イサク―信仰の勇者(3)

創世記26:17-33

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26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
26:24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
26:28 それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」
26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

 一、信仰と柔和

 この夏は、「信仰の勇者」というシリーズで、旧約の人物を学んでいます。すでに、ノアとアブラハムについて学びました。信仰の勇者の三人目はイサクですが、イサクは「勇者」というタイトルが似合わないほど柔和で従順な人でした。イサクは、父親のアブラハムによって、創世記22章にありますように、父親のアブラハムがイサクをささげようとした時、彼は父親の言うがままに従っています。イサクはたきぎを背負って父親と一緒に山を登ることができるほどの年齢になっていましたから、自分を縛りあげ、刀を振り下ろす父親に十分に抵抗することができたはずです。しかし、イサクは、父親に何の抵抗もせず父親に服従しています。創世記26章でも、ペリシテ人たちが、アブラハムが掘った井戸を埋め、イサクを追い出しても(12〜16節)、争うことなく引き下がっていますし、せっかく掘った井戸も彼らに渡しています(17〜22節)。イサクの柔和な性質がここにも見られます。

 では、イサクはまわりの言うがままになる弱々しい人だったのかと言うとそうではなく、彼は芯の強い人でした。イサクのしもべたちとゲラルの羊飼いたちとの間に争いがあった時、イサクは、自分のしもべたちを引き下がらせていますが、これはリーダシップがなければできないことです。争いをあおるのは簡単ですが、血気盛んなしもべたちを納得させるのは並大抵のことではありません。また、イサクを追い出したペリシテの王アビメレクがやってきた時には、「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」(27節)と、言うべきことをはっきりと言っています。イサクは、やはり「勇者」でした。しかし、荒々しい勇者ではなく、柔和な勇者でした。

 イサクばかりでなく、神を信じる者たちには、強さと柔和さが求められています。山上の説教でイエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。」「心のきよい者は幸いです。」「平和をつくる者は幸いです。」「義のために迫害されている者は幸いです。」と言われました。正義を追求してやまない勇気、まわりがどんなであってもそれに迎合しないで自分をきよく保つ純粋な心、争いの中に平和をつくり出していく創造的な力、迫害にも屈しない強い心を、イエスは私たちに求めておられます。神を信じる者、キリストに従う者は、この世にあって「害にはならないが、役には立たない」無力な存在でなく、社会を、そして世界を変えていく者たちでなのです。しかし、クリスチャンは、仰々しく正義をふりかざしたり、自己を主張したり、自分たちのイデオロギーを押し付けたり、歯を食いしばってやせ我慢をする者たちではありません。イエスが「心の貧しい者は幸いです。」「悲しむ者は幸いです。」「柔和な者は幸いです。」「あわれみ深い者は幸いです。」と言われたように、クリスチャンは自分の弱さを知る心貧しい人、自分の罪を悲しむ人、自己主張をせず、神のみこころと他の人のしあわせを願う柔和な人、人の痛みを感じ取ることができるあわれみ深い人であることが求められているのです。

 しかし、どのようにしたら、イエスが求める柔和を持つことができるのでしょうか。理不尽なこと、自分勝手に振舞う人が多い現実の中で、柔和であることは簡単なことではありません。どんなに気をつけ、努力していても、私たちの心は、さまざまなことで乱されて、柔和さなどどこかに行ってしまうことが多いのではないでしょうか。どこに行ったら、柔和な者になれるのでしょうか。イエスのもとに行くことです。イエスはこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)口語訳では「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」となっています。イエスご自身が「わたしは柔和である」と言っておられるのはとても不思議な気がしませんか。私たちがこんな言い方をしたら、イヤミにしか聞こえないでしょう。それに、私たちは「私は柔和だから、私は親切だから」などととても言うことができません。柔和な時もあれば、とげとげしい時もあり、親切な時もあれば、不機嫌な時もある、私たちは常に柔和ではないし、いつも変わらず親切ではないからです。しかし、イエスは、どこまで行っても柔和なお方です。イエスは柔和そのもののお方です。

 このように考えますと、「わたしは柔和である」ということばは、ヨハネの福音書でイエスが「わたしはいのちのパンである」「わたしは世の光である」などと言われたのと通じるところがあるのに、気付きます。イエスが「わたしはいのちのパンである」と言われたのは、「わたしがいのちのパンなのだ。わたしの所に来て食べなさい」と、私たちにご自分を与えようとしておられました。「わたしは世の光である」と言われた時も、「わたしの光を受けて命を得なさい」と、イエスは私たちを招いておられたのです。イエスは、柔和を求める私たちに、「わたしが柔和なのだ。わたしのところに来てそれを得なさい」と招いておられるのです。私たちに「柔和な者であれ」と求めておられるイエスご自身が、「柔和」そのものであり、私たちに柔和を与えてくださるというのです。イエスは、私たちに出来ないことを求められることはありません。イエスは、私たちに何かをするように求められる時、かならず、それを行う力も備えてくださっているのです。イエスが私たちに何かを求められる時、それは必ずイエスのもとにあるのです。柔和もまた、イエスのもとにあり、イエスから受けるのです。

 ただし、柔和を身につけるには、すこしばかりの訓練が必要です。イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言っておられ、私たちは人生という学校でイエスから訓練を受けなければなりません。信仰の勇者たちは皆、アブラハムも、イサクも、神からの訓練を受けて、約束のものを得ました。私たちはイエスから訓練を受けるのです。イエスのくびきや訓練を恐れることはありません。イエスは柔和なお方で、そのくびきは負いやすく、その荷は軽いからです。私たちも「わたしのところに来なさい」とのイエスのことばにこたえましょう。イサクをはじめ、信仰の勇者たちが持っていた「柔和」を、イエスから受け取りましょう。

 二、柔和の報い

 私たちは、柔和であること、つまり、神の前にへりくだり、他の人に対して優しくあることをとても大切なこととしていますが、一般には柔和であることは、重んじられてはいません。多くの人は、柔和であっても一銭の得にもならないと考えています。皆さんも「自分を大きく見せないと人から軽く見られる」「人のものでも奪いとらなければ機会を逃す」と、まわりから言われ、自分でもそう思ってきたのではないでしょうか。しかし、聖書は、柔和であることには大きな報いが伴うと約束しています。イエスは「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5)と約束しています。イサクはこの約束のとおり、地を相続しました。彼はペリシテ人との争いを避けてベエル・シェバにやってきましたが、その時、神はイサクに「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」(24節)と語りかけました。神は、アブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。…この地をあなたとあなたの子孫とに与える。」(創世記12:2、13:15)と約束されたことを、イサクにも引き継いでくださったのです。神は、ペリシテ人に土地を追われたイサクに、「彼らの土地もあなたとあなたの子孫に与える」と約束してくださったのです。この約束はイサクの子どものヤコブにも繰り返され、ヤコブの十二人の子どもたちは、イスラエルの十二の部族となって、実際にカナンの土地を相続しました。「柔和な者は、地を相続する」とは、ほんとうです。

 また、柔和な人は、そのことによって、神の祝福を受けます。イサクは、アブラハムから財産を相続しましたが、それをひとつも失うことなく、むしろ、その財産は増し加わっていきました。神の祝福が目に見える形で与えられたのです。それで、イサクを追い出したペリシテの王は、イサクと平和条約を結びたいと、わざわざイサクのところに出向いています。ペリシテの王は「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」(28-29節)と言いました。イサクがペリシテの王に「私たちには主がともにおられる。私たちは主に祝福されている。」と言ったのでなく、ペリシテの王がイサクに「あなたには主がともにおられる。あなたは主に祝福されている。」言ったのです。しかも、ここで使われている「主」は、神のお名前のひとつである「ヤーウェ」という言葉です。まことの神を信じていないペリシテの王さえも、神のお名前を使って、イサクに与えられた神の祝福を認めているのです。イサクは、争いをしかけられてもそれを避け、不利益を受けてもそれを怒ったり、嘆いたり、つぶやいたりせず、神の報いを認めて歩み続けました。そのことが、このようなあかしとなったのです。私たちも「あの人は神から祝福されている」とはっきりわかるような生き方をしたいものです。他の人からそのように言われること以上に大きなあかしはありませんね。イサクは神の祝福を受けただけでなく、その祝福を人々にあかしする者になったのです。「あなたは祝福の基となる」という約束はイサクの柔和な信仰と生活の中で実現していったのです。

 新約時代のクリスチャンは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた「祝福の基となる」という約束を引き継いでいます。アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束は、イエス・キリストの救いにによって成就し、キリストを信じる私たちに、救いのメッセージが委ねられ、それが今、世界中に宣べ伝えられています。私たちも、アブラハムやイサクの信仰にならう時、彼らと同じように祝福にあずかり、その祝福を他の人に分け与えることができるようになります。今年のサンタバーバラ夏期修養会では「テサロニケ人への手紙」からのメッセージを聞きましたが、テサロニケのクリスチャンについて、書かれているところを読んでみましょう。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(テサロニケ第一1:6-10)テサロニケの人々はパウロが宣べ伝えた救いのメッセージを受け入れただけでなく、そのメッセージを「マケドニヤとアカヤ」つまり、ギリシャ全土に向けてあかししたのです。テサロニケのクリスチャンは、ギリシャやローマの神々が崇拝されている社会で、「イエス・キリストこそ唯一の救い主です。わたしたちは主イエスがもういちど来てくださるのを待ち望んでいます」と言い表わしたばかりでなく、「あの人たちは、イエスが全世界の王で、そのお方がもう一度天からこられるのを本気で信じている。そのとおりに生きている人々だ」と、人々に言われるように生き、その生活によって、神の祝福をあかししています。自分の口でイエス・キリストは救い主だと語るだけでなく、他の人々に、「あの人たちが、あんなに喜びに満ちているのは、イエス・キリストはまことの救い主だと信じているからなのだ」と言わせること、これこそ、本当の伝道だと思います。

 神は、神を信じる者の生涯を、このように祝福してくださいますが、それは、かならずしも、目に見える祝福であるとは限りません。神に頼る者も、健康に恵まれないことがあるでしょうし、金銭的に裕福でないこともあるでしょう。さままな苦しみに悩まされることもあります。しかし、神は、柔和に、謙遜に、神に従う者に人の思いにまさる平安や、喜びで、私たちを満たしてくださいます。恵まれている時に喜ぶことができるのは、信仰がなくても出来ることかもしれませんが、試練や苦しみの中でも喜びや感謝、希望や他の人への愛やいたわりの心を失わずに生きて行くには、神の恵みと信仰なしにできるものではありません。信仰によって、この世の幸い以上の、神の祝福に満たされ、それによって神の恵みをあかししていくのです。

 ヘブル人への手紙を見ると「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」(ヘブル11:20)とあります。イサクは、偉大な父アブラハムの影に隠れて目立たない人だったかもしれません。しかし、彼の柔和な信仰は報われて、アブラハムに与えられた祝福を次の世代に引き継ぐという大切な役割を果たしているのです。私たちも、多くの人々に祝福を分け与えるという役割を果たしていきましょう。柔和な信仰は、人の目には見えなくても、神に覚えられて、かならず報われることを信じましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、聖書の中に信仰に生きた人々の姿を数多く残し、私たちの励ましとしてくださっています。今朝、イサクの姿を通して、忠実に、謙遜に、柔和にあなたに従う者は、かならず祝福を受けることを教えてくださり、ありがとうございました。あなたの祝福を他の人に分け与えるものとなることができるまでに、私たちを祝福してください。「柔和」という御霊の実を私たちのうちに結ばせてください。そのために、主イエスのもとに行き、主イエスのくびきを負って主イエスにならうものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/20/2003