祈りの祭壇

創世記12:1-9

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12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

 父の日、おめでとうございます。母の日にはキャンディのギフトがありましたが、父の日にはこどもたちからの賛美の贈り物も無いようですので、父の日にちなんだ笑い話のギフトをお贈りします。

 アメリカの中西部の小さな村での話です。ある秋の日、干草を高く積み上げたトラックが走っていました。ところが積み方が悪かったのか、干草がトラックから崩れ落ちそうになりました。干草を運んでいた父親とふたりの息子は慌てて車を止め、干草を押さえましたが、とうとうくずれ落ちてしまいました。そこに、隣町の老人が車で通りかかりました。ふたりの息子が汗を流して干草をトラックに積み上げているのを見た老人は、自分の車の窓を開けて言いました。「おーい、そこの若いの、すこしは休んだらどうだい。まだ日は高い。そんなにがんばって働かなくてもいいじゃないか。」すると、息子たちは言いました。「『うちのおやじが早くしろ、休んじゃいけない』ってうるさいんですよ。」老人は言いました。「おまえたちのおやじはずいぶん威張っているんだな。若い者にガミガミ言えばいいってものじゃない。おまえたちに働かせるだけで、自分はトラックの座席で休んでいるなんて。おまえたちのおやじの顔が見たいよ。」するとふたりの息子が言いました。「いや、うちのおやじは、崩れた干草の下じきになっているんですよ。」この父親が息子たちに「働け。休むな」と叱っていた理由が分かりましたね。息子たちも、父親がうるさく言うからというので働いていたのでなく、父親を干草の下から救い出そうとしていたのです。

 日本ではかつては「地震、雷、火事、親父」と言って、父親は怖いもののベスト・フォーに入っていました。父親がこどもを叱り、母親が慰めるという役割分担があったようですが、今ではそれが逆になっているようです。物分りの良い、優しいお父さんが増えてきたのは、あながち悪いことではありませんが、父親が果たさなければならない役割が教えられておらず、実践されていないとしたら、それは考え直さなければならないことだと思います。

 一、神のことばに聞く

 では、聖書の教える父親や夫の役割とは何でしょうか。それは、第一に家庭のかしらとして、家族のために、また家族に代わって神のことばに聞き従うということです。

 アブラムは、カルデヤ人のウルというところに住んでいましたが、父親のテラとともにカランに移住しました。しかし、父テラの死後、アブラムは「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」という神のことばを聞いて、やっと慣れ親しんだカランをあとにして、当時カナンと呼ばれていた見知らぬ地へと出かけていきました。信仰とは、まだ見てはいないことを信じることですが、それは、自分の勝手な願いを信じ込むということではありません。信仰は、神のことばに従うことであり、神の約束に頼ることです。アブラムには、この時、まだ子どもがありませんでしたが、妻のサライと甥のロト、それに召使いたちとともに一家を成していました。アブラムはこの一家の長として、神のことばを受け、それを家族に伝え、家族もまた神のことばに従ったのです。

 信仰の一歩は踏み出すのには勇気がいります。アブラムはこれから進んでいくカナンの土地がどんなところなのか知りませんでした。そこが、アブラムの持っている家畜の群れ養うのに十分な豊かな土地なのか、それとも不毛の地なのか、平和なところなのか、それても戦争や内乱があるのか、そこに住んでいる人々が善良な人なのか、それともずるくて乱暴な人たちなのかを何も知りませんでした。アブラムの時代には、ある地域から別の地域に移住するというのは、生きるか死ぬかの大きな決断でした。この決断をアブラムは神に信頼し、神のことばに従うという信仰によってしました。「神が導かれるところが悪い場所であるわけがない。神は『あなたを祝福する』と約束されたことを違えるはずがない」と信じたのです。

 そして、そう信じて一歩踏み出し、カナンの地に立ったアブラムに、神は再び現れて「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と語ってくださいました。このように神のことばに従って一歩を踏み出すなら、その踏み出したところで、神は、さらに次の一歩のために神のことばを与えてくださいます。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」ということばは、アブラムが「この地」と呼ばれているカナンの地に足を踏み入れなければ聞くことができなかったのです。神のことばは私たちの行く道を照らす光ですが、それは一度に五歩も六歩も先を照らすというわけではありません。One step at a time. それは私たちの歩みの一歩、一歩を照らすのです。ですから、信仰生活では、日々の一歩、一歩が大切なのです。一歩、一歩の歩みが人生をつくりあげていくのですから、今、神が示される一歩を従うことによって、人生の目的に向かっていくことができるのです。ですから日々の一歩を忠実に歩みましょう。そこから将来が開けてくるのです。

 家族全体にかかわる大きな決断は、最終的には父親や夫にゆだねられています。たとえ、家族の他のメンバーのアドバイスや助けがあったとしても、決断とその結果の責任は家長に問われます。父親や夫は、好むと好まざるとにかかわらず、そのような責任ある立場に立てられているのです。ですから、男性はアブラムのように、いざというときに神のことばを聞き分け、神のことばに基づいて決断することができる信仰を養っていなければならないのです。しかし、女性にくらべ、男性が聖書を学ぶ時間が少ないのは、どこの国ども同じようです。男性はほとんどの時間を仕事のために割き、家庭のことや子どものためにも多くの時間をとられます。何かの勉強をするといっても、それは仕事関係の勉強であり、聖書を学んだり、信仰の書物を読むことがあまりないかもしれません。仕事と家庭のことで疲れてしまって、聖書の学びに集中できないということもあるでしょう。しかし、ほんとうに良い仕事をし、家族を守り導くためには、どうしても、男性が組織的に聖書を学び、霊的なものを養っている必要があります。私が、二年前から、月一回だけですが、新しいクラスをはじめたのは、若い父親たちにもっと神のことばを学んで欲しいと思ったからでした。このクラスには、女性の方も、もちろん歓迎ですが、アブラムと同じ立場にある方々がもっと多く参加されるように願っています。こうした学びはすぐには役立たないように思えるかもしれませんが、それは信仰をまっとうするために役立つばかりでなく、かならず仕事にも、そしてなによりも家庭のために役立つものになります。そうした学びが男性たちが神のことばに聞き、それによって家庭を導いていくために役立つことを信じ、また願っています。

 二、神に祈る

 父親や夫の霊的役割は、第二に、家族のために、家族に代わって祈ることです。アブラムは神のことばを聞いたとき、そこに祭壇を築いて、神に祈っています。祭壇はそこで神への供え物である犠牲をささげ、祈るところでした。7節の後半に「アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」とある通りです。アブラムはこの祭壇の上でいけにえをささげ、それを焼き、それが焼きつくされるまでの間、祭壇の前で祈りをささげました。祭壇から天に上っていく煙は、神のもとに上っていく祈りの象徴でした。

 アブラハムの作った祭壇は石を積み上げたシンプルなもので、移動するときにはそのままそこに残していったようです。そして、行った先々で新しく祭壇を築きなおしました。8節に「彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」とあります。この後もアブラハムは何度も祭壇を築いたことでしょう。アブラハムの子どもイサクや孫のヤコブもまた、行くところどこに祭壇を築いて、神を礼拝し、祈っています。のちに神がアロンとその子どもたちをイスラエル全体の祭司として任命されるまでは、父親たち、夫たちがそれぞれの家族の祭司でした。彼らは祭壇を築き、一家の長、家長として、家族のために、また家族に代わって神に祈りました。アブラムと同時代の人、ヨブも息子たちひとりひとりのために「全焼のいけにえ」をささげていたとあります(ヨブ1:5)。

 新約の時代、大祭司であるイエス・キリストは、すべての信仰者を祭司としてくださいました。キリスト者ひとりひとりには他の人のため、また、この社会のためとりなし祈る責任が与えられています。私たちはときどき、この世がどんどん悪くなっていくのを嘆くことがあります。そのとき、この世がどんどん悪くなっている責任が、私たちキリスト者にもあることを忘れてはいけないと思います。キリスト者はこの世の闇を照らす「世の光」、社会の腐敗を防ぐ「地の塩」です。社会のため、世界のためのキリスト者の熱心な祈りが足らないために、そうした問題が起こってくるのかもしれません。世界はキリスト者の祈りを必要としています。

 同じように、家庭もまた、家庭の祭司である家長の祈りを必要としています。しかし、聖書の学びと同じように、祈りに関しても、女性にくらべ、男性のほうがそれに割く時間が短いと思います。しかし、たとえ時間が短くても、いや、多くの時間を取れないないからこそ、集中した、心からの祈りを、男性は神にささげることができるよう、訓練されなくてはならないと思います。朝のあわただしい時間であっても、工夫しだいで聖書を開き、祈ることもできます。職場に少し早く着いて、祈りの時間を持ってから仕事にとりかかるのも良いでしょう。昼休みに散歩をしながら祈ることができます。帰りのトラフィックの間に聖書のメッセージや賛美を聞けば、車の中がサンクチュアリーになります。仕事から帰って夕食の前後に一日を振り返って黙想の時を持つことができたら、それはどんなにか心のからだのいやしになり、明日への力になることでしょうか。クリスチャンホームでは、夫婦で祈りのときを持っている人が多いと思います。ぜひ続けてください。土曜日や日曜日にはこどもも一緒の「家庭礼拝」をしてみませんか。こどもといっしょに賛美し、バイブルストーリーを語ってあげ、みんなでいっしょに祈るのです。父親が自分のことばでストーリーを語ってあげられたら一番いいのですが、それができなければ、適当な聖書物語の本から読みきかせてあげるのも良いでしょう。

 アブラムをはじめとして信仰の父祖たちがそうしたように、私たちも「祈りの祭壇」をそれぞれの家庭にしっかりと築いていきたいと思います。私たちの祈りの祭壇は、リビングルームの一角やダイニングテーブル、オフィスのディスク、また車や散歩道にあるかもしれません。決まった時間に、決まった場所で祈リ続けることによって、そこに「祈りの祭壇」が作り上げていきましょう。

 聖書を読み、祈る。それは誰もができるものですが、それが確立するまでは、基本的な訓練が必要です。教会での学びやまじわりの時が、そうした訓練を受け、互いから学びあう時となるよう、願っています。「聖書のどこをどのように読むのですか」「何をどうやって祈るのですか」という質問を歓迎します。共に学びましょう。また、信仰の先輩の方々には初心の人にそうしたことを教え、自分の体験を分かち合えるようになって欲しいと思います。

 すでに祈りの習慣が身についている人々は、さらに、祈りを深めていきましょう。聖書の学びには卒業はありません。他の人に教えることができるほど聖書を学んだとしても、学び尽くすことはありません。私たちは生涯、みことばの生徒です。同じように祈りにおいても、もう学ぶことは何もないと言うことができる人はありません。「祈りの学校」においても、私たちは生涯、生徒なのです。聖書に、歴史に、数多くの学ぶべき祈りがあります。私は「祈りのリトリート」を開いて、そうしたことを実践的に学びたいという願いをもっています。もし、皆さんの中に「祈りの祭壇」が崩れてしまっていると感じている人があったなら、こうした「祈りのリトリート」は役に立ちます。そこは祈りについて学ぶだけでなく、実際に祈りの生活をして、祈りを身に着ける場所だからです。神は、「祈りの祭壇」を築きなおそうと努力する者に、かならず力を与えてくださいます。ですから、熱心に神の助けを願い求めましょう。「主よ。私たちにも、祈りを教えてください」と、さらに深く広い祈りを目指して、キリストから学び続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、教会に多くの父親たちを与えてくださり感謝いたします。今朝、あなたが父親たちに、その家族のために、また、その家族に代わって、みことばに聞き、あなたに祈るという重い責任が与えられているということを学びました。父たちの父よ、どうぞひとりひとりがその責任を果たすことができるよう、助け、導いてください。また、私たちひとりひとりも、自分のために「祈りの祭壇」を築きなおし、教会のため、自分のため、家族のため、社会のためたゆみなく祈り続け、あなたからいただいた祭司のつとめを果たすことができますように。主イエスのお名前で祈ります。

6/20/2010