それを取って食べるその時

創世記3:8-13

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3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 11月のはじめにベイエリアの牧師たちが集まる朝食祈祷会があります。年々、参加者が増え、今年は900人もの大きな集まりになりました。サンフランシスコ近郊 San Bruno にある Church of the Highland の Donald Sheley 牧師の牧会50年を祝うときもありました。この教会の50周年記念の DVD をもらってきたのですが、そこには教会の50年の歴史とともに、Sheley 先生の説教も収録されていました。その説教は、神のことばに従わないことがどんなに私たちの人生を惨めなものにするか、神のことばに従うことがどんなに私たちの人生に祝福をもたらすかを説いているもので、神のことばに従順な者になれますようにとの祈りで締めくくられていました。

 その説教の中で次の申命記のことばが引用されていました。「あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」28章9-13節です。神のことばに従う者たちへの祝福がよく描かれています。しかし、申命記には同時に、神のことばに逆らう者たちへの警告も書かれています。続く14-20節にこう書かれています。「あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。」

 神はこのように神のことばに従う者への約束と、それに従わない場合の結果を明らかにしておられますが、この約束と警告は、人類の歴史のはじまりに、エデンの園で、すでに与えられていたのです。アダムとエバは神のことばを守って、エデンの園でしあわせな日々とを送るはずでしたが、神のことばに聞き従わず、みずからに死を招いたのです。神は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と言われましたが、そのとおり、アダムはその不従順によって、世界に「死」を招きいれてしまったのです。そのときから死の影がすべての人につきまとうようになりました。聖書は「死」について、「肉体の死」と「霊的な死」、そして「関係の死」ということを教えていますので、私たちもこの三つのことを考えることにしましょう。

 一、肉体の死

 最初に「肉体の死」についてですが、これはすぐにはアダムにやってきませんでした。禁じられた木の実をとって食べたそのとたんにアダムが息絶えたわけではありませんでした。それどころか、その後930年も生きています。90歳以上は「長寿」と言われますが、アダムはその10倍も生きているのです。アダムばかりでなく、アダムからノアまでの人々は皆「超長寿」で、何百年も生きています。創世記5章にはセツは912年、エノシュは905年、ケナンは910年、マハラルエルは895年、エレデは962年、エノクは365年、メトシェラは969年、レメクは777年、そしてノアは950年生きています。洪水前の地球環境は、今日とはくらべものにならないほど良く、人が老化していく速度がものすごくゆっくりだったのでしょう。しかし、古代の人々がどんなに長く、元気で生きられたとしても、その人生の最後は死でした。創世記5章には「こうして彼は死んだ。」ということばが繰り返されています。アダムが罪を犯したとき、神は罪の刑罰の執行を猶予されただけで、アダムも、また、その子孫もすべてその生涯を「死」で終えているのです。

 アダムは、確かに長く生きました。しかし、アダムはその長い人生を「あなたは必ず死ぬ。」ということばにおびえながら過ごさなければなりませんでした。死刑囚は、死刑執行までの期間が長ければ長いほど、かえって苦しむのだと聞いたことがありますが、アダムにとって930年の長い寿命は、たんに祝福ばかりとはいえないもの、930年間の死におびえる刑罰の時でもあったことでしょう。聖書に、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)ということばがありますが、人類はアダム以来、今にいたるまで「死の恐れ」に縛られてきたのです。

 アダムにとって、さらに惨めだったことは、はじめて知った「死」が自分の子どもの死だったということでした。しかも、ふたりの息子のうち、兄が弟を殺すというとんでもないことが起こったのです。殺人を犯した兄は親から離れて地をさまよう者となり、アダムとエバはふたりの息子を同時に失くしてしまったのです。この出来事によって、アダムは「あなたは必ず死ぬ」ということがどんなことを意味するかを痛いほど知ったことでしょう。

 聖書に「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあります。罪を犯して得られるものは死でしかないのです。人々は不老不死を夢見て、それを追い求めてきましたが、誰一人それを手にした人はありません。人類は死を克服しようと総力をあげて闘ってきましたが、勝利を得ることはありませんでした。それなら、「死」というものをできるだけ考えないで避けて通ろうともしてきたのですが、それでも避けることはできませんでした。日本の病院では4号室とか9号室というのはありません。「死」や「苦しみ」を連想させるからです。しかし、どんなに死を避けて通ろうとしても、それは避けることのできない事実です。先週教会で上映した映画では、主人公の賀川豊彦が、「肺結核であと二年の命」と医者に宣告され、それなら貧しい人たちのために生きようと決心して貧民窟に身を投じていったことが描かれていました。賀川豊彦は正直に死と向き合うことによって、自分の生きるべき道を見出していったのです。聖書は死の事実、現実から目をそらさず、そこからいのちへの道を発見するよう教えています。

 二、霊的な死

 次は「霊的な死」です。「死」には、肉体の死のほかに、もうひとつの死、「霊的な死」があります。「肉体の死」が「たましい」と「肉体」の分離であるように、「霊的な死」はたましいが、神から離れてしまうことを意味しています。アダムは肉体の死を即座には体験しませんでしたが、霊的な死は即座に体験しています。

 創世記3:8に「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」とあります。エデンの園に「そよ風」が吹いたのは、おそらく一日が終わるころだったでしょう。日が沈む前の涼しい風はアダムの一日の働きの疲れをいやしたことでしょう。そして、それは何よりも、神との語らいの時だったことでしょう。アダムは一日の働きを神に報告し、神はそれを聞いて、創造の日のように「神は見て、それをよしとされた。」ことでしょう。人は、毎日、神と会い、神に慰められ、励まされ、力づけられ、教えられて生きていくもののです。神とのまじわりは人間のたましいにとって欠かせないものです。この日も神は「そよ風の吹くころ」にアダムに会うためにエデンの園を訪れました。ところが、アダムとエバは「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。ほんとうなら、人間のほうから、神の御顔を求めるのが当然であるのに、こともあろうに、アダムは、神が向けてくださった御顔を避けたのです。神から隠れようとして、誰も隠れることはできません。アダムは、身を隠そうとすることによって、自分のたましいの中に神との分離をつくり出しました。そのたましいも神に背を向け、神から遠ざかり、神から離れていったのです。そして、たましいにおける神との分離が霊的な死なのです。

 しかし、そのようなアダムにも、神は「あなたは、どこにいるのか。」と呼び求めておられます。真実なたましいは、この呼びかけに揺さぶられます。神の声を聞くとき、たとえ自分はみじめな罪びとであったとしても、神に会いたい、神の御顔を見たいという切実な願いを持ちます。詩篇42篇1-2節には「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」という祈りがあります。詩篇には他に「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(13:1)「私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。」(25:16)「どうか、御顔を私に隠さないでください。」(27:9)「御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。」(31:16)「なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。」(44:24)「あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。」(69:17)「私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。」(86:16)などの御顔を求める祈りがあります。皆さんにも同じ思いがあることと思います。神を知りたい、神に会いたい、神とひとつになりたいという思い、それが「スピリッチャリティ」(霊性)と言われるものです。クリスチャンは、この思いを強く持っているのが当然なのですが、残念なことに、20世紀になってクリスチャンの関心が「霊性」を高めることよりも、他の面に移ってしまい、そのためにクリスチャンとしての力や平安、また愛を無くしてきたと言われています。それで、近年になってクリスチャンは「霊性」を高めることの必要に気づき、それを求めるようになってきました。21世紀は「霊性の時代」と言われるほど、世界中のクリスチャンの間で「霊性」に大きな関心が持たれるようになりました。また、現代の人々も、霊的な飢え渇きを感じはじめています。教会は、人々の、そうしたたましいの叫びにこたえるところとして、神によって建てられ、導かれてきました。まずクリスチャンが神の御顔をもっと慕い求めることによって、教会の礼拝や、祈り、そしてみことばの教えによって、人々を神の御顔の光の中へと招き入れるものになりたいと願います。

 三、関係の死

 最後に「関係の死」について考えてみましょう。罪は、アダムを神から引き離しました。しかし、それだけで終わりませんでした。神との愛の関係を損なったアダムとエバはお互いの愛の関係をも損なっています。「霊的な死」は「関係の死」をもたらしたのです。アダムとエバは罪を犯したとき、神から隠れようとしたばかりでなく、それぞれいちじくの葉で作った服を身に着け、お互いを隠しました。神と人との間に隠し事や不真実があるとき、それは人と人との間の不真実となって表れるのです。

 エバが造られたとき、アダムはどう言って神に感謝したでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」(創世記2:23)と言いましたね。配偶者のことを「ベター・ハーフ」と言いますが、アダムは、エバを自分の分身であると言って、エバを喜んだのです。ところが、罪を犯した後はどうでしょうか。神が「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と言われたとき、アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えています。最初、「あなたは私の骨肉だ」と言ったエバに向かって、今度は「この女」と言っています。「あなたが私のそばに置かれたこの女」というのは、「神がろくでもない女を私に与えたから、私は罪を犯してしまったのです。」とでも言いたげなことばではありませんか。アダムは自分の罪を神のせいにさえしようとしたのです。アダムの神に対する悔い改めのない態度は、妻への態度に表れています。夫は妻をかばわなければならないのに、「この女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と言って、自分の罪を妻になすりつけているのです。

 神に対する罪を認めない人でも、現代の人間関係が病んでおり、そこからさまざまな社会問題が起こっていることは認めています。夫と妻、親と子、兄弟と兄弟、上司と部下、そして、隣人と隣人との距離が開き、どんどん遠くなっていっています。心理学者たちは、それはセルフエスティームが低いからだ、コミュニケーションのスキルが足らないからだなどと分析します。「あなたの英語の力が足らないから配偶者との関係がうまくいかないのだ」と言われて英語の勉強に一所懸命になっている人もいます。セルフエスティームを高めること、コミュニケーションのスキルを身に着けること、また英語を勉強することは、どれも良いことです。しかし、それによって問題が解決するのではありません。人を信じられない人は、どこかで神を信じていないところがあり、何かというと人に怒りを向ける人は、神にも怒りを向けています。人に冷たい人は、神に対しても冷ややかな心を持っています。その人と神との間に大きな距離があって、それが人と人との距離を大きくしているのです。人と人との距離を近づけたいと願うなら、まず、自分と神との距離を近づける努力が必要です。夫婦の関係を引き合いに出すなら、人を夫婦にしたのは神ですから、すべての夫婦は神が頂点とする三角形の底辺の両側にいます。夫も妻も一緒に神に近づいていくなら、それと同時に夫と妻との距離も近づいていくのです。神はすべての人の主なのですから、これは夫婦の関係だけでなく、すべての人間関係にあてはまります。とくに教会においてはそうです。教会で、お互いがお互いのことを思いやり、他の人のためにこころを込めて祈りあえるようになるのは、それぞれが神に近づいていき、そうしてお互いが、神にあって近づいていくからなのです。

 罪によって「肉体の死」と「霊的な死」が入ってきました。そして、「霊的な死」は「関係の死」として私たちの身近なところに見られます。世界と社会は罪のために病んでいます。そして、それは「死に至る病い」です。では、私たちには絶望しかないのでしょうか。いいえ、ローマ6:23は「罪から来る報酬は死です。」と言ったあとで、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と言っています。アダムの罪、そして、私たちの罪をイエス・キリストはその十字架によって解決してくださいました。ご自分の死によって死を滅ぼし、復活によって私たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。「霊的な死」は「霊的ないのち」によって解決していきます。この礼拝に集う人々がひとり残らず、イエス・キリストを信じて新しいいのちを受け、キリストのからだである教会の中で、そのいのちを育んでいくことができるよう、こころから祈ります。

 (祈り)

 聖なる神さま、人間はあなたに対する不従順によって、みずからに死をもたらしました。あなたはいのちそのものであり、すべてのものを生かしておられるお方ですから、いのちの主から離れるなら、そこには死のほか何もありません。しかし、キリストは、私たちのためにいのちの道を開いてくださいました。恵み深い主よ、イエス・キリストによって私たちをあたなに近づけてください。そして、あなたへの従順によっていのちの恵みを満ち足りるほどに味わうことができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/15/2009