神は、ほんとうに言われたのですか

創世記3:1-7

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3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 一、堕落の事実

 創世記3章は人間の堕落の物語です。この物語はバベルの塔やノアの洪水と同じようによく知られているのですが、それだけに、聖書には書かれていないことが付け加えられたり、間違って解釈されるようになりました。これは、何の根拠もないことですが、一般にはアダムとエバが取って食べたのは「りんご」だったことになっています。英語で Adam's apple というと、「のどぼとけ」(医学的には「甲状軟骨」)のことで、これは、アダムがあまり急いでりんごを食べたので、そのかけらがのどにつまってできたという作り話から来ています。そんなことから、Apple & Eve というアップル・ジュースのブランドもあるほどです。人々はアダムとエバの物語を神話のひとつであると考えるようになりましたが、聖書はこれを神話としてではなく、歴史として記録しています。

 創世記には「トールドット」ということばが10回出てきます。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」(創世記2:4)の「経緯」と訳されている言葉がそれです。このヘブル語は、ギリシャ語で genesis と訳され、それが「創世記」の英語の書名になりました。genesis は英語で言えば generation です。口語訳や新共同訳では、「系図」と訳され、5:1は「アダムの系図」、6:5は「ノアの系図」となっています。しかし、そこには系図以上のことが書かれています。アダムからはじまる世代の人々がどように生きたか、何をしたかが書かれているのです。ですから、「系図」というよりは「世代の記録」、「歴史」と訳したほうが良いことばです。実際、新改訳聖書では「アダムの歴史」、「ノアの歴史」となっています。創世記から申命記までの「律法の書」はモーセによって書かれました。モーセはイスラエルのエジプト脱出を導いた指導者であり、神のことばを授かった預言者ですから、出エジプト記から申命記までを自分の体験に基づいて書くことができました。しかし、創世記は、モーセが生まれる以前の出来事ですから、モーセは神の民の間に伝えられてきた歴史を参照する必要がありました。創世記の「天地創造の経緯」、「アダムの歴史」、「ノアの歴史」などと「トールドット」が使われている部分が、モーセが参照した歴史記録だったと思われます。つまり、「アダムの歴史」、「ノアの歴史」というものがすでにあってモーセがそれをまとめて「トールドット(ジェネシス)の書」である創世記ができたと考えられます。創世記5:1に「これはアダムの歴史の記録である。」とあります。これは King James では The book of generations と訳されています。アダムは架空の人物ではなく、歴史上の人物であり、創世記はその歴史の記録なのです。

 アダムのことは聖書の他にも書かれています。歴代誌第一の最初の9章はイスラエル人の系図に費やされていますが、その系図は「アダム」から始まっています。ユダ14にはエノクがアダムから七代目であることが書かれ、ルカの福音書にあるイエス・キリストの系図もアダムにまでさかのぼっています。使徒17:26には「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とお定めになりました。」とあって、すべての人は「ひとりの人」アダムの子孫であることが、はっきりと書かれています。

 アダムが罪を犯したことについても、聖書は触れています。ヨブ記には「あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。」(ヨブ31:33)と言い、ホセア書には「ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」(ホセア6:7)とあります。テモテ第一2:13-14には「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあって、創世記3章にあるようにアダムとエバが罪を犯したことを教えています。

 さらに、ローマ5章に「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、…一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」ということばがあります。これはひとりの人アダムによって罪が世界にはいり、罪によって死がはいったが、もうひとりの人、イエス・キリストがアダムの罪を引き受けて死なれることにより、人が罪から救われる道が開かれたということを教えているものです。アダムは全人類の先祖であり、その代表者でした。ですから、全人類はその先祖の罪を受け継ぎ、代表者の失敗の結果を引き受けるようになったのです。しかし、イエス・キリストは、人類の新たな代表者となり、その身代わりの死によって、罪の赦しといのちとを分け与えてくださるのです。コリント第一15章にあるように、キリストはその十字架と復活によって「新しいアダム」、「第二のアダム」、「最後のアダム」、「人類の新しいかしら」となられたのです。

 イエス・キリストの十字架と復活が歴史の事実であることは一般の歴史家も認めるところであり、キリストを信じる者はキリストの十字架によって罪を赦され、キリストの復活によって新しいいのちを受けています。キリストの十字架と復活の事実とその結果を自分の身をもって体験しています。もし、十字架と復活が事実でなければ、二千年の間、世界中の真実なクリスチャンたちが共通した救いの体験を持つことはありませんでした。十字架と復活を否定するなら、その後の歴史を否定することになってまします。同じように、アダムとその堕落が「おとぎ話」であるなら、キリストの十字架と復活も「おとぎ話」になり、聖書のすべてを否定しまうことになります。聖書がどんなに素晴らしい書物であったとしても、それが事実に基づかないなら、たんなる文学であり、聖書は人にエンターテーメントを与えることはできても、救いを与える書物ではなくなってしまいます。アダムの堕落は人類の祖先に実際に起こったことであり、それは、私たちが今、現に体験している世界の混乱のはじまりを教え、また、イエス・キリストによる救いへとつながっていくものなのです。

 二、堕落の経緯

 アダムの堕落が歴史の中で起こった事実であることを確認しましたが、では、アダムが犯した罪とはいったい何だったのでしょうか。アダムはどのようにして、罪を犯すようになったのでしょうか。次に、そのことを学ぶことにしましょう。

 第一に、それは神のことばへの不従順でした。2:16-17に「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」とあります。神はアダムとエバにエデンの園のすべてをお任せになったのですが、その中の一本の木、善悪の知識の木からだけは、その実を取って食べてはならないと命じられました。「木の実を取って食べてはならない。」とは、ずいぶん単純な命令ですが、人類の歴史の第一ページの段階では、神が後に神の民に与えた十戒やさまざまな律法のような複雑なものは必要なかったのです。しかし、なんらかの命令は必要でした。神のかたちに造られ、地を従わせ、そこに住む生き物を支配する力を与えられていたので、人間は自分を神と思うようになってしまいかねません。神が人間に命令をお与えになったのは、人間が神ではなく、この世界の主ではないことを知るためでした。神が命じ、人は従う。そのことによって人は、神が造り主であり、自分が造られたものであること、神が主であり、自分がしもべであることを知るのです。神は、神と人とのもっとも基本的な関係を知らせ、それによってアダムとエバに従順を教えようとされたのです。

 神が「善悪の知識の木」を禁じられたのは、神が人間に知識を与えるのを惜しまれたということではありません。神はすでに、アダムに知恵や知識を与えておられました。アダムは、家畜や鳥、獣に名前をつけましたが、それはそれぞれの動物の特徴や習性を知らなければできないことでした。神は人間が知恵と知識に成長するように願っておられるます。ヤコブ1:5に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあるほどです。しかし、神が与える知恵と知識は、現代の人々が求めている知恵、知識とは違います。箴言1:7に「主を恐れることは知識の初めである。」とあるように、それは、神を神として敬い、愛し、従うことに基づいた知恵、知識です。神は、最初の人類に、まず神を恐れることを教え、それから、さまざまな知恵、知識を与えようとしておられました。神を恐れることを知らない知恵、知識はかえって、人間を駄目にするからです。もし、神を恐れることやいのちの尊さを幼いときにしっかり教えないで、ただ成績の良い子どもだけを作ろうとしたら、子どもたちは知識に振り回されて、神への信仰を失い、人を傷つけ、自分で自分を駄目にしてしまうことでしょう。「神を教えない教育は賢い悪魔を作るだけだ。」ということわざの通りです。人類の父である神は、そのことをよくご存知であり、アダムとエバが、まず神を恐れ、敬い、従うという順序を踏んで、本物の知恵、正しい知識を持つよう、願っておられたのです。

 第二に、それは誘惑によって引き起こされました。人間を誘惑したのは蛇です。3:1に「蛇が一番狡猾であった。」とあるように、蛇はなかなか賢い動物です。しかし、いくら蛇が賢くても、蛇そのものが、神のことばを理解し、人間の気持ちを察し、人間のことばを話すことはできません。聖書には他にロバが口をきいたことがしるされていますが、そこには「主が、ろばの口を開かれた」(民数記22:28)とあります。神がロバを使って人間に語りかけたのです。蛇の場合も同じで、蛇の背後にある「誘惑する者」が蛇を使って、人間に語りかけたのです。この「誘惑する者」が「サタン」や「悪魔」と呼ばれる存在であることは、聖書の他の箇所にあきらかに教えられています。

 サタンとは誰なのか、どのようにしてサタンが存在するようになったのかについては、別の機会に学びたいと思いますが、「サタン」ということばには「敵」という意味があり、サタンが神に敵対する存在であり、神が愛しておられる人間を神から引き離そうとしていることだけは、知っておいてください。サタンは神に敵対して神のもとから退けられ、自分と同じ運命に、人間を引きずりこもうとしている存在です。

 人間は常に、神の命令とサタンの誘惑の二つの間にいます。そのことは、イエス・キリストがサタンの誘惑に遭われたことから知ることができます。イエス・キリストは洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という父なる神の声を聞きました。ところが、そのすぐあとにサタンの試みを受けています。もし、「サタンなどというものはいない。それは人間の心の中にある悪の象徴にすぎない。それは、人間の悪い心を人格化したものだ。」と言うなら、アダムには最初から悪い心があったことになります。また、イエスにも罪があったことになります。アダムは神によって良いものとして造られ、イエスはきよい神の御子で罪のないお方でした。アダムへの誘惑やイエスへの誘惑は、外側から来たものです。誘惑は正しい者にも悪い者にも同じように臨みます。しかし、正しい者は誘惑を退けて、神に従うことを選ぶのです。

 第三に、堕落はアダムとエバの間違った選択によって起こりました。アダムとエバは誘惑に乗り、神に逆らったのです。サタンの誘惑はいつも巧妙です。サタンが人間を誘惑するときには、まず、神のことばを疑わせます。神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」という寛大な命令を与えておられたのに、サタンは、それを変えて「園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。「食べてよい」ということばを「食べてはならない」と変えて、神の寛大さ、人間に対する愛を疑わせようとしたのです。

 次に、サタンは、人間の思い込みや不確かさを突いてきます。エバは「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とサタンに答えていますが、エバの答えは、かなりあやふやです。神は「善悪の知識の木」と言われましたが、エバは「園の中央にある木」と言っています。神は「取って食べてはならない。」と言われましたが、エバは「それに触れてもいけない。」ということばを付け加えています。また、神は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われたのに、エバは「死ぬといけないからだ。」と、神のことばをあいまいなものにしています。このようなあいまいさがサタンに隙を与えるのです。その隙を突いて、サタンは「あなたがたは決して死にません。」と、まっこうから神のことばを否定しました。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」とささやきました。「神は、人間が知識を得て神のようになり、自分のライバルになることを恐れ、その木の実を禁じているのだ。そんなケチくさい神の言うことなど、聞く必要はない。さあ、手を伸ばして、あなたがたも神のようになるがよい。」と言って、ついに、人間に神のことばに逆らわせ、罪を犯させたのです。こうして、サタンは神が愛しておられた人間を神から引き離すことに成功したのです。アダムとエバが犯した罪は、たんに木の実のひとつを取ってしまったというだけのものではありません。それは、きよく偉大な神を、人間がライバルになるのを恐れる程度の小さく卑しいお方に引き下げることであり、人間をいつくしんで、すべての良いものを豊かに与えておられる神の愛を裏切ることだったのです。

 アダムとエバ以来、その子孫である私たちも同じ罪を犯しています。アダムの堕落の物語は、そのまま私たちの堕落の物語です。人々は、神のことばを決して尊んではいません。聖書が教えることよりも、「知識人」と言われる人がテレビで話したり、雑誌に書いていることのほうに耳をかたむけています。聖書を学んでいる人でも、自分に都合のよいところは受け入れますが、そうでないところは飛ばしてしまうことがあるかもしれません。聖書には、確かに理解しにくいところ、受け入れにくいところがありますが、それをそのままにしておき、あやふやなままにしておくと、サタンはそこから入り込んで神のことばを疑わせ、ついには神のことばそのものを否定してくるのです。

 もちろん、いきなり神のことばを否定されたら、誰でも警戒します。それで、サタンは、人間を持ち上げ、人間のプライドを利用するのです。「あなたたちの教会は、聖書をそのまま信じるなどという時代遅れなことをまだしているのですか。そんなことをしていたら、時代から取り残されてしまいますよ。聖書は神話にすぎないのです。それを現代の思想に合わせて文脈化し、非神話化していくのが、みなさんのようにインテリジェントなクリスチャンのすることではありませんか。」などと言って人間の知識や能力を持ち上げるのです。サタンは人間の味方であるようなふりをしますが、それは人間のプライドをくすぐって、神に頼らせないようにしているだけなのです。これはサタンの巧妙な罠です。サタンはイエスを誘惑したときも、「石をパンに変えて、人々の空腹を満たして、人々の心をつかんだらどうでしょうか。」「神殿の屋根の上から飛び降りるような派手なことをして人々をあっと言わせて自分を売り込みなさい。」「わたしと手を組めば、世界はあなたのものになるのです。」と言いました。そのときもサタンは、まるでイエスの伝道を助ける協力者であるかのようにして近づいたのです。

 このサタンに対して私たちがとらなければならない態度はただひとつ、神のことばに聞き従うことです。アダムは神のことばを疑い、それを守らず、それに逆らいました。しかし、イエスは、神のことばを守り、それに従い通しました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と言って、神のことばによってサタンの誘惑をはねのけました。私たちはアダムの不従順を引き継いでいますが、イエス・キリストを救い主とし、キリストに信頼するとき、サタンの誘惑に打ち勝ち、神のことばに従順な歩みをすることができるのです。

 誰も自分は大丈夫、自分は素晴らしいと思っていたいものです。自分は堕落している、あるべきところから転落しているなどとは考えたくありません。しかし、正直に自分を見つめることができる人なら、誰でも、アダムとエバの堕落がそのまま自分にあてはまることが分かります。人間の堕落の物語は暗く、悲しい物語ですが、それが自分自身のことであると知るのは、もっと悲しく、苦痛なことです。しかし、神は自分の罪に嘆く人、苦しむ者を決して見捨ててはおりません。アダムは疑いから不従順への道を歩みましたが、キリストは疑いを信仰に、不従順を従順にかえる道を開いてくださいました。人間の堕落の事実は、キリストの救いの事実へ導きます。罪を認め、それを悔い改めることが救いと赦しの第一歩です。神の命令のことばに逆らって罪を犯した者も、神の救いのことばに聞き従うなら罪の赦しを得、回復の道を歩むことができるのです。今朝のこの礼拝を、神のことばに聞き従い、回復の道を歩みはじめるときとしようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは人間を良いものとして造り、人間を愛し、人間にすべての良いものを与え、ものごとを選択する自由をも与えてくださいました。それは、人間があなたの愛にこたえるためでした。あなたへの愛を自由に選ぶのでなければ、それはほんとうの愛にはならないからです。しかし、人間はその自由をもって、あなたに背を向けました。あなたへの愛は、あなたのことばに従順であることによって表わされるべきものですのに、人間は不従順をもってあなたの愛に報い、今も、不従順の中にいます。私たちに、それがどんなに惨めな結果をもたらすかを教え、私たちをみことばに従う者としてください。不従順から立ち返らせ、信仰の従順へと導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/8/2009