人とは何者なのでしょう

創世記2:4-9

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2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

 詩篇8:4に「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」とあります。「人とは、何者なのでしょう。」人々はこの問いの答を捜し求めています。「自分が何者か」を知って、確信ある人生を送りたいと願っています。しかし、それに答えることができるのは、人を造られた神の他ありません。そして神は、その答を聖書に示しておられます。

 一、神に生かされている者

 人とは何者なのでしょう。聖書は、まず、第一に人は神によって造られ、神によって生かされている存在であると教えています。創世記2:7はこう言います。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」人が「土地のちり」から造られたというのはほんとうです。人は死ねばそのからだはさまざまな元素に分解され土に帰っていき、その成分のほとんどは土にあるものと同じです。人の体の70パーセント以上は水です。他に石鹸を一個作れるぐらいの脂肪、釘数本分の鉄分、マッチ数本分のリンなどがあるだけです。ある人が、人間のからだを元素に還元したらどれくらいの値段になるか計算したそうですが、せいぜい10ドルぐらいにしかならなかったそうです。

 けれども、私たちの値打ちがたった10ドルだけでないことは誰もが知っています。人の生命は何よりも尊いもので、この生命は神によって与えられたものです。「主は…その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とある通りです。

 このことは、人間は神によって生かされ、神に依存して生きている者であることを教えています。「人」(アダム)という言葉は、「土」(アダマ)から来ています。聖書は、私たちが「土」(アダマ)から造られた「アダムの子」であることを忘れてはならないと戒めています。神は罪を犯したアダムに言われました。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)詩篇もこう言っています。「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」(詩篇90:3)

 多くの人は自分が神に生かされていることを忘れています。神に信頼するより、自分と自分が持っている物に頼っています。イエスが譬話で話された金持ちがそうでした。豊作で穀物倉に入りきらないほどの収穫があったとき、彼は心の中でこう言いました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」しばらく考えましたが、すぐに気がついて言いました。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」そして、こう言いました。「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」すると神は彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:16-20)この金持ちは、人間的な基準では決して「愚か」ではありませんでした。その才能と努力によって田畑をよく経営したので大きな収穫を得たのでしょう。しかし、彼は、自分が神に生かされていることを忘れてしまっていました。彼は自分に向かって「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いましたが、彼は自分の財産が自分を生かしていると思い込み、人を生かしておられる神に信頼しなかったのです。それこそが、神の目から見て、いちばん「愚か」なことなのです。

 詩篇90篇は人生が短く労苦に満ちていることを嘆いていますが、それだけで終わらず、「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」(12節)との祈りに導かれています。ほんとうに知恵ある生き方とは、人生の日々を支えてくださっているのは神であることを知って、神に信頼することにあるのです。詩篇90篇はこう閉じられています。「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(19節)神が私たち一人ひとりを創造し、生かし、支えておられることを知って、神に信頼するとき、私たちは確かな人生を生き、人生を喜び楽しむことができます。さらに、意味あることを成し遂げ、神のために成したことの報いを天で受けることができるのです。

 二、神のかたちを持つ者

 聖書は、第二に人が「神のかたち」に造られたと教えています。創世記1:26-27に「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。この「神のかたち」というのは、人のからだの姿かたちではありません。人の内面、「霊」、「たましい」、「人格」と呼ばれている部分のことです。人(アダム)は土(アダマ)から造られました。しかし、からだは地上のものであっても霊は天のものなのです。

 「神のかたち」を理解するために、創造の6日間をふりかえってみましょう。第3日目に神は地に植物を生じさせました。創世記1:12は「それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた」と書いています。第5日目には海の生き物と空を飛ぶ鳥とを造られました。創世記1:21に「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた」とあります。第6日には地に住むさまざまな動物を造られました。創世記1:25に「神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた」とあります。もう、お気付きになったでしょう。動物も植物もあらゆる生き物は「種類にしたがって」造られています。ところが、人間については「種類にしたがって」ではなく、「神のかたち」に造られたと言われているのです。

 「種類にしたがって」というのは、神がそれぞれの動植物についての原型を持っておられ、それぞれが、その原型にしたがって造られたということです。犬は犬、猫は猫として、それぞれにデザインされ、設計されて、造られました。分類学では人は「ホモ・サピエンス種」に属すると言われます。しかし、聖書によれば、人は「ホモ・サピエンス種」という「種類にしたがって」ではなく、「神のかたち」に造られました。他の生き物はそれぞれの原型にしたがって造られましたが、人の「原型」は、なんと、神ご自身でした。人は神を原型にして、神になぞらえて造られたのです。

 「かたち」というのは目に見えないものを目に見えるように表すものです。神は人を「神のかたち」に造ることによって、人に目に見えない神を目に見えるように表わすという役割をお与えになったのです。つまり人は、この世界に対する神の代理人、representative として造られたのです。Representative といえばアメリカでは下院議員のことですが、国民を代表する栄誉ある立場で、その務めを果たすためにさまざまな特権が与えられています。同じように、神も人に「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)と言われて、神が持っておられる支配権を委ねておられます。

 神は神の民に偶像をかたく禁じられました。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」(申命記5:8)といった言葉が聖書のいたるところにあります。偶像が禁じられているのは、神は地上のあらゆるものを超えた、いと高きお方であって、地上のどんなものも神を表すことができないからです。ところが、「どんなかたちをも造ってはならない」と言われた神が、人を神を表す者、神のかたちとして造られたというのですから、人がどんなにか特別な存在であるかが分かります。人は土から造られた、もろく、小さなものです。しかし、神はその小さな存在の中にご自分の無限のご性質を封じ込めてくださったのです。それは神のご性質が私たちの存在や生活、また、人生を通して表れ出るためです。神を表す者として生きる、ここに「神のかたち」に造られた人間の生きる目的があり、使命があります。これはまた、神から私たちへのチャレンジでもあるのです。

 三、他者とともに生きる者

 第三に、人は他の人とともに生きる者として造られました。日本語で「人間」と言うように、人は他の人と関係を持ちながら「人の間」で生きていく存在です。神は最初アダムだけを造られましたが、「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われ、人のあばら骨から女をお造りになりました。アダムは彼女を見て「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(イシャ)と名づけよう。これは男(イシュ)から取られたのだから」と言い、彼女を喜び、妻として迎えました。

 「人が、ひとりでいるのは良くない」というのは、アダムの場合、結婚を指していましたが、これは結婚のことだけを言っているのではありません。イエスが言われたように生涯独身に定められた人もいますし、配偶者が亡くなったり、離婚したりして「シングル・アゲイン」となる場合もあります。けれども、どの人も、どこかで誰かとつながっています。人は人とのつながりの中で生きていくもの、その中でしか生きていけないものなのです。

 神は愛の神であり、人に愛の内に生きることを求めておられますが、愛とは、他の人との間に生まれるもので、誰ともどんな関わりも持たずに孤立していては愛を実践することはできません。創世記1:27に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人が他者と関係を持つ者として造られたことと、神のかたちに造られたこととは深く結び合っています。他の人と共に生き、互いに愛し合うことの中に、神のかたちがあると言っているのです。

 神は人間をすばらしく造り、この世界の良いものを与えてくださいました。そこに神の愛が表れています。さらに、罪の中に堕ちた人間のために、御子イエス・キリストを与え、人を聖霊によって新しく造り変えてくださいました。そこにはさらに大きな神の愛が示されています。では、神は人を創造されたときから愛することを始められたのでしょうか。いいえ、神は、永遠の先から聖霊の愛をもって御子を愛しておられました。神は永遠から永遠まで愛の神です。「神のかたち」の中には、この神の永遠の愛が刻み込まれているのです。人間は高度な知性、豊かな感情、また自由な意志など、他の動物が決して持つことができないものを持っています。それらは「神のかたち」の表れですが、そうしたものに勝って神を表すものは愛です。ご利益を得るためではなく、真心から神を愛し、見返りを求めてではなく、損得をこえて他を愛する、そうした愛が「神のかたち」の中で最も尊いものなのです。

 「人は何者なのでしょう。」人は土からとられた土の器です。しかし、神はその土の器を「神のかたち」とし、人を神の栄光の器としてくださいました。人は、神の愛の対象です。人には他の人と共に生き、愛によって神を表す使命が与えられています。この神の愛を知り、神の愛を受け入れてください。そして、愛の神を表す器となれるよう、祈り求めましょう。

 (祈り)

 造り主なる神さま、私たちは自分が何者なのかが分かるときはじめて、何のために、どう生きていいかが分かります。私たちはあなたに愛され、あなたの愛を表すために造られました。そして、そのことができるため、あなたは御子イエスを救い主として私たちに与えてくださいました。この救い主によって、私たちは愛に生きる人生を歩むことができ、それによって、「神のかたち」としての使命を果たすことができます。私たちをそのような者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/10/2021