イサクの誕生

創世記21:1-7

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21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

 一、神の約束

 神はアブラハムに「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と約束されました(創世記13:15-16)。また、こうも言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)神はアブラハムの子孫を空の星、地のちりのように増やすと約束されたのですが、そのとき、アブラハムには子どもがありませんでした。妻のサラは不妊のまま二人とも年齢を重ねていました。しかし、アブラハムは、何のしるしも見えないときでも、神を信じました。神が何かをしてくださることを信じただけでなく、神がご自分の言葉に対して真実なお方であることを信じたのです。創世記15:6に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。アブラハムは、あのこと、このことではなく「主」ご自身を信じたのです。神が喜んでくださる信仰とは、神ご自身を信じること、神のご人格を受け入れることです。

 アブラハムもサラも、神を信じ、神に従っていましたが、神の約束の成就を待ちきれなくなりました。それで、サラは自分に仕える女奴隷よってアブラハムの子を得ようとし、アブラハムと女奴隷との間にイシュマエルが生まれました(創世記16章)。そうしたことは、当時、後継ぎのない家庭ではよく行われていたことでしたが、アブラハムは、今まで持っていた信仰から離れ、人間的な手段に走ってしまったのです。

 では、イシュマエルがアブラハムの祝福を受け継ぐのでしょうか。いいえ、祝福を受け継ぐ者は、神の言葉通り、アブラハムとサラとの間に生まれる子でなければなりません。イシュマエルが生まれて13年経ったとき、神はアブラハムに現れ、サラについてこう言われました。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。」(創世記17:16)聖書には、アブラハムは、これを聞いて「笑った」とあります。それは不信仰の「笑い」でした。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか」(同17節)と、神の言葉を疑ったのです。サラも同じでした。サラもまた心の中で笑って神の言葉を信じませんでした。神は言われました。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(創世記18:13-14)神は、アブラハムやサラの不信仰にもかかわらず、アブラハムへの約束を取り消されませんでした。そして、アブラハムとサラとの間に子どもが授かると告げられたのです。アブラハムは、神の言葉によって信仰を取り戻していきました。

 二、アブラハムの信仰

 多くの人は、信じる対象は何であっても、「信じる心」があればそれでいいのだと言います。信じる心があれば、心が安らかになり、人にも寛容になることができ、苦しいことにも耐えられるようになるでしょう。宗教心や信仰心にはそうした力があります。しかし、もし、信じていることが間違ったことであったらどうするのでしょうか。その信念が強ければ強いほど、間違いが大きくなります。たとえば「輸血をしてはいけない」という教えを信じ込んで、自分の家族の命を救わない人もあるのです。誰を信じ、何を信じるかはとても大切なことです。

 また、自分は何をしても長続きしない。「信仰を持つ」といっても、きっと途中でくじけてしまうだろうと考えて、神を信じることをためらっている人も多いと思います。そう考えるのは、自分の信仰心で自分を救わなければならないと思っているからです。確かに、聖書は私たちに信仰を求めています。イエスも「あなたの信仰が、あなたを救った」(マルコ10:52、ルカ7:50)と言っておられます。しかし、それは人間の信仰がその人を救ったという意味ではありません。神の救いの力が、信仰を通してその人に働いたということを言っているのです。人を救うのは神です。人間の「信仰心」や「宗教心」にはその力はありません。信仰は神の力を受け入れる通路です。「信仰によって救われる」というのは、神の救いが信仰という通路を通して人のうちに働くということです。

 また、信仰を保ち、養うことは、自分の力ですること、できることではありません。信仰を支え、養うものは「神の言葉」です。神の言葉は、信仰というランプに注がれる油のようなものです。アブラハムは繰り返し神の言葉を聞くことによって、消えかかっていた信仰のともしびをもう一度輝かせることができました。「信じよう」「信じなければ」とりきんでも、信仰が強くなるわけではありません。心静かに神の言葉に聞くときに、はじめて信仰の目が開かれ、神の言葉を心に蓄えることによって、信仰は神の言葉を養分として育っていくのです。

 ローマ4:18-22は、この時のアブラハムの信仰について、こう言っています。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

 アブラハムは不信仰のうちに13年を過ごしたため、彼は百歳、サラは九十歳になってしまいました。子どもを生む希望が消えていました。しかし、人間の力が失われたときこそ、神の力が働くのです。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」とある通り、アブラハムは人間の力でも、自分の信仰心でもなく、約束を守り通してくださる神の真実と、約束を実現してくださる神の全能とに信頼したのです。いや、真実で全能の神への信頼を取り戻したのです。

 三、イサクの誕生

 そして、約束のとおりにアブラハムとサラに男の子が生まれました。その子は「イサク」と名付けられましたが、「イサク」とは「笑う者」という意味です。アブラハムもサラも、最初、二人に男の子が生まれると聞いたとき「笑い」ました。「そんなことがあるわけがない」という不信仰の笑いでした。しかし、今、アブラハムとサラは、イサクの誕生を喜び、祝って、笑っています。これは信仰の笑いです。詩篇126:1-2にこうあります。「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。」神が私たちの信仰をリバイブしてくださるとき、不信仰の冷たい笑いは消え、心からの喜びを伴った笑いがあふれます。私たちも「私たちの口を笑いで、私たちの舌を喜びの叫びで満たしてください」と祈り求めたいと思います。

 創世記21章は、神の約束が成就して、ひとりの男の子が生まれたことを告げています。奇蹟によって生まれた赤ん坊イサクがサラの膝の上に眠っています。この光景は、クリスマスの光景とよく似ています。

 創世記には、イエス・キリストを予告するさまざまな事柄があります。神は、アダムとエバが罪を犯したとき、「女のすえ」が人を罪の束縛から救うと約束してくださいました。神はノアに「箱舟」を作るように命じ、それがノアの家族の命を救いました。これらはみな、救い主を預言するものです。神はアブラハムを召し出して、彼によってあらゆる民族が「祝福」されると約束されました。そして神はアブラハムにイサクを与え、アブラハムへの祝福の約束が確かなことを示されました。イサクは奇蹟によって生まれました。イエスもまた奇蹟によった生まれました。処女が子どもを産むという奇蹟ですが、その背後には、神の御子が人となるという、さらに大きな奇蹟があります。イエスの誕生はイサクの誕生よりもはるかに大きい奇蹟ですが、イサクの誕生はイエスの誕生を予告するものとなっています。神は、アブラハムに対する約束がどんなに真実なものであるかを示すため、イサクを特別な方法で生まれさせました。同じように、神は、全人類への救いの約束がどんなに真実であるかを示すため、処女が子を産むという奇蹟を起こしてくださったのです。

 また、イエスの母となったマリアとサラとの間に共通するものがあります。それは、二人とも「神、主に不可能なことはない」という言葉を聞いたことです。サラは「主に不可能なことがあろうか」という言葉を聞き、マリアは「神にとって不可能なことは一つもありません」という言葉を聞きました。

 マリアに御使いが表れ、告げた言葉はこうでした。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:31-33)マリアはこの言葉に答えて、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言いました。すると御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と答えてから、「神にとって不可能なことは一つもありません」と言いました(ルカ1:34-37)。

 サラにとって子を産むとことは、にわかには信じられないことでしたが、それは長年願ってきたことであり、彼女にとって喜びでした。しかし、マリアにとって、御使いのお告げは、受け入れがたいものでした。マリアは結婚して子を産むことがどんなことかを理解していました。妻となって子を産み、母となることは、彼女にとって望むところだったでしょう。しかし、御使いのお告げは、今、彼女の胎内に神の御子が宿るということなのです。未婚の彼女が子を産むことは、ユダヤの社会では、刑罰を受けなければならない恐ろしいことでした。御使いはマリアに「おめでとう、恵まれた方」と言いましたが、御使いが伝えた知らせは、もし、神を信じていなければ、マリアにとってめでたいものでも喜ばしいものでもなく、恐怖であり、残酷な仕打ちでしかったのです。けれどもマリアは、御使いの言葉を受け入れました。「神にとって不可能なことは一つもありません」との言葉を信じ、自分の身を献げたのです。マリアは、たとえ人の目には不可能に見えても、神が、その全能の力によってすべてを成し遂げてくださる。自分も守ってくださると信じたのです。

 私たちは、不信仰だったときのアブラハムやサラのように目に見える状況だけでものごとを判断し、人間的な方法に頼って問題を解決しようとしてきました。そして、さまざまな失敗を重ねてきました。「いくら神さまでもそんなことはできない。奇蹟は他の人には起っても、私には起こらなかったし、これからも起こらない」と言って、神の真実や力を制限してきました。イサクの誕生に、そして神の御子の誕生の中に神のご真実とそのお力が表れています。神の御子のお生まれを思うこのシーズンに、それを見つめ直しましょう。そして、真実な神への信頼を御言葉によって養っていただきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、私たちは創世記の中に、救い主イエス・キリストを預言する数々のものを見てきました。イサクの誕生もイエスのお生まれにつながる出来事でした。あなたは御子を世に遣わされる何千年も前から人類の救いを約束し、それを備えてこられ、実行してくださいました。感謝します。「神にとって不可能なことは一つもありません。」私たちもそう言い表して、あなたの全能を信じ、あなたの真実に信頼することができますように。主イエスのお名前で祈ります。

11/28/2021