福音のはじめ

創世記3:13-15

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3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 皆さんは「責任転嫁」という言葉をご存知ですね。「転嫁」の「転」は、「運転」の「転」です。「転がす」、「動かす」、「移動させる」などといった意味があります。「転校」や「転職」というときにも使います。「転嫁」の「嫁」は「嫁」(よめ)という字ですが、「嫁がせる」という意味で使われています。古くは、夫が亡くなったりして、別の人と結婚するようになり、嫁ぎ先が変わることを「転嫁」と言いました。「転嫁」は「再婚」のことだったのです。しかし、「責任転嫁」となると、結婚のようにめでたい話ではなくなります。ほんとうは自分が負わなければならない責任を別の人になすりつけるという、卑劣なことだからです。皆さんも人の失敗を自分のせいにされてつらい思いをしたことがあるかと思います。

 一、誘惑

 「責任転嫁」という言葉がいつごろから使われるようになったかは分かりませんが、「責任転嫁」は、なんと人類のはじめからありました。アダムは自分の罪をエバのせいにし、エバはそれを蛇のせいにしました。そのことをエバへの誘惑のことを書いてある3:1から読んでみましょう。

 誘惑の言葉は「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(1節)といなっています。誘惑する者は、神の言葉をいきなり否定したりしません。「神は、ほんとうに言われたのですか」と、まず、疑いをいだかせます。エバはそれに答えて言いました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(2-3節)エバは、神が「あなたがたが死ぬといけないからだ」と言われたと言っていますが、実際は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と神は言われたのです。「死ぬといけないからだ」というのは「もしかしたら死ぬかもしれない、死なないかもしれない」という意味ですから、「必ず死ぬ」とは大違いです。エバは、神の言葉を知っていました。しかし、神の言葉を正確に理解していなかったのです。誘惑はそうした生半可な知識から入り込んできます。

 エバが神の言葉にあやふやな態度を示すと、誘惑する者は、すかさず、「あなたがたは決して死にません」(4節)と、神の言葉を否定しました。それは嘘、偽りなのですが、その嘘、偽りがあまりにもはっきりと、確信をもって語られると、人は、真理よりも偽りを信じてしまいやすいのです。

 現代、いたるところで詐欺が横行しています。善良な人ほど騙されやすいので、詐欺の被害にあった人には、本当に気の毒に思います。けれどもアダムとエバの場合は、善良であったのに騙されたというだけではありませんでした。6節に「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」とあります。「そこで、女が見ると…」とあるように、食べてはいけないと言われた木の実が見た目もよく、おいしそうだっかたから、そして、なによりも、それによって自分が賢くなれると考えました。それはエバの主観です。自分の目で見た感覚から来る想像や、願望によって判断し、行動したのです。ヨハネ第一2:16に「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです」とありますが、この「目の欲」とは、エバがしたようなことを指していると思われます。

 「頭の上を鳥が飛ぶのは防げない。しかし、自分の頭に鳥が巣を作ることは防ぐことができる。」これはよく言われる言葉です。この世は様々な誘惑で満ちています。誘惑は誰にでもやってきますが、誘惑はそれを拒否することができます。ものごとを自分の目で見たことに従って判断するのではなく、神の言葉に聞き、それに従うことによってできるようになります。神の言葉に聞くこと、正しく理解すること、それを守り、それに従うことがどんなに大切かを、この箇所は教えています。誘惑する者は、「神に従っても善いことは何もない。こうしたらもっと善いものを手に入れられる。それによって満足できる」と、甘くささやきかけてきます。私たちはみな、自分が思っている以上に、そうした言葉に弱く、騙されやすいのです。「自分は大丈夫」などと思うことなく、神に助けを求めましょう。神の言葉に堅く立って、誘惑の言葉を斥けていきましょう。

 二、責任転嫁

 さて、最初に話した「責任転嫁」ですが、神がアダムに「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(11節)と言われたとき、アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(12節)と答えました。「私は木の実を取りはしませんでした。もらったものを食べただけです」と言い訳をしていますが、この言い訳けは通りません。6節には「それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」とあって、アダムは終始エバと一緒にいた事が分かります。エバへの誘惑は同時にアダムへの誘惑でもあったのです。実際、誘惑する者は、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と、「あなた」ではなく「あなたがた」と、二人に言っています。エバだけでなくアダムもまた、神の言葉を捨て、誘惑の言葉を選んだのです。

 アダムがエバに責任転嫁したので、神はエバにも「あなたは、いったいなんということをしたのか」(13節)と言われました。すると、エバもまた「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と言って、自分の罪を蛇に転嫁しました。アダムもエバも、神にその罪を問われたときに、それを自分の非、自分の罪として認めず、次々と責任を転嫁していきました。にもかかわらず、神は蛇に向かって刑罰を宣告しておられます(14節)。

 神は、アダムとエバには「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」、「あなたは、いったいなんということをしたのか」と問いかけて、申し開きの機会を与えておられますが、蛇に対しては、即座に裁きを与えておられます。蛇の姿で現れ、人を誘惑した悪魔にはどんな申し立ても許されていないからです。悪魔はすでに裁かれていて、もう悔い改める余地は残されていません。救われることはないのです。しかし、人間は違います。本気になって悔い改めるなら、赦され、救われるのです。人はどんなにひどく堕落したとしても、なお、そこから悔い改めて神に立ち返る余地が、あわれみによって残されています。実際神は、忍耐をもって、人々の悔い改めるのを待ち続けておられるのです。

 そして神は悔い改める者を救うため救い主を約束されました。創世記3:15は「原福音」(Proto Gospel)と呼ばれ、聖書にある最初の救いの約束です。アダムとエバが犯した罪は「原罪」(Original Sin)と呼ばれますが、神は、人が罪を犯したその時、すぐに、この「原罪」を解決する「原福音」を備えてくださったのです。

 三、女の子孫

 この箇所の「女の子孫」とは、イエス・キリストのことです。ガラテヤ4:4に、こう書かれています。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」創世記の「女の子孫」は、新約では「女から生まれた者」と言い替えられています。人は誰でも母親から生まれます。女から生まれた者」です。しかし、ここで救い主がわざわざ「女から生まれた者」と呼ばれるのは、救い主が、人間となってこの世に生まれることを言っているのです。救い主は、神と人との仲立ちをするものですから、救い主はまことの神であり、同時にまことの人でなければなりません。この条件を満たすお方は、正真正銘の人となられた神の御子イエスのほかありません。

 ガラテヤ4:4で「また律法の下にある者となさいました」とあるのは、神の御子が神がすべての人間に求めておられる霊的、道徳的な定めの下にお生まれになったことを意味します。ほんとうはイエスこそ人々に律法を与え、国々を治めるべきお方なのです。なのに、イエスが律法の下に置かれました。なぜでしょう。私たちは神がしてはならないということを行ってきました。また、神が私たちに命じておられることを行なわない怠慢の罪も犯してきました。アダム以来、神の律法を破り、行ってこなかったあらゆる罪の責任を背負うために律法の下に立たれたのです。アダムは神のことばに不従順でしたが、第二のアダムとなられたイエスは神のことばに従順に生き、律法の要求をすべて満たされました。イエスが「律法の下にある者」となられたのは、私たちが満たすことのできなかった神の律法を、私たちに代って満たしてくださるためだったのです。

 そのためにイエスは、あの十字架で、全人類の罪を背負って死んでゆかれましたのです。アダムがエバに転嫁し、エバが蛇に転嫁した罪を、神は、ご自分のひとり子イエス・キリストに転嫁されたのです。アダム以来の罪と、私たちの犯している罪のすべて、人が自分の罪を認めず、他の人にそれを転嫁し、責任をなすり続けてきたそのすべてを、神は救い主イエスに転嫁し、イエスは進んでそれらをご自分の身に背負ってくださったのです。「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」というのは、イエスの十字架を預言しています。救い主が世に来られたとき、悪魔は救い主を亡きものにしようとし、ついにイエスを十字架に追いやりました。しかし、それは、彼が神の御子にかみついただけのことで、御子イエスは、その死によって死を滅ぼし、その復活によって、悪魔の頭を踏み砕いて徹底的な打撃をお与えになりました。

 アダムとエバが罪を犯し、まだそれを悔い改めていない時から、神は人のために救いを備えてくださり、約束してくださいました。創世記には世界のはじまり、人間のはじまり、罪のはじまりが書かれていますが、同時に罪からの救いを告げる福音のはじめもまた、すでに書かれているのです。なんと驚くべきことでしょう。神はそれほどに、人間を愛し、その悔い改めを待ち、救いを望んでおられるのです。

 神は聖にして義なるお方です。もし、神が愛とあわれみの神でなければ、私たちは神を怖がることはあっても、罪を悔い改めて、神に近付こうとする心は起こってこないでしょう。神が愛の神でなければ、私たちは決して自分の罪を言い表そうなどとはせず、数限りなく言い訳を作って自分を守ろうとするでしょう。神が罪人にさえ、あわれみをもって臨み、恵みをもって取り扱ってくださるからこそ、私たちは神に対して素直になり、正直になれます。この愛の神が備えてくださった救い主イエス・キリストを、そのような素直な心で信じ、受け入れましょう。それこそが、神が最も喜ばれることであり、私たちにとって最も幸せなことなのです。イエス・キリストによって罪を赦され、神に愛され、聖霊に守り導かれる生活がそこから始まるのです。この週も、キリストがくださる罪の赦しの恵みの中に歩み続けましょう。

 (祈り)

 恵み深い神さま。あなたが、どんなにか人を愛し、その救いを願っておられるかを知り、心から感謝します。あなたの愛のお心から出たあなたのお言葉を、しっかり心に留め、あなたの言葉に従って生きる者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/24/2021