摂理の神(一)

創世記22:9-14

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22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

 ここには、神がアブラハムに試練をお与えになり、アブラハムがその試練を信仰によって受け止め、神からさらに大きな祝福を受けたということが書かれています。アブラハムは「信仰の父」(ローマ4:11-12)と呼ばれている人で、この箇所からの説教の多くは、アブラハムの信仰について語られるのですが、今朝は少し視点を変えて、アブラハムが信じた神がどのようなお方なのかをご一緒に考えてみたいと思います。

 一、試練を与える神

 神はどのようなお方でしょうか。まず、第一に分かることは、神は、「試練を与える神」だということです。創世記22章は「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた」(1節)という言葉ではじまっています。神は、人を、とりわけ、神を信じる者を「試みる」神なのです。神は、人との愛の関係を深めるため、そうなさるのです。

 「これら事の後」というのは、アブラハムに待望の後継ぎ、イサクが与えられた後、ということです。神はアブラハムを選んで、その子孫が約束の地を相続し、世界の祝福の基となると約束しました。アブラハムはこの約束を信じ通して、ついにイサクの誕生を見ました。ですから、アブラハムの物語は、イサクの誕生で「めでたし、めでたし」と終わっても良かったのです。ところが、神は、なおも、アブラハムを試み、彼に過酷な試練を与えました。それは、せっかく与えられたイサクを神への犠牲としてささげるということでした。人間的に見れば、なんとも残酷で理不尽な要求です。そもそも子どもを殺してささげるなどというのは、かつての時代、まことの神を知らない人々がしていた残酷なことで、神はそのようなことを、律法の中で禁じておられます。それに、約束の子イサクが取り去られれば、神の約束は無に帰してしまうのです。神はアブラハムになさった約束を反故にしようと思われたのでしょうか。神はなぜ、こんな過酷で、理不尽な要求をなさったのでしょうか。

 わたしたちには聖書が与えられており、神のみこころを知ることができるのですが、それでもみこころのすべてが知らされているわけではありません。地上では、神の深いみこころのすべてを完全に知ることはできません。神はなぜ、人に試練をお与えになるのか。その試練にはどんな意味があるのか。それは、第三者からは分からないこと、神と、その試練を受けている人との間であっても、地上では答えのないことも多くあるのです。しかし、神を信じる者が、どんな場合でも、確信をもって言えることは、試練は神の愛から来ているということです。

 わたしは自分の姉から、あることで、「身内だから言うのよ」と言って、注意されたことがあります。誰も、自分に関係のないことに口出しはしません。誰かが間違ったことをしていても、自分に直接の害のないかぎり、遠くから、それを眺めているだけです。しかし、特別な関係のある人には、忠告もし、また、サポートもします。同じように、神が、試練によってわたしたちの人生に干渉してこられるのは、神がわたしたちをご自分にとって特別な存在として見ておられるからです。神は信じる者をご自分の者として愛し、ご自分の「身内」として取り扱ってくださるのです。

 聖く、義しい神は、わたしたちを裁かれますが、神の裁きの中で一番恐ろしい裁きは何だと思いますか。それは「なすがままにされる」ことです。ローマ1:28に「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」とあります。わたしたちが神の言葉に心を塞ぎ、神の招きを無視し続けるなら、神はわたしたちの人生から手を引かれるかもしれないのです。その人が好きなようにするのに任せ、懲らしめをお与えにならないのです。したい放題のことをしながら、痛い目にあわないというのは、じつは、神の最も厳しい裁きなのです。

 聖書は言います。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。」(ヘブル12:6)主イエスもこう言われました。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)神がわたしたちに試練をお与えになるのは、神がわたしたちを愛すればこそなのです。

 次々と大きな試練にあったある姉妹が、宣教師にそのことを話しました。すると、宣教師は、その姉妹に「あなたは神に愛されていますね」と言いました。彼女はそう言われてすぐにはうなずけませんでした。けれども、後になって、「ほんとうにそうだった。神はわたしを愛してくださっていたのだ」と分かったと証ししていました。試練は、神がわたしたちを愛しておられることの「証し」、また「しるし」なのです。

 二、献身を求められる神

 アブラハムに与えられた試練からわかる第二のことは、神が、「わたしたちの献身を求められる神」であるということです。

 アブラハムのこれまでの試練は、神から約束の子どもを「得る」ための試練でした。アブラハムは、子どもがないまま百歳に、妻のサラも九十歳になっていました。医学的には子どもを生むことができない状態で、神の約束は果たされないまま終わるかのように見えました。神はアブラハムを、人間的には望みのないところに追い詰められましたが、それは、神の約束が人間のわざによってではなく、神の力によって成就することを教えるためでした。

 アブラハムは、神の力を信じて、ついに約束の子、イサクの誕生を見ました。ローマ4:18−21に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。…すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」とある通りです。アブラハムは約束のものを受け取るための試練に合格しました。しかし、アブラハムには、さらに必要な試練が残されていました。それは、神から受けたものを神に献げるという試練です。

 神は、祝福をお与えになる神です。健康、医療、食物、衣服、住宅、仕事、教育、家族、友人、さまざまな娯楽。貧しい国々では考えられないほどの数多くの目に見える恵みが、アメリカや日本にはあります。それで、わたしたちは、どうかすると、神は「与える」だけのお方であり、わたしたちが神に求めることはあっても、神はわたしたちからは何もお求めにならないのだと誤解するようになりました。

 確かに神は「与える」神です。しかし、同時に神は「求める」神でもあるのです。そして、それは神が「愛」であるなら、当然のことです。ほんとうの愛の関係とは「愛し・愛される」相互の関係だからです。わたしたちをこよなく愛される神は、わたしたちに愛を求められるのです。わたしたちに真実を尽くされる神は、わたしたちのうちに真実、つまり、信仰を求められるのです。そして、神への愛と真実が形をとって表れた礼拝を求められるのです。ですから、主イエスは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイ22:37-38)「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる」(ヨハネ4:23)と言われたのです。

 アブラハムにとってイサクは、自分よりも大切なものでした。アブラハムへの神の約束はイサクによって実現するわけですから、アブラハムはすべての希望をイサクにかけていました。アブラハムは、「イサクをささげよ」と言われたとき、自分がイサクの代わりに死んでも良いと思ったことでしょう。しかし、アブラハムが自分の命をささげたとしても、アブラハムは彼にとって一番大切なものをささげたことになりません。神が、アブラハムに、彼の命をささげよとは言わず、「イサクをささげよ」と言われたのは、アブラハムにとってイサクが彼の命以上に大切なものだったからです。アブラハムにとってイサクを捧げることは、自分自身をささげることだったのです。

 聖書は、わたしたちに、救いは神からの無償の贈り物であり、人間の側のどんなわざによってでもなく、ただ信仰によってのみ受け取るものであると教えています。これは、聖書の真理であり、全世界に伝えなければならない福音です。しかし、同時に、救われた者が自分自身を神に献げるべきことも、明確に教えています。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)礼拝に集うたびに、神が、わたしたちに「献身」を求めておられることを想い起こしたいと思います。

 三、摂理をもって働かれる神

 第三に、神は、「摂理をもって働かれる神」です。アブラハムは、神を「摂理の神」として信じました。

 モリヤの山に登っていくとき、イサクは、アブラハムに尋ねました。「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか。」アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えました。これは苦し紛れの答えだったのでしょうか。決してそうではありません。この箇所の最後にあるように、神は、アブラハムがイサクに言ったとおり、いけにえの動物を用意しておられました。アブラハムが見ると、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいて、アブラハムはそれをイサクのかわりにささげました。神は、みずから、「燔祭の小羊」を備えていておられたのです。

 それで、アブラハムはその場所を「アドナイ・エレ」と呼びました。これは「主は見ておられる」という意味です。神は、わたしたちには見えない将来のことも、すでに見ておられて、わたしたちの必要のすべてを備えてくださいます。このことは日本語で「摂理」、英語で “providence” と言いますが、英語の “providence” はラテン語の “pro”(前もって)と “video”(見る)という言葉から生まれました。神は「前もって見て」、備えてくださるのです。神は、昔も今も、神に従う者の将来を準備万端、一切を備えていてくださる、摂理の神です。

 実際、神は、私たちのためにイエス・キリストの救いという最高のものを備えてくだいました。イサクは「あなたの子、あなたの愛するひとり子」(2節)と呼ばれているように、ここでは、神のひとり子イエス・キリストの雛型になっています。モリヤの山というのは、このときからおよそ千年の後にそこに神殿が建てられた場所です。そして、神殿が建てられてからさらに千年経って、イエス・キリストは同じモリヤの山のゴルゴタの丘で十字架にかけられました。イサクがたきぎを背負って山に登ったように、イエスも十字架を背負って、ゴルゴタの丘を登りました。神は、アブラハムには「イサクに手を下してはならない」と言われましたが、ご自身は、御子を十字架で死なせました。それは、すべて、わたしたちの救いのためでした。神がアブラハムに「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまなかった」(12節)と言われた言葉は、そのまま、神に対して言うことができる言葉です。ローマ8:32に、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」とある通りです。

 神は摂理の神です。神がお与えになる試練に献身をもって答えるとき、わたしたちは、神が、わたしたちの必要のすべてを備え、わたしたちの人生を導き、支えていてくださるお方、「摂理の神」であることが分かるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは摂理の神です。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28の御言葉がわたしたちの人生において、真実なものとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

2/5/2017