神が休まれた日

創世記2:1-3

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2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 一、混沌から秩序へ

 聖書はこの世界が造られた様子を一週間、七日の枠組みの中で描いています。私たちはそこに、神の存在、神の主権と力、知恵と知識、そして神の愛といつくしみを見ることができます。

 創世記1:1に「初めに、神が天と地を創造した。」とあるように、聖書は神が世界がはじまる前から永遠に存在しておられたと教えています。このことは、聖書のいちばんはじめに書かれているように、信仰の出発点であり、すべてのものの出発点です。ある時のことですが、私は聖書のことや信仰のことを、まだクリスチャンでない人に話していました。その人が相槌をうってよく話を聞いてくれるので、私はその人に「あなたも神を信じませんか。」と勧めました。ところが、返ってきた返事は「たいへんためになる話でしたが、ところで、神ってほんとうにいるんですか。」というものでした。私の話を聞いてくれた人は、「神」とは人間が心の中で作り出した概念であって、実在のものでないと堅く思い込んでいたのです。ですから、その人にとって、私の話は「宗教の話」でしかなかったのです。そのことがあってから私は、信仰の話を神の存在からはじめ、聖書の話をできるだけ創世記からはじめるようにしています。神が存在されることは十分に証明できます。この世界の存在が神の存在を示しているからです。神が世界を創造しました。存在の根源である方がこの世界を存在させたのです。したがって神が存在されなければこの世界は存在しません。無神論の人が「神はいない!」と叫んだとしても、それは、神がその人に「神はいない!」と考えることができる知性を与え、そう叫ぶことができる口を与えたからです。神に造られたこの世界と私たち自身が、神が存在されることのまぎれもない証拠なのです。

 聖書はまた、神は主権者であると教えています。創世記1:2に「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり」と書かれているように、はじめ、世界には秩序がなく、それは闇に覆われていました。神はそのような世界に働きかけ、第一日目に闇の中に光を造り、昼と夜とを分けました。第二日目には大空と海とを造り、天の水と地の水を分けました。第三日目には海の中から陸を生じさせ、水と地とを区別しました。つまり、神はさまざまなものが混沌として入り混じっている世界に区別をつけ、法則を定め、そこに秩序を与えられたのです。この世界はみごとな法則によって秩序を保っていますが、その法則を定められたのは神です。神はこの世界を造り出された創造者であるとともに、この世界をみごとな法則によって治めておられる主権者です。

 さらに、聖書は神の知恵や知識を示しています。この世界にじつにみごとな調和を保っていますし、肉眼で見えない微生物でもじつに精巧な仕組みで成り立っています。こうしたものが偶然が重なってできあがったと信じることほど困難なことはありません。すべての造られたものの背後に偉大な知性があることを、私たちは認めないではおれません。人が建物を建てるときには、まず設計図を描き、材料を集め、まず土地を均し、基礎を据えます。それからそこに設計図に従って順序正しく建物を作り上げていきます。無計画に、いきあたりばったりに建物を造ったりはしません。そうでないと、どの建物もウィンチェスター・ミステリー・ハウスのようになってしまいます。この世界の偉大な設計者であり、エンジニアである神は、みごとな設計により、順序正しくこの世界を造りあげました。世界は神の知恵と知識をあかししています。

 聖書はさらに、神の愛といつくしみを教えています。神はあらゆる生き物に必要な光を真っ先に造り、光と熱を供給する天体を生き物が造られる前に造っています。神は魚を造る前に海を造り、鳥を作る前に空を造り、地上の生き物を造る前に陸地を造り、そこにすでに植物を生じさせていました。その逆ではないのです。神は、ご自分が造り、命を与えた生き物たちをいつくしんで、彼らが生きていくことのできる環境をあらかじめ備えていてくださったのです。神は、人間には特別な愛を注ぎ、人間を、すべての植物や動物が造られたあと、あらゆる環境が整ったあとで、六日目の最後に造りました。最初の人間が造られたときには、動物たちは人間に従い、木々は実をならせ、手を伸ばせばすぐに食べられるようになっていたのです。人間が造られたときにはすべてが準備されていました。ちょうど親が子どもを出産する前にすべてを準備しておくのと同じです。実際、神はこの世界を人の住みかとして、人間のために造ってくださったのです。

 進化論では地上の生物は生存競争を潜り抜けて今日のようになったと言いますが、聖書は、すべての生き物は神の愛といつくしみによって存在していると教えています。現代、多くの動物や植物が絶滅の危機にあります。人間が環境を壊し、それが生体系を狂わせ、動物や植物が環境の変化に耐え切れなくなっているのです。どの生き物も自らの生命力で自分を支えて生き残っていけるほどたくましくはありません。神によって支えられてこそはじめて生きていくことができるのです。詩篇104篇にはこの神のいつくしみが次のように歌われています。「彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。あなたが時にしたがって食物をお与えになることを。あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。」(詩104:27-28)すべてのものは神に依存しており、すべての生き物は神によって生かされています。どの生き物も神の愛といつくしみ、また、神の守りなしには生きていくことができないのですが、人間の場合はもっとそうです。私たちの人生は動物たちの一生よりももっと複雑です。さまざまな戦いがあります。神によって支えられなければ、ほんとうの意味での人生を生きることはできないのです。私たちが神に造られた存在であり、神なしには生きてはいけないという真理をもういちど心に刻みましょう。

 二、秩序から聖別へ

 神は第一日目から第六日目まで、この世界をつぎつぎと造っていきました。私たちは、そのことの中に神の知恵や力、また愛やいつくしみを見ました。では、第七日目に神は何をなさったのでしょうか。私たちはこの日に何を見ることができるのでしょうか。

 聖書は「神は七日目に休まれた。」と告げています。私たちの多くは月曜日から金曜日まで仕事をし、土曜日は家事をし、六日働いて疲れ果て、日曜日には「休む」のですが、神もまた六日間世界の創造に没頭して疲れたのでしょうか。とくに六日目は人間を「神のかたち」に造るという神経を磨り減らす仕事をして、疲れを覚え、すこしまどろまれたのでしょうか。そうではありません。イザヤ40:28に「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあるように、神は全能のお方で、疲れることのないお方です。詩篇121篇には「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」とあります。神は、ポリスやファイヤーステーション、救急病院と同じように、一年365日、一週間7日、一日24時間、オン・デュティでこの世界と私たちを見守っておられます。数多くの天使たちが神に仕えていますが、神はおひとりで世界の68億人を見守り、その祈りに耳を傾けておられるのです。

 ですから、創世記で「休まれた」とあるのは決して疲れて休んだという意味ではありません。ましてや、世界を創造したあとは世界が勝手に動いていくようにしておいて、そこから手を引いたという意味ではありません。ここで使われている原語には「休憩する」というよりは「止める」あるいは「終える」という意味があります。神が「休まれた」というのは、神の創造のわざを終えられたということなのです。1節と2節に「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」とあってから、「すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」と書かれているとおりです。完成することと休むことが同じ意味で使われています。神は七日目に創造のわざを終えました。しかし、七日目に何もしないで創造のわざを終えたのではありません。第一日目から第六日目まで神はさまざまなものを造りましたが、七日目には何も造っていません。しかし、七日目に何もしなかったのではありません。神はこの日を「祝福」し、この日を「聖別」しています。七日目には六日の間に創造した世界を「祝福」し「聖別」するという大切な仕事が残っていたのです。そして、この「祝福」と「聖別」なしには神の創造は終わらなかったのです。

 造られたすべての物は神の「祝福」と「聖別」が必要ですが、人間にはさらに必要です。神はこの七日目にはとりわけ人間に「祝福」を与え、人間を「聖別」されたことでしょう。「祝福」とは、神の愛と恵みとが注がれ、神とのまじわりへと導かれることです。私たちが礼拝のたびごとに「父と子と聖霊の名」によって受ける祝福がそうです。「御子キリストの恵みに基づき、父なる神の愛が与えられ、聖霊によって神とのまじわりに導き入れられる」という祝福です。私たちはこの祝福によって一週間をはじめるのです。「聖別」というのは、神のものとしてとりわけられることです。旧約時代には、神は数多くの民族の中からイスラエルを神の民としてとりわけられました。イスラエルでは子どもたちのうち長男は神のものとしてとりわけられました。財産の十分の一は神のものとしてとりわけられ、一週間のうち一日は「安息日」として神のものとしてとりわけられました。12部族のうちレビ族たちは神殿で神に仕えるためにとりわけられ、家畜の中から最も良いものは神への供え物としてとりわけられました。神殿に供えるパンも、香油も、すべて神のためにとりわけられ、聖別されました。このように人々も、品物も、場所も、時間も聖別され、新しい存在になり、神のものとなり、意味あるものとなるのです。私たちは、神に造られたということだけでも十分に素晴らしいのですが、神の祝福を受けることによってよりさらに豊かな者となり、神に聖別されることによってより意味あるものとなるのです。造られたものは、たんにこの地に属するだけのもので終わることなく、この祝福と聖別によって、神に属するものとなったのです。

 神は第一日目から第六日目まで混沌から秩序を造られました。しかし、七日目には秩序から聖別へと世界を導いておられます。これは、私たちの人生にとっても必要なことです。たとえば、勉強をして知識や技能を身に着け、仕事に励み、お金を貯めて、安定した生活を得るというのは「秩序」の状態です。多くの人は、そこで終わってしまっていますが、神はさらにその次のもの、「聖別」を人間に求めておられます。神によって与えられた生活がふたたび神にささげられ、神のものとなって、意味のあるものになることです。多くの人は、神の祝福を求めず、また祝福は求めても聖別されることを願わないために、その生活に満足も喜びもなくなっているのです。同じことはクリスチャンの信仰生活についても言うことができます。キリストを信じる者は、神にあって新しく造られました。神は信じる者を罪の混沌から救い出し、その人のために義の道に生きる道筋をととのえてくださいました。しかし、みずからを神にささげ、神の祝福を求めることなしにはその道を歩くことはできません。私たちには、自分の生活のために働く六日間、自分の信仰のために励む六日間だけでなく、神の祝福を求め、自分自身を神のものとして聖別する一日が必要なのです。

 その祝福と聖別の日が安息日であり、クリスチャンにとっての日曜日、この礼拝のときなのです。神は人間に六日働いて一日を休むように命じました。神は人間に創造したものを管理するという仕事を与えましたが、同時に一日はそれを休んで神とのまじわりを持つように命じられました。私たちの六日間の働きは神の創造のわざを引き継ぐ働きです。しかし、それが本当の意味で神の創造のわざにかなうためには、私たちも神が七日目を聖別されたように、この礼拝の日を聖別しなければならないのです。出エジプト20:11に「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」とあるように、安息日は創造の第七日目に神がなさったことにあずかることなのです。ユダヤの人々は安息日の戒めを「何もしないこと」と誤解し、間違った守り方をしましたが、安息日は「何もしない」日なのではなく、神の祝福を求め、みずからを聖別する日なのです。そのことをしない限り、私たちの霊的な疲れはいやされることなく、たましいは憩うことはないでしょう。この安息日に主は招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)この日、この時、このところで、神の祝福を受け、神のものとされるために、神のもとに、主イエスのもとに進み出ましょう。そして、新しい力を与えられて一週間を歩み出そうではありませんか。

 (祈り)

 すべてのものの造り主である神さま、あなたは、第七日目に造られたすべての物、とりわけ人間を祝福し、聖別して創造のわざを終えられました。私たちのどんなわざもまた、あなたの祝福なしには完成しないこと、あなたによって聖別されなければ意味を持たないことを学びました。今、私たちは、「私はあなたのものです」と告白し、自分自身をささげます。どうぞ私たちの一週間の日々に意味を与え、目的を与え、それを祝福で満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/6/2009