることに気づかせ、そこから神に立ち返ることを願っておられたのです。

 神は、アダムとエバが罪を犯したときから、罪からの救いを約束されました。イエス・キリストはその救いの約束を成就し、「人の子は、失われた人を捜し出して救うために来たのです」(ルカ19:10)仰って、今も、私たちを神のもとへと招いておられます。その招きに答え、イエス・キリストを信じるなら、私たちはあるべき姿と現実の姿の断絶は回復します。人と人との断絶も癒やされます。なによりも、神との交わりが取り戻されるのです。そよ風の吹くころ、人が神と語り合った、あの麗しい時がもう一度私たちのものとなるのです。「あなたはどこにいるのか。」この招きに「私はここにいます。あなたの御顔を求めます。御声に耳を傾けます」とお答えしましょう。そして、神の御顔を仰ぎ、御声を聞き、主とともに人生の日々を歩む幸いを取り戻しましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、きょうは「罪のはじまり」を学びましたが、それは同時に、救いへの招きのはじまりでもあることを知りました。あなたがどんなにか私たちの救いを願い、罪による断絶を回復し、私たちをそこから癒そうとしておられるかを思い、心から感謝します。常にあなたのもとに立ち返り、あなたとの交わりの恵みに与る私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/17/2021